それが、あなたの選んだ結末では?
実験的に書いた作品です。
王城地下の牢獄は、昼なお暗かった。湿った石壁に水が滲み、松明の炎が弱々しく揺れている。鉄扉の軋む音が響くたび、長い回廊の奥で誰かが怯えたように身を竦めた。
エリシア・ヴァレンシュタインは、その音の向こうに立っていた。
伯爵家の令嬢でありながら、彼女の立ち姿には威厳があった。その淡い銀髪を背に流し、蒼い瞳は一点の迷いもなく牢の中の人物を見据えている。
そこにいたのは、レオンハルト・クロフォード。
かつて彼女の婚約者だった男。
薄汚れた囚人服を纏い、床に膝をつき、両手を鉄格子に縋らせて彼女を見上げていた。
「エリシア……! 頼む、助けてくれ……!」
震える声が、地下牢に虚しく反響する。
「君だけなんだ……王太子殿下に口添えしてくれれば……私は……私はまだ……」
その必死な懇願を、エリシアは無言で聞いていた。
――あなたは、何をしてきたのかしら。
そう、思い返す。
すべては、あの日から始まった。
◇
「――お前との婚約を破棄する」
その言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも軽かった。
春の夜会の中央広間。
楽団の演奏がちょうど終わり、談笑と笑い声が満ちていたその瞬間に、レオンハルト・クロフォードはそう宣言した。
一瞬、意味が理解できなかった。
エリシアは彼の顔を見つめたまま、ただ瞬きをした。
その横顔は、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべている。
「……冗談、ですわよね?」
周囲の貴族たちが一斉にこちらへ視線を向ける。
ざわめきが、音楽の消えた会場にじわじわと広がっていった。
レオンハルトは静かに首を振った。
「いいや。冗談ではない」
「どうして……?」
かろうじて絞り出した言葉だった。
レオンハルトは一歩前へ出た。
まるで舞台の役者のように、視線を集める位置で立ち止まる。
「理由なら、はっきりしている」
そう言って、彼は冷ややかな目でエリシアを見下ろした。
「君は、クロフォード家の金庫管理に不正に関与し、横領を行っていた」
空気が凍りついた。
「……なにを……」
「証拠も、すでに王城へ提出してある」
エリシアの言葉は、そのまま喉で凍りついた。
会場がざわめく。
好奇の視線、疑念、失望、侮蔑――そのすべてが、エリシアに突き刺さった。
「そんなこと、私はしていません。帳簿にも触れたことがありませんし、横領などありえませんわ」
だが、その声をかき消すように、背後からゆったりとした拍手が響いた。
「まあ……往生際が悪いこと」
振り向いた先にいたのは、クラリス・フェンリルだった。
白薔薇色のドレスに身を包み、余裕の微笑を浮かべている。
「証拠なら、こちらにございますのよ」
クラリス・フェンリルは手にした書類束を掲げた。
「クロフォード家の金庫帳簿。そこに記された出金指示、そして――エリシア様の署名」
会場に、どよめきが走る。
エリシアは一歩も動かず、その書類を見つめた。
紛れもなく自分の筆跡を模した署名。だが、紙の質、墨の滲み、封蝋の歪み――どれも本物とは違っていた。
「偽物ですわ」
クラリスは肩をすくめ、嘲るように笑った。
「では、王城監査官も騙されたと?」
「あなた方が提出したものを、そのまま信じただけでしょう」
レオンハルトが苛立たしげに割って入る。
「見苦しいぞ、エリシア。証拠は揃っている」
エリシアは彼を見つめた。
「……本当に、そう思っているの?」
その一言に、レオンハルトはわずかに目を逸らした。
だが、群衆の視線に背を押され、彼は声を張る。
「当然だ。君は横領を行った。よって、この場をもって婚約を破棄する」
拍手と囁き。
好奇と侮蔑の混じった視線が、エリシアを包み込む。
その夜、エリシアは一時的に身柄を預けられた。
◇
――なんて思っていたのだが、翌日には釈放された。
しかも、あっさりと。
石造りの簡素な応接室に呼び出され、紅茶を一杯勧められ、書類に署名をして終わりだった。
「ご不便をおかけしました、エリシア様」
そう告げたのは、王城監査官アーヴィング卿だった。
初老の紳士は、深く頭を下げる。
「提出された帳簿と、クロフォード家が保管していた原本との間に、複数の不整合が見つかりました。署名、封蝋、紙質、出金承認印――すべて、意図的な改竄です」
さらに調査を進めた結果、王城監査官の中に金で買収されていた者が存在していたことが判明した。その不正が露見したのは、皮肉にもエリシアが正式に拘束される当日の、わずか一時間ほど前である。
クロフォード家とフェンリル家を包囲する調査は水面下で急速に進められていた。原本帳簿の精査、資金の流れの洗い出し、関係者の証言の照合。これらはすべて一日のうちに起きた出来事だった。
そして翌日、エリシアは何事もなかったかのように釈放された。
だがその裏で、二人の運命は、すでに断罪へ向かって動き出していた。
◇
釈放から三日後、王城より正式な布告が出された。
クロフォード家およびフェンリル家に関する不正調査の結果を、すべての貴族の前で明らかにする公開裁定が行われるという内容だった。夜会での告発を目撃した者はもちろん、王都の有力貴族のほとんどが招集され、会場はあの日以上の緊張と好奇に満ちていた。
エリシアはヴァレンシュタイン家の名のもとに正面の席へ案内された。視線が集中したが、そこに以前の侮蔑や嘲笑はなく、戸惑いと不安が混じっていた。
ほどなく、裁定が始まった。
提出された帳簿はすべて精密に調査され、偽造であることが正式に認定された。改竄を主導したのはクラリス・フェンリルであり、その実行にレオンハルト・クロフォードが関与していたことも、複数の証言と資金の流れによって裏付けられた。
横領とされた金は、クロフォード家の管理口座を経由し、最終的にはレオンハルト本人の私的資産へと移動していた。告発は虚偽であり、婚約破棄によって彼女に押し付けたものだと断じられた。
あの日、エリシアに向けられていた視線と同じものが、今度は二人へと突き刺さっていた。
クロフォード家には財産没収と爵位剥奪、レオンハルト本人には王城地下牢への投獄が言い渡された。フェンリル家も同様に処分され、クラリスは国外追放となった。
裁定が終わるころには、二人の名はすでに社交界から消えていた。




