第1話:馬田未来男
人生というやつは、いつだって最悪のタイミングで「オチ」をつけてくる。
馬田 未来男。三十五歳。
業界の連中からは、本名を捩って「マダマダオ」と呼ばれている。
「まだ、ダメな男。略してマダマダオ。最高に覚えやすいペンネームだろ?」
そう言って笑った担当編集の顔を、俺は一生忘れない。だが今日、その屈辱的なあだ名は過去のものになった。
「……本当ですね? 書籍化、進めていいんですね!」
駅前の喫茶店。俺は使い古したノートPCを叩きそうな勢いで身を乗り出した。
向かいの編集者が、苦笑いしながら頷く。
「ええ。Webでの反響、そして物語の構成力。未来男さん、あんたの勝ちだ。今日でマダマダオ卒業ですね」
心臓が、耳元で鐘を突いたような音を立てた。
勝った。
読者の好みを分析し、市場の空白を突き、一歩ずつ積み上げた「戦略」。そこに降ってきた、ラストシーンの「閃き」。そのすべてが、ついに実を結んだのだ。
真っ先に報告すべき相手の顔が浮かぶ。
昼間は事務員として働き、定時を過ぎれば弁当屋のパートへ向かう、あの女。
俺を食わせるためにダブルワークでボロボロになりながら、一度も「辞めて」と言わなかった彼女。
「最近、アイツよく躓いてたからな。眼鏡の度でも合ってねえんだろ。書籍化が決まったら、最高級のやつを買ってやるよ」
俺はそんな能天気なことを考えながら、冬の夜風に吹かれて駅へ向かっていた。スマホで彼女にメッセージを送ろうとした、その時だ。
街灯の届かない路地の入り口。一匹の猫がアスファルトにうずくまっていた。
腹が異常に膨らんでいる。臨月の野良猫だ。
そしてその先――曲がり角から、猛スピードで突っ込んでくるトラックのライトが見えた。
(……やめとけ。俺には、やるべきことがある。あいつを幸せにする、という戦略の大目標があるんだ。こんなところで道草食ってる場合じゃねえ……)
脳裏に、疲れ切った顔で笑う彼女がよぎる。
ここで死んだら、俺は一生「マダマダオ」のままだ。
理屈ではわかっている。作家の脳は「無視しろ」と冷徹な警告を出している。
だが。
「……あー、ちょ、待てよぉ!!」
喉の奥で悪態を吐き捨て、俺の足はアスファルトを蹴っていた。
ダセェ。戦略もクソもあったもんじゃない。
だが、もしここで逃げれば、俺はあいつに一生顔向けができない。あの女は、俺という「死にかけの野良犬」を、今日まで見捨てずに拾い続けてくれたんだから。
ドン、という衝撃。
空が回った。
抱き上げた猫の温かさと、柔らかい毛の感触。
(……ああ、やっぱり俺は……マダマダオ……だったわ……)
俺の意識は、真っ暗な闇の中に溶けて消えた。
*
次に目覚めた時。視界はひどく低く、そして霞んでいた。
「ミャー」
変な声が出た。高く、掠れた鳴き声。
周りを見渡せば、同じような鳴き声を上げるふわふわの塊が三つ。
そして、目の前には巨大な――あの時の野良猫が、慈しむように俺を舐めていた。
(嘘だろ。まさか、俺が、こいつのガキに……?)
混乱したが、不思議と恐怖はなかった。
隣で鳴いている兄弟たちは、ぬいぐるみのように愛くるしい。
鏡はないが、確信があった。この美形の母猫から生まれたんだ。俺もさぞかし、将来有望な美形子猫に違いない。
(ふっ……これなら、あの女の前に現れれば一発でイチコロだな。猫の手も借りたいほど忙しいアイツを、今度はこの『美貌』で癒やしてやるか)
俺は満足げに目を細め、母猫の乳に吸い付いた。
作家、馬田 未来男。享年、三十五歳。
猫、名前はまだ無い。
俺はまだ知らない。
自分が兄弟の中で唯一、鼻の下に立派な「泥棒ヒゲ」模様を持つ、控えめに言っても不細工な部類だという非情な現実を。
そして、俺に心配をかけまいと、彼女がひた隠しにしてきた「光が消えゆく病」の正体を。
史上最も不器用な、そして前途多難な「恩返し」の第1ページが開かれた。
【次回予告:第2話】
俺の作家人生は、トラックのライトに照らされて幕を閉じた。
……はずだったが、目を開けると、そこは近所のゴミ捨て場。
なぜか視線は地面に近く、俺の体は毛むくじゃら。
「ミャ!?(嘘だろ、異世界どころか近所のゴミ捨て場かよ!)」
しかも、そこへ現れたのは、俺が捨てたはずの元カノ・光。
猫として彼女に拾われるための、元作家・渾身の「美猫ポーズ」!
だが、絶望の淵にいる彼女の口から出たのは、予想だにしない一言だった。
「……頑張るのよ、泥棒さん」
泥棒? 王子の間違いだろ?
鏡を知らない俺の、勘違いだらけの生存戦略が今、始まる!
第2話:泥棒ヒゲの生存戦略
「フッ……。見てろ、俺のこの美貌で、お前を骨抜きにしてやるぜ」




