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誰そ彼の岸  作者: 小雨
1/4

黄昏の岸

..1

 小さい頃、よく姉と田舎の祖母の家に遊びに行った。

 祖母の家は山深いところにある。昼間は近所の子とカブトムシやセミを捕まえに行ったりできるから問題ないのだが、日が暮れた後はとにかく暇だった。テレビを見ていても何となく面白くない。仕方なしに、ぐるぐると渦を巻いた蚊取り線香が、細く頼りない一筋の煙をくゆらせて空気に溶けて消えていく様子を、姉と一緒に縁側に腰掛けながらぼんやりと眺めていたものだった。

 そのときは珍しくまだ太陽が水平線に沈む前から勇樹は姉の氷雨と一緒にいた。黒々としたシルエットの木々の向こうでオレンジがかった色の太陽が、空を赤く染めている。祖母からもらったバニラアイスを舐めつつ、勇樹はそんな黄昏を退屈しながら眺めている。

 りーんりーん、と風鈴が生温かい風に揺らされ澄んだ音を立てたとき、同じように縁側に腰掛けてぼんやりアイスを舐めていた姉がこちらを見て言った。

「勇樹、お前、こんな話を聞いたことあるか?」

「なに?」

 また熱を帯びた風が吹いて、姉の肩まで伸びたつやのある髪がさらさらと揺れる。真っ黒な瞳が面白がるような色を浮かべて勇樹を見つめていた。

「おばあちゃんの家から出た道を右にまっすぐ行くと森があるだろう?」

「うん」

「あの森には、こわーいおばけが出るんだって。そのおばけに見つかると、腕と足を取られて、頭と体だけにされてしまうんだって」

「うえー、何それ」

 勇樹は顔をしかめるが、心の中では子ども独特の豊かな想像力でその情景をまざまざと思い浮かべてしまっていた。暗い森の湿った土の匂いが足元から立ち上り、そこを自分は歩いている。四方は闇の帳に囲まれて、ほんの数メートル先さえ見通すことが出来ない。それなのに、どこからか、首の後ろがちりちりとするような、そんな視線を感じている。自分のものではない息遣いが耳をくすぐっている。振り向いても誰もいない。しかし、確かに何かがそこにいる。不意に、強い力が足首をがっと掴む。そこには自分を引き裂こうと暗い執念を燃やしている何かが存在しているのだ。そして、どんなに想像を巡らせてみてもその何かの顔が、勇樹にはどうしても見えない。闇が正体を覆い隠している。

 決して顔が見えない。そのことに何故か背筋がぞくりとした。

「なあ、勇樹。本当にそんなものがいると思うか?」

「んなもんいるわけねえじゃん。何言ってんの姉ちゃん」

「じゃあ、確かめに行こうか」

 え、と勇樹は自分でも間抜けだと思うような声を上げていた。氷雨は相変わらず綺麗な白い歯を唇から覗かせて笑っている。

「本当にいないかどうか。その、何かが、ただの噂かどうか。夕飯まで時間があるし、見に行こう」

「……姉ちゃん、マジで言ってんの」

 当たり前だろうと姉は頷いた。ぽたりと垂れたバニラアイスが手について、勇樹は慌てていつの間にか溶けてどろどろになった部分を舐め、次いで手に付いた白い液体をぺろりと舐める。液状になったアイスはやたらと甘い。

「大丈夫。ちょっと覗いて帰るだけだ。それに、多分お前の言う通りそんなものいないだろうしな」

 そう言われてしまえば、何となく断りづらい。本当のところはちょっと怖いと思っているし、乗り気ではなかったのだが、勇樹は空意地を張って何でもない顔でいいよと頷いた。

..2

 赤く染まったあぜ道を勇樹と氷雨は並んで歩いた。アブラゼミのうるさい鳴き声がそこら中から響いてくる。風が吹く度に、足元の雑草がさーっと音を立てて揺れた。もうすぐ日が暮れるという時刻になっても、夏の暑さはしつこく地表にとどまり続けていて、顎の辺りを汗が伝って降りていく。

 ほとんどすれ違う人はいないが、ごくたまに二人は逆から歩いてきた人と顔を合わせることがあった。ちょうど逆光になっているせいで顔は良く見えないが、その人は勇樹たちに「やあ、こんばんは。子どもは早く帰んなきゃだめだよ」と声を掛けたので、多分会ったことのある人なのだろうと勇樹は判断し、氷雨に続いて挨拶を返す。それからまた二人は暫く歩いていたのだが、そんなとき氷雨が口を開いた。

「ただ歩いてるのもなかなか暇だなぁ。というわけで勇樹に問題」

「おい、いきなりだな姉ちゃん」

「こういう夕暮れ時のこと、何て言うでしょう。ヒントは『た』だ」

「た?」

 小学校中学年への問題にしては少し難題なんじゃないかと思ったが、最近読んだ漫画に出てきていた気がする。勇樹は少しばかり首をひねってから、すぐに思い出した。

「あ、わかった! タソガレだろ?」

「正解だよ、よくわかったな」

 氷雨は嬉しそうににこにこしながら勇樹の頭を撫でる。それ自体は別に嫌ではなかったが、何となく気恥ずかしいというか、カッコ悪い気がして勇樹は「やめろよ姉ちゃん」とその手を退けた。しかし氷雨は気を悪くした様子もなく、依然としてにこりと笑いながら今度はこう続けた。

「じゃあ、なんで黄昏っていうのかは知ってるか?」

「いや、知らないけど」

「こう考えてみればすぐわかるよ。完璧に暗くなったわけじゃないけれど、はっきりとは見えない。薄暗い闇が視界を遮る。だから、もし誰かとすれ違ったらそうとわかるが、顔までは見えない。そんなとき、お前だったら何て言う?」

「俺だったら……」

 言われて、勇樹はそんな状況を思い描いてみる。前から歩いてくる人影。顔は暗くて良く見えない。さくさく土を踏む音と、人の形をした黒い塊ばかりが近づいてくる。だが、どこかで見たことがあるような雰囲気だ。挨拶を交わしてみると声も聞き覚えがある気がするのに、どうもそれが誰だったのか思い出せない。そんなとききっと勇樹は隣を歩く姉を見上げてこう言うのだろう。

「あの人、誰だっけ?」

 すると氷雨は満足げににんまりと笑みを作った。

「そうだろう。昔の人だっておんなじさ。しかも、今みたいに街灯なんかが無かった頃は本当に全然見えなかったのかもしれないな。だからこう言った。『そ、彼は』」

 これがタソガレの元になった言葉だそうだよ、と氷雨は言って、少しずつ藍色に染まりつつある空を見上げて目を細めた。

「目の前の人が誰かもわからないって、どんな感じなんだろうな。知り合いかもしれないし、恐い人かもしれない。……さっきすれ違った人だってどうだかわからないよな。あの人だって私たちが気付かなかっただけで、ひょっとしたら……」

「や……やめてくれよ姉ちゃん」

 考えたくもないことを言われて思わず勇樹は氷雨の言葉を遮ってしまった。ついさっき、すぐ側を通り過ぎた人が、もしかしたら人間ですらない存在だったのかもしれない。そんな想像が嫌でも頭に浮かんでくる。あれが生きている知り合いだという確証などどこにもないのだ。あの人の頭から、大量の血が流れていたり、本来髪に覆われているべき場所から白い頭蓋骨が覗いていたりしないとは、はっきり顔を見ていない勇樹には絶対ないとは言い切れない。そんなことはありえないとは思うが、ひょっとしたら……という思いを、まだ幼い勇樹が振り切るのは難しかった。

「……そら、そんなことを話している間に着いたぞ」

 はっとして目の前の黒々とした森林を見上げる。夕日はまだ落ちていないとはいえ、こんもり茂った葉に遮られて森の中はやはり薄暗い。本当に入るのだろうか。土壇場になって、勇樹は家に帰りたいと強く思ったが、氷雨は生き生きした表情で腕を組んで森を眺めている。

「ふふ、わくわくするな。さあ、遅くならないうちに行こうか」

「……う、うん」

 森に入るのも嫌だが、ここから一人で帰るのはもっと嫌だった。仕方なしに勇樹は頷いて、心細さを姉の手を握ることで何とか収める。氷雨もぎゅっと力強く勇樹の手を握り返した。その感触が何とも頼りがいがあって、おかげでどうにか勇樹は森の中へ足を進めることができたのだった。

..3

 悲しげに鳴き叫ぶヒグラシの声がひっきりなしに鼓膜を叩く。氷雨の懐中電灯から伸びるぼんやりした光の筋を頼りに勇樹は黙々と歩いている。喋る気にならなかった。虫の声はこんなにうるさいのに、ここには人間が立てる音と言ったら勇樹たちの地面を踏むかすかな音だけなのだ。まるで二人だけ取り残されてしまったような孤独感が、勇樹の口を固く結ばせる。ゆらゆら、氷雨の腕の動きに合わせて揺れる光が生き物のように見えた。こっちだよ。そんな手招きでもしているように。

「……あれ、何だろう」

 むっつりと黙って下を向いていた勇樹は、姉の声にゆっくりと顔を上げる。

 そこだけ切り取ったかのように、森が途切れて血のように赤い空が顔をのぞかせていた。暗くて懐中電灯の明かりがないと足元もおぼつかない森とは違い、そこはまだ夕暮れの明るさに包まれている。右に左に顔を動かして眺めて気付いたが、円形に木々を切り倒して作った空間のようだ。その円の中心には、古びた廃屋が鎮座しているのだった。尖った三角の屋根、苔の蒸した煉瓦は異国を思わせる。洋館だった。

「こんなところに家が建ってたなんて。しかも随分古そうだな。人が住んでたのは、何十年も前なんじゃないかな」

 洋館を取り囲む塀の正面、歪んだ門に氷雨は懐中電灯の先を向けて照らした。腐った木の表札が付いていたが、書かれた名前は風化して掠れているので、読み取ることはできない。しかしかすかに、岡という字が見える。

「山岡、谷岡、染岡……駄目だ、わからん。まあ、いいか、名前なんて」

 首を傾げて岡の名前を思い付くままに連ねていた氷雨はやがて諦めて、赤い錆の浮いた鉄柵の門を押す。ぎい、と聞くだけで気がめいるような音を立てて、門はゆっくりと開いた。その不快な音ではっと我に返った勇樹はいそいで姉の手を引く。

「姉ちゃん、こんなとこ入る気かよ!」

「なんだ、素敵な家じゃないか。朽ち果てたところが歴史を感じる」

「それ全然笑えないから。それに勝手に人ん家入ったらいけないんじゃないの?」

「今は誰も住んでないから、文句言う人もいないだろう」

 氷雨はくすりといたずらっぽく笑う。間食に厳しい母の目を盗んで勇樹に駄菓子を買ってくれた時とまったく同じ顔だ。勇樹は、この表情をするときの姉に何を言っても無駄であると知っている。観念して、勇樹は無人の洋館を見上げた。大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かせる。こんなのただの古いボロ家だ。何も居やしない。せいぜい、野良犬が入り込んでいるかもしれないというくらいで。

「あ、もうこんな時間か。さっと見てさっと帰ろう」

 氷雨がウサギのキャラクターの付いたチープな腕時計を見て言った。時間がないなら今すぐ帰ればいいのに。その言葉は呑みこんで、姉と共に洋館の庭に足を踏み入れた。

 その時だった。

 うなじの辺りに生温かい息がかかった。何かが腐ったような臭い。それは、勇樹の耳元にそっと言葉を流し込む。


  おかえり


 弾かれたように振り向く。どくん、と一度大きく跳ねた心臓は、その後急速に収縮の速度を上げて冷たい血液を全身に送り出す。当然のように、背後には何もいない。鉄柵の筋の向こうに、黒々と茂る森ばかりが広がっている。だが勇樹は知っている。今、そこに、何かがいたのだ……。

「どうした!? 何か、あったのか?」

 氷雨が様子のおかしい勇樹の顔を覗き込み、心配そうに尋ねる。姉の顔を見て勇樹は少しほっとした。

「何でもない。耳の側をハエが通ってちょっとびっくりした」

「そっか。それなら良かった」

 氷雨は安堵の笑みを浮かべる。そしてもう一度勇樹の手をしっかり握り直して、洋館の玄関の戸をゆっくりと引いた。傷んだ木というのはどうしてこうもそろって嫌な音を立てるのだろう。ぎいい……と耳障りな音に耳を塞ぎたくなる。そして、四角い空間に広がる闇が勇樹と氷雨の前に現れた。何十年も、誰にも侵されることなく闇は闇であり続けたのだろう。そこに氷雨が懐中電灯の白い光で闇を切り裂いた。それが、闇の機嫌を損ねることにならないと誰が言い切れるだろうか。勇樹は身震いする。嫌な予感が頭に警鐘を鳴らし始めている。

「うわ、ほんとに埃まみれだな……」

 土足で上がり込み、氷雨は玄関ホールの吹き抜けを見上げる。現代の感覚でも豪邸と言えるような広さだが、いかんせん荒れているためまったく羨ましいとは思えない。氷雨は右手にあるドアのノブを掴んで恐る恐る押しあけた。ふわりと音もなく舞い上がった埃が懐中電灯の白い光の筋に無数に浮かんでいた。氷雨がきょろきょろと明かりを動かすたびに、その部屋の内装が浮かび上がる。壁にかかった黄昏の川の大きな絵が一際目を引いた。サイズもそうだが、幻想的な色合いが人の心を惹きつける。部屋の中央にはテーブルと灰色に覆われ元の色が想像できないソファが二つ、壁掛け時計は八時二十五分を指していたがそれがいったい何年前の八時二十五分なのか皆目見当がつかない。家主は引っ越したわけではないのだろうか。家具や内装からして、この家からは人だけが突然消えてしまったように見えた。

「おお恐い。なんだこれは」

 氷雨がおどけたようにそう言って、勇樹の手を離して床にかがみこむ。そして何かを拾い上げた。勇樹は氷雨の手のものを覗き込んで見た途端息を呑んだ。

 手足のもぎ取られた人形だった。

「噂の出所は、もしかしなくてもここだな」

 氷雨はひっくり返したりしてその気味の悪い物体をつぶさに観察している。人形は勇樹も見たことがあるような、普通の女の子が人形遊びに使うものに思える。きらきらしたまつ毛の長い目とやわらかい微笑みをたたえた口許だけが正常で、余計に不気味だ。かといって苦悶の表情を浮かべられた方がもっと恐ろしいに決まっているのだが。

 芋虫のようになっている人形はそれ一体だけではなかった。床一面に、ぽつりぽつりと散らばっている。十体くらいはあるかもしれない。そのどれもが、小さな子供が遊ぶような女の子の人形だった。氷雨は興味しんしんにそれらを見て回っている。しかし勇樹はこんなもの見ていたくなくて床から顔を上げた。

 細く開いたドアの隙間から白い手がぬるりと飛び出していた。

 びくりと勇樹は全身を硬直させた。一気に体温が下がっていくのに、汗ばかりが噴き出して首筋を伝って降りて行く。目をそらせない。あれはなんだ、あの白い手は、誰の手なんだ。自問しても、答えが見つかるはずもない。


  おかえり


 門の所で聞いた幻聴をまたはっきり思い出す。いや、本当にそうだろうか。今のは、あの声を、この瞬間もう一度聞いたのではないか。ぞくりと鳥肌が立つ。白い手は、静かにそこにあって、何も行動を起こさない。氷雨は人形に気を取られてあれに気付いていない。あれを見ているのは、この家で勇樹一人だけなのだ。

 やがて白い手は、するりとドアの向こう側に引っ込んでいった。まったく、空気をかき乱すこともない。それが、あの手がこの世のものではないことを示している確かな予感がした。

 勇樹は吸い寄せられるようにそのドアに近づく。この薄い腐りかけた木の板一枚向こうに、こんな近くに何かがいるのだ。顔も見えない、手だけしか見えなかった何かが。勇樹は、まるで操られるかのように、そっと、扉を押した。

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