殿
――龍帝天凱。
その名は、舞を恐怖で震わせるのに十分な代物であった。
なんとなれば、龍帝とは……。
「かつての神……!
それも、天上において最強を誇る龍神だったという……!」
見習いとはいえ退魔巫女の舞だ。神話伝承の内容はそらんじている。
その内容が、正しいならば……。
「でも、神々を裏切って妖魔側についた結果、神としての位を剥奪され、魔界へ追放されると同時に封印されたはず……!
なのに、なぜ……!」
「ほおう?」
龍帝が呼び出す昇雷により、周囲一帯は常に雷鳴が轟いており、人の声どころか、法螺貝を吹いてもかき消されそうな状態となっていた。
それでも、上空にいる龍帝は舞の言葉を聞いたようであり、いかにもおかしくてたまらないという笑みを浮かべたのである。
しかも、その時に発した「ほおう?」という言葉は、小声であるはずなのに、確かに舞の耳へと届いていた。
これは、妖魔軍総大将を名乗るほどの存在からすれば、余技と呼ぶにすら値しない能力であるに違いない。
だが、舞からすれば想像もつかぬほど高度で繊細な術法であり、圧倒されるには十分。
何より、この状況が恐ろしかった。
自分は今、間違いなく、神話で語られる大妖魔から捕捉されたのだ。
まさにこれは、人から発見された蚊のような気分。
多少は逃げることもできるかもしれないが、十中八九、ぷつりと潰されて終わる運命なのである。
「娘、なかなか勉強しているではないか?」
口元の笑みを深くしながら、龍帝が語りかけてきた。
そうしている間も、この大妖魔が呼び出している昇雷の勢いは衰えず、むしろ、ますます充実して密度を増しているようである。
まるで、いや、おそらく、これは何か大がかりな呪術的儀式の余波でしかないのだ。
「確かに、オレは太古の昔、神々に敗れ魔界へと封印された。
だが、我が魂は不死不滅!
永き時を経て力を蓄え、こうして復活を遂げたのだ!
娘! 我が雷鳴に巻き込まれなかった幸運を、喜ぶがいい!
おかげで、貴様は目撃することができるのだ!」
そこまで言って、龍帝は言葉を区切る。
いや、途切れたのは、言葉だけではない。
あれほど激しく吹き荒れ、一帯と先輩巫女たちを焼き払った昇雷が、ぴたりと収まったのだ。
しん……とした静寂が、鬼ケ原を包む。
そして、またも一瞬、妖魔軍総大将と見習い退魔巫女の視線が交差した。
これは、溜めだ。
龍帝は舞をただ一人の観客と見定め、これから起こす現象が最も心に焼きつくだろう間を図ったのである。
「さあ! すでに、この場は我が力によって満ち、現世への風穴が開いた!
妖魔よ! 神界から追放されし我を受け入れし同胞よ!
今こそ、宿願果たされる時ぞ!
己が意のまま、顕現するがいい!」
天凱の呼び声へ、答えるかのように……。
昇雷によって焼き払われ、焦げた地面が丸出しとなっていた一帯から、妖しき光が放たれ始めた。
「遺体が……!」
見るも無残に焦げ果てていた先輩巫女たちの遺体は、光によって消え去り……。
代わって、異形の者たちが姿を現す。
つまり、一種鏡面のように輝くこの妖光は、あちら側からの出入り口なのだ。
「なんてこと……!
魔界とこの世とが、結ばれてしまった……!」
この現象は、此度の戦いが、退魔巫女たちの敗北で終わったことを意味している。
神話の時代から水際で阻止され続けてきた妖魔の軍勢は、ついに、現世進出を成し遂げたのだ。
それにしても、地の底から染み出すようにして光の中へ姿を現すこやつらの、なんと種々様々な形態であることか。
ある者は、獣のような四足歩行であり……。
またある者は、人型でこそあるものの、20尺に至るだろう巨体であり、肌が赤銅色に輝いていた。
そうした異形たちの中にあって、ごく稀に、上空から満足そうに見下ろす天凱同様、人間に近い姿の美男美女も見受けられる。
そやつらの正体は、上級妖魔。
おかしな話とも思えるが、妖というものを極めると、尋常なる存在に近づくものなのだ。
「あ……あ……」
呆然と眺めている間も、妖魔たちの出現は終わらない。
すでに千を超える数が進出してきているというのに、まだまだ光の向こう側――魔界に待機している妖魔は数多いようだった。
妖魔は、総大将たる天凱は……本気。
本気でこの地上を我が物とすべく、電撃的な侵攻に打って出てきたのである。
どこか年中行事じみた雰囲気を漂わせていた退魔巫女側とでは、根本的な心構えが異なるのだと思えた。
その退魔巫女側から伝令が放たれたのは、その時である。
上空に放たれし、いくつかの折り鶴。
霊符を折ることで生み出された式神たちが、後方に控える上位巫女たちの言葉を告げたのだ。
『総員! 撤退! 撤退せよ!
鬼ケ原は放棄し、軍勢を立て直す!
繰り返す!
総員! 撤――』
その折り鶴が言葉を続けられなかったのは、天凱が放った糸くずのような紫電に焼き払われたから。
それは、舞からすれば、希望という概念そのものが焼かれ、消滅していくような光景であった。
頭のどこかで、姉なら……天才退魔巫女輝夜ならば、あるいはあの龍帝にも対抗し得るのではないかと、楽観的に考える己もいたのだ。
だが、現実はこれ。
後方の姉は冷静に彼我の戦力差を照らし合わせ、撤退の判断を下したのである。
これはつまり、ここに助けが来ないことを意味していた。
「悪くはない。
いや、良い判断だと褒めてやろう。
――笑え!」
――はははははははははは!
――はははははははははは!
総大将に命じられた妖魔の大軍が、指揮官級だろう者から明らかに雑兵と分かる個体に至るまで、呵々大笑する。
それは、薄い称賛と、明らかな侮蔑。
何より、勝利を自覚した喜びに満ちたものであった。
「――やめ!」
が、龍帝に命じられ、ぴたりとこの笑いも消える。
「鮮やかな撤退、このまま見過ごしてやってもよいが……。
まだまだ、血が! 贄が足らぬ!
我こそと思う者は、続くがいい!
この龍帝天凱自らが追撃し、巫女共を狩ってくれるわ!」
――おおおおおおおおおお!
その言葉に……。
ほぼ妖魔の全個体が、雄叫びを上げた。
上げておらぬのは、そもそもが発声器官の備わっておらぬ種族に違いない。
要するに、今宵進出してきた全ての妖魔が、撤退し立て直そうとする退魔巫女軍を食い破ると誓ったのだ。
「……せない」
立ち上がれたことを、自分でも意外に思う。
「……かせない」
体から震えというものが消え去り、代わって、無限の勇気が腹の底から呼び起こされているのは、別人に生まれ変わったような気分だ。
「――行かせない!」
何より、上空の龍帝が自分の言葉を余さず拾っていると、先のやり取りで把握していながらこんな言葉を吐き出せたことに、自身、心底から驚いていた。
「お前たちは行かせない!
ここでわたしが殿を務め上げ、姉様たちが逃げるまでの足止めをさせてもらう!」
痛みが消え去った体で、懐から手製の霊符を取り出す。
それから、ありったけの霊力を全身に滾らせた。
「ほう……」
距離を隔てて耳に届く龍帝の言葉は、興味深いとでも言いたげなもの。
「――面白い!
貴様、我が前に立ち塞がることを許してやろう!
名乗るがいい!」
「桐島舞!」
龍帝の問いに、間髪入れることなく答える。
赤き満月を背にした龍の化身が、ゆるりと下降し始めた。
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