「君のような守銭奴は願い下げだ!」と言われましたが、あなたの生活費、全部私のポケットマネーですけど大丈夫ですか?
「エドワード様……今、なんと仰いましたか?」
王都の一等地にある子爵邸。その大広間には、冬の湖面のような冷ややかなシャンデリアの光が降り注いでいた。
グラスが触れ合う軽快な音、華やかな香水の香り。それらすべてが、エドワード様の言葉一つで凍りついたようだった。
私は手にした白檀の扇をパチリと閉じる。その乾いた音が、静寂に小さな亀裂を入れる。私は感情の一切を削ぎ落とした瞳で、目の前の男を見据えた。
「耳まで腐ったか、セシリア! 君との婚約を破棄すると言ったんだ。私はついに真実の愛を見つけた。リリー、君こそが私の未来だ」
エドワード様は、隣で小動物のように震えてみせる男爵令嬢、リリー様の華奢な肩を抱き寄せる。
彼女は私の視線に怯えるふりをしながら、上目遣いに私を見る。その潤んだ瞳の奥には、隠しきれない優越感と、敗者を嘲笑う昏い光が宿っていた。
「ごめんなさい、セシリア。でも……愛は誰にも止められないの。あなたはいつも帳簿やお金の話ばかり。可哀想なエドワード様を、もう解放してあげて」
その言葉を合図にしたように、周囲の貴族たちから忍び笑いが漏れ始めた。扇で口元を隠した令嬢たちが、面白可笑しそうに囁き合う。
「あらあら、振られちゃったわね」「やっぱり商家の娘は品がないもの」「愛より金貨がお好きなんでしょう?」
「金の亡者の令嬢」──そんな安っぽい嘲笑が、さざ波のように広間を満たしていく。
──私が来る日も来る日も金の話ばかりしていたのは、誰の家の赤字を埋めるためだったと思っているの?
喉まで出かかった言葉を、私は冷たいシャンパンと共に飲み下す。そして、小さく、しかし肺腑の底から深くため息をついた。
「……はぁ」
それは呆れではない。純粋な哀れみだ。
どうやら、慈悲をかけてやる時間は終わったらしい。私はゆっくりと顔を上げた。
「確認いたしますわ、エドワード様。あなたは自らの意思で私との婚約を破棄し、その令嬢との【真実の愛】を選ぶ。そう断言されますのね?」
「ああ、何度でも言ってやる! 君のような可愛げのない女はもう御免だ。愛さえあれば金など不要だ!」
「まあ。……それは、素晴らしい覚悟ですこと」
私は口角だけで微笑み、背後の闇に控える従者へ、優雅に指先だけで合図を送った。
彼がうやうやしく捧げ持ってきたのは、別れの記念品でも、涙を拭うハンカチでもない。黒革の表紙に金文字が刻まれた、鈍器のように分厚い帳簿が三冊。
ズシンッ。
大理石のテーブルに置かれたその質量に、広間の空気が物理的に震えた。
「な、なんだそれは……」
「エドワード様が最もお嫌いな【お金】のお話ですわ。いえ、もう他人ですので、正確には【負債の完全清算】と申し上げましょうか。我がローランド商会が五年間で貴家に投じた資産──そのすべてを、今この瞬間をもって回収いたします」
私は一冊目の帳簿を開く。使い込まれた紙とインクの匂いが、彼らの甘ったるい香水の香りを一瞬で塗り替えた。私は整然と並ぶ数字の羅列を、美しく磨かれた爪先でなぞる。
「まず、小手調べに……本日の夜会の会場費、楽団への特別報酬、最高級の食材費。エドワード様が今お召しの特注の燕尾服。そしてリリー様、その細い首で輝く大粒のルビー」
「えっ……」
「それらすべての所有権は我が商会にあります。直ちに使用許可を取り消しますわ」
リリー様が反射的にネックレスを押さえ、怯えたように後ずさる。
「こ、これ、エドワード様がプレゼントしてくれたって……!」
「ええ。私の商会の公金を、『交際費』という名目で勝手に流用して購入されたものですから。まさか、【真実の愛】を語るのに、他人の金で買った飾りが必要だなんて仰いませんわよね?」
リリー様の白粉を塗った顔から、さっと血の気が引いていく。その唇がわななき、言葉を失う。
「では、ギルバート判事。執行を」
私の呼びかけに応じ、広間の影から一人の青年が静かに歩み出た。
王立裁判所の若き俊英にして、冷徹なる法の番人。彼は無感情に銀縁眼鏡の位置を直すと、氷点下の視線を二人に向けた。
「ふざけるな! 服や飾りくらい、後で払ってやる!」
「おや、払っていただけるのですか? それは心強い」
私は扇で口元を隠し、眼だけを細めて笑う。
そして、最も分厚い三冊目を開いた。
「では本題です。ドニゴール地方の復興資金──三年前の大飢饉、昨年の洪水被害。あれほどの甚大な被害から、なぜ貴方の領地だけが奇跡的に復興できたか、お忘れではありませんわよね?」
エドワード様の顔色が、瞬く間に土気色へと変わる。額に脂汗が滲み、呼吸が荒くなる。
「あ、あれは……婚約に伴う、君の実家からの支援金だと……」
「ええ。ただし、契約書には特約がございます。『不義による一方的な婚約破棄の場合、支援金は全額即時返還。返済不能の場合、領地運営権および全資産を債権者に譲渡する』と」
「……間違いありません。証書もここに」
ギルバート判事が、死刑宣告のように無機質に告げる。
「過去五年間の総額──法定利息を含め、金貨一万二千枚。現在の貴家の領地税収、約五十年分に相当します」
「い、一万……ッ!?」
広間が静まり返った。誰かのグラスが手から滑り落ち、カシャンと硬質な音を立てて砕け散る。
悲鳴すら上げられない絶望的な沈黙が、そこにはあった。
「そ、そんな金……払えるわけが……!」
「おや。先ほど『いくらでも払う』、『愛があれば金はいらない』と高らかに仰いましたのに?」
私は凍りつくような笑みを浮かべ、リリー様へと向き直る。
彼女はもう、私の顔を見ることもできず、ガタガタと震えていた。
「リリー様。おめでとうございます。エドワード様は本日をもって、領地も爵位も失ったただの重債務者となりました。明日からの生活に、豪華な馬車も、シャンパンも、美しい庭園もございません。あるのは泥水のようなスープと、天井まで届く請求書だけですわ」
「……いや」
リリー様の手が、まるで汚物に触れたかのようにエドワード様から離れた。
「そ、そんなの聞いてない! 私は、次期子爵夫人になれるって聞いたから……!」
「リリー!? 君、何を言って……」
「触らないでよ、この貧乏人!!」
広間に響いたのは、愛の誓いよりも鋭い、罵倒の声だった。
崩壊まで、わずか三分。あまりにも脆く、あまりにも滑稽な結末に、私は興味を失って背を向けた。
「判事、連れて行って差し上げて」
「待て! 待ってくれセシリア! 悪かった、冗談だ! 魔が差しただけなんだ、愛しているのは君だけだ!!」
「法の庭に、冗談は通用しませんわ」
衛兵に引きずられていく男の無様な叫び声が、扉の向こうへと遠ざかっていく。
嵐が去ったかのような静寂の中、私はギルバート判事へ向き直った。
「助かりましたわ。おかげで長年の不良債権が、綺麗に片付きました」
「……相変わらず、身の毛もよだつほど冷酷な事務処理ですね」
ギルバートはふっ、と表情を緩め、眼鏡の奥の瞳に微かな熱を宿した。
「ですが私は、貴方のその計算高い合理性を……心から愛しています」
彼は私の手を取り、甲に恭しく口づけを落とす。それは形式的な礼儀ではなく、崇拝にも似た親愛の証。
「次は、利息も返済義務もない『永年契約』を結んでいただけますか?」
私はその手を取り返し、彼を引き寄せて耳元で囁いた。
「ええ、構いませんわよ? ただし──私の維持費は高くつきますから、覚悟してくださいね?」と。
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