夏を砕く者
――いとも簡単に夏は砕け散った。
ただ茫然と立ち尽くす僕の目の前で。
『夏を砕く者』/未来屋 環
「――あれ、後藤さん?」
完全に油断していた。
行きつけの中華料理屋でTVを見上げていたところ、いきなり名前を呼ばれて我に返る。
振り返ると、そこには会社でしか顔を合わせないはずのひとが立っていた。
「……え、久住さん?」
久住ありさ、34歳。
今年の7月1日付でコンサルから我が社に転職してきたばかりだ。
普段はネイビーカラーのジャケットに身を包み社内を闊歩する彼女だが、今日はビビッドな赤いTシャツの上にエプロンを纏っている。
その手には、僕が注文した野菜炒めが載っていた。
どう見ても彼女の出で立ちは店員そのもので、僕の脳内を疑問符が埋め尽くす。
うちの会社は副業なんて認めていただろうか?
何も言えないままの僕を見て、彼女――久住さんはいたずらっぽく笑った。
「びっくりさせちゃってごめん、ここ私の実家なんだ。休みの日は手伝ってるの」
「……あっ、そうなんですか」
「そういうこと。はい、野菜炒め定食おまちどおさま」
彼女はてきぱきとお皿を置いて、颯爽とキッチンに戻って行く。
その足取りは社内にいる時と同じく自信に満ちていて――僕はそっと目を逸らし、コップの中の氷をぼりぼり噛んだ。
「後藤さんおはよう」
翌月曜日、久住さんがわざわざ僕の席までやってきた。
彼女がいる経営企画部と僕のいる人事総務部はフロアも違うというのに、なんともご丁寧な。
「……おはようございます」
「先日はありがとう。うちの店、よく来るの?」
――なんだか誤解されそうな会話だ。
そもそも久住さんはよく目立つ。
好奇の視線を遮るように、僕は彼女を「ちょっと」と近くの会議室に連れ出した。
「ごめん、話しかけちゃまずかった?」
「まずくはないですけど……一応職場なので」
「でも始業時間前だよ」
彼女はあっけらかんと答える。
その自由さがなんだか眩しく感じられた。
「――そちらのお店には、僕が新人の頃から通っていました。味もおいしいですし、コスパもいいので」
「そうなの? まさか後藤さんがお得意様だったとは。いつもお世話になってます」
そう言って彼女はニコニコ笑う。
朝から晩まで暗い顔をしている僕とは別世界の人間のようだ。
「はい、でもご安心を。もう行きませんから」
「えっ」
久住さんが絵に描いたように驚いた顔をする。
随分と忙しいひとだ。
「ごめん、この前の野菜炒めおいしくなかった?」
「いえ、いつもと同じくおいしかったです」
「だったらなんで?」
「実家の店に会社の人間が来たら、久住さんだって嫌でしょう」
「いや、全然そんなことないし。寧ろありがたいけど」
今度は困ったように眉毛を下げて、久住さんが続けた。
「もし迷惑なら、後藤さんが来た時は私店に出ないようにするよ。売上にも影響出ちゃうし――だから、これまで通りお店に来てくれないかな?」
そんな風に言われると、なんだか責任を感じてしまう。
その圧に耐えられず、僕は「……わかりました」と答えざるを得なかった。
期待した答えを引き出せたことに満足したのか、久住さんの顔が一気に明るさを取り戻す。
「ありがとう。あと、後藤さんタメ口でいいのに。確か同い年だよね?」
確かに僕と彼女は同い年だ。
それは、彼女の履歴書を見た時からわかっていた。
経営企画部長と人事担当者で行う採用面接の間、僕はその輝かしい経歴を目に焼き付けていた。
有名大学を卒業して大企業に入り、海外勤務を経て2社目に転職、そして様々な経験を積み更なるキャリアアップをめざして我が社を受けに来たという。
なんとか入社時に滑り込んだところで運を使い果たし、以降キャパオーバーの業務に追い立てられながら日々残業に明け暮れる僕とは雲泥の差だ。
「……会社の人には敬語を使うようにしているので」
そう答えて、僕は会議室のドアを開ける。
久住さんは「ふーん、そっか」と少しだけ寂しげに笑い、外に出て行った。
***
メーカーで働くことのメリットは、比較的休みを取りやすいことだ。
それはうちの会社も例外ではなく、工場の稼働率の影響で僕たちスタッフ部門もお盆はまとまった休みを取ることができる。
僕のように休日の予定もない人間にとっては、それが特段嬉しいわけでもないけれど。
新幹線で2時間かかる実家には、何かと理由をつけてこの夏も帰らないことにした。
メールでそれを母親に告げると、事務的に『わかりました』とだけメッセージが返ってくる。
両親にとっては孫の顔を見せてくれる弟の動向の方が重要なのだろう。
それが僕にとっては逆にありがたくもあった。
他に行く場所もないので、僕は久住さんの中華料理屋に行く。
折角の長期休み、どこか海外にでも旅行に行っているだろう――そんな僕の期待を裏切るように「いらっしゃい」と返ってきたのは聴き慣れた声だった。
「あっ、後藤さん来てくれたんだ」
あいかわらずビビッドな――本日は黄色のTシャツを身に纏い、久住さんが営業スマイルで僕を迎え撃つ。
僕は「近くに寄ったので」と小さな嘘を吐いた。
手前のカウンター席に座ろうとした瞬間「テーブル席空いてるから座っていいよ」と言われたので、素直に従う。
メニューを一通りめくっていると、久住さんが水を持ってきた。
「ご注文は?」
「……野菜炒め定食で」
「はい、少々お待ちください」
結局いつも通りのオーダー。
ぱたぱたとキッチンに戻っていく足音をBGMに水を飲むと、ほのかなレモンの味がした。
『夏の甲子園2回戦、第3試合を中継でお届けしております』
昼時を過ぎたからか人も疎らな店内では、観る者のいないTVが青春の様相を垂れ流している。
視線を逸らした僕は、がりり、とコップの中の氷を噛んだ。
キッチンから久住さんが食材を炒める音が聴こえてくる。
じゅうじゅうと響く熱さを冷房の効いた店内で聴いていると、TVが映し出す情景はまるで別世界のようだ。
――文字通り、僕にとって甲子園は別世界だったけれど。
『後藤、いつも朝練一番乗りだよな。何時に起きてるんだよ』
『小学生の頃からずっと野球部だっけ。よくそれだけ頑張れるね』
『なんで後藤がレギュラー落ちなんだよ。俺、監督に言ってくるわ』
『代打でいざという時に出てもらうから、ちゃんと心の準備しとけよ』
『最終回、きっと回ってくるぞ! ここで打ったらおまえは間違いなくヒーローだ』
「野菜炒め定食おまちどおさま」
久住さんの声で現実に引き戻されると同時に、目の前にことりと皿が置かれた。
瞬間、食欲を刺激する湯気と香りが立ち昇る。
そこには、大人の僕が食べ慣れたいつもの野菜炒め定食があった。
「お水おかわり入れようか。あ、氷もないね。いる?」
「……あ、はい」
久住さんがグラスを持ってどこかへ行き、そしてすぐに戻って来る。
透明なコップは水で満たされ、中にはまるでウイスキーにでも入っていそうな歪な形の氷が3つ浮いていた。
それをテーブルに置きながら「あ、そうだ」と思い出したように言う。
「ねぇ、TVのチャンネル変えていい? 観たい番組があって」
僕にそれを拒否する権限などないし、寧ろありがたい。
無言で頷くと、久住さんはさっさとチャンネルを切り替える。
すると、白球を追いかける球児たちは一瞬でスーツを着た有名なスパイに早変わりした。
「好きなんだよね、この映画。私飽きっぽいんだけど、このシリーズだけはずっと観てる」
無邪気に笑う彼女を見て、僕は「……あぁ、はい」と面白みの欠片もない返事をする。
それでも彼女は満足気な表情をしていた。
「それではどうぞ、召し上がれ」
「……いただきます」
久住さんが席から離れていく後ろ姿を見届けてから、僕はそっと野菜炒めに箸を伸ばす。
てらてらと輝く色とりどりの野菜を、まずはそのまま口に入れた。
しゃくしゃくとした食感が瑞々しくて、またすぐに食べたくなる。
キャベツにピーマン、もやしににんじん、たまにニラ。
控えめに入っている豚肉を見付けると、なんだか得した気分になる。
白米と玉子スープを挟みつつ、僕はものの数分でそれらを空にした。
グラスの水を飲み干したところで、氷が残っていることに気付く。
胸の奥が疼き、それを口に入れようとした瞬間「後藤さん」と声がした。
振り返ると、久住さんがオレンジ色のアイスバーを持って立っている。
「これ、お盆休み期間中のサービス。良かったら」
……初耳だ。
戸惑っていると、久住さんが「はい」と押し付けてくるので仕方なく受け取る。
「どうせ食べるなら、普通の氷より味ついてる方がおいしくない?」
「……え」
顔を上げると、久住さんは既にアイスバーをくわえていた。
そのまま一口食べて「うん、おいしい」と笑う。
僕もそれにつられてアイスバーを口に入れた。
自分で買うこともあまりないので、アイス自体なんだか久々な気がする。
歯を立ててじゃくり、と噛んだところで、ふわりとオレンジの風味が広がった。
――うん、確かにおいしい。
一気に食べてしまうのはなんだか勿体ない気がして、ゆっくりと味わって食べる。
隣では久住さんが「やっぱこの人かっこいいなぁ」とTVを見上げていた。
***
「でさぁ、暑い中子ども連れてったのに全打席三振だよ。本当打てないなぁこいつって」
課長の不機嫌そうな声に、僕は無言でジョッキの中の氷を噛み砕いた。
まるで苦い何かを消し去るように。
お盆休みも終わって社内は気怠い雰囲気に包まれていた。
そんな中、夏が終わる前にビアガーデンに行きたいという課長の思い付きで、急遽僕たちは駅ビルの屋上で酒を飲んでいる。
被害者は当然拒否権などない部下の僕たちと――そして「ビアガーデンなら」とついてきた物好きか酒好きの面々。
「え、でもお盆休みにプロ野球観戦なんていいじゃないですか。お子さんにとってはきっと素敵な夏の思い出になりましたよ」
その中に、何故か久住さんも紛れ込んでいた。
たまたま帰りのエレベーターで一緒になったところ「あれ、後藤さん珍しく早いね」と声をかけられたのだ。
仕方なく事情を説明すると「え、楽しそう。私も行っていい?」とニコニコ笑う。
僕が口を開く前に課長が「勿論! 久住さんも是非!!」と食い付いたのだった。
結果、ただ気疲れするだけだった飲み会が、なんとも不思議な飲み会へと進化を遂げた。
「そう? 久住さんに言われると悪い気しないなぁ」
「私あまり野球観たことなかったので、そんなお父さんがいたら嬉しいですよ」
久住さんの言葉に課長は「いやぁ……」と陥落寸前だ。
さすが優秀なひとは違う。
そんなことを思いながら、僕はハイボールの入ったジョッキを片手に彼女の横顔を見ていた。
「でもそれこそさ、久住さんアメリカにいたんだよね。メジャーリーグとか観に行かなかったの?」
「あぁ、1回だけ行きましたよ。それこそあの二刀流の……」
「えっ、マジで!? いいなぁ!!」
一気に場が盛り上がる。
しかし、彼女は穏やかな調子で続けた。
「はい、その日は残念ながら負けちゃったんですけど、観られただけで満足です。でも、プロの世界って厳しいですよね――あそこまでのスーパースターになってもミスひとつで叩かれちゃうんですから」
――その言葉が、すっと僕の酔いを醒ます。
「まぁ、プロってそういうもんだからね」
「久住さんって優しいんだなぁ、もっとシビアな人かと思ってた」
「そう、私こう見えて結構優しいんです。だから皆さんも私に優しくしてくださいね!」
そう言って、久住さんが無邪気に笑ってみせた。
一瞬落ち着いた場が、またわっと盛り上がる。
その輪の中で笑う彼女が、僕にはなんだか一際輝いて見えた。
野球はいつしか観なくなった。
試合に出ているのは甲子園どころかてっぺんまで昇り詰めた一握りの存在で、それでも結果を出せなければ大衆に容赦なく叩かれる。
――だとしたら、僕はどれだけ底辺の存在なんだろう。
必死で練習してもレギュラーに選ばれず、甲子園の県予選で仲間たちが負ける様をベンチから眺めるだけの、そんな――勝負の場に立つことすらできなかった僕は、何のためにあれだけの莫大な時間を費やしてきたのか。
「――後藤さん、大丈夫?」
はっと我に返ると、目の前を家々が高速で右に流れていく。
それでふと、帰りの電車に乗っていることを思い出した。
慌てて隣を見ると、久住さんが笑顔で立っている。
「立ち寝してたよ、意外と器用だね」
「……あ、すみません」
どうしようもない姿を見られた気恥ずかしさで、僕は視線を逸らした。
車窓の外では街が眠りに就いている。
まとまらない頭で、僕はただそれを眺めた。
「――ねぇ、後藤さん」
そんな僕に、彼女が囁く。
「よかったら、ふたりでちょっとだけ二次会しない?」
***
「外は暑いし、デザートでも食べようよ」
そう言って久住さんが僕を連れてきたのは、彼女の実家の中華料理屋だった。
既に閉店時間を回っているので、店内には誰もいない。
テーブル席を勧められたので素直に応じると、彼女はキッチンからグラスとピッチャーを持ってきた。
「はい、酔い醒まし」
テーブルの上にグラスを置き、とぷとぷと透明な水で満たす。
「氷はないけど、お水冷えてるからいいよね」
「……はい」
どうぞ、と勧められるままにグラスを煽った。
飲み慣れたほのかなレモン味が喉を駆け抜けていく。
頭の中がすぅっと澄み渡ったところで、僕はグラスを置いた。
さっきまで波立っていたはずの心は静かに凪いでいる。
無人の店内でただぼんやりしていると、キッチンの方からなにやら奇妙な音がした。
「――久住さん?」
声をかけると「ごめん、後藤さん。ちょっと手伝って」と返ってくる。
僕は慌てて立ち上がり、キッチンへと向かった。
中を覗き込むと、久住さんがまな板の上で大きな氷の塊をがつがつと砕いている。
僕はふと、お盆休みのあの日彼女が持ってきた水のことを思い出した。
あの時グラスに入っていた氷は中華料理屋の水には随分と不似合いだと思ったが、成る程、こうして生み出されたものだったとは――。
想定外の光景に立ち尽くしていると、僕の存在に気付いた彼女に「それ持っていって」と目線で合図される。
促されたその先にあったのは、青い箱。
蓋の部分には『手作りかき氷器』と書いてある。
「なんか食べたくなっちゃって、この前勢いで買っちゃった」
そう言うと、久住さんは楽しそうに笑った。
「ごめん、シロップ用意するの忘れてたからカルピスでもいい?」
箱から出したかき氷器を水洗いしテーブルでセッティングしていると、久住さんが山盛りの氷と共にカルピスの紙パックを持ってくる。
カルピスなんて何年……いや、何十年振りだろう。
懐かしさに胸を疼かせながら、僕は「はい」と頷いた。
かき氷器の蓋を開け、氷をめいっぱいに詰め込んでからハンドルに手をかける。
すると、思ったより力を入れなくてもくるりとハンドルが回った。
かき氷器も昔から進化しているんだろうか。
がりがりという小気味いい音と共に、削られた氷がふわふわと受け皿に溜まっていく。
その様子を久住さんが「夏だねぇ」と満足げに眺めていた。
山盛りになったところで氷を追加し、もう一皿。
あっという間にまっさらなかき氷がふたつ生まれた。
「折角だからたっぷりね」
上機嫌な様子で久住さんがカルピスをてっぺんからかける。
白い氷が少しずつクリーム色に染まっていく様を僕はじっと見つめていた。
懐かしい甘さがほのかに香った気がして、なんだか胸の奥がじわりと熱くなる。
「あ、実は後藤さんカルピス好き?」
「え?」
思いがけない言葉に視線を上げると、久住さんは笑顔でこちらを見ていた。
「いや、珍しく後藤さん笑ってるから」
――僕が?
無意識に笑っていたなんて、子どもみたいで恥ずかしい。
思わず俯きかけたところで久住さんが「はいはいはい食べようか」とかき氷とスプーンを押し付けてきた。
「いただきまーす」
「……いただきます」
僕たちはかき氷を挟んで向かい合う。
それこそ、かき氷を食べるのも何十年振りだろう。
子どもの頃、母がかき氷器で作ってくれたのを思い出した。
「うん、冷たい! やっぱおいしいね」
目の前で久住さんが嬉しそうに笑う。
その明るい声で、なんだか食欲が湧いた。
控えめに一匙すくって、口に入れる。
瞬間、口の中がひやりと冷めて、懐かしい甘さが舌を撫でた。
――あぁ、おいしい。
もう一度、今度はさっきよりも大きめにすくう。
削られた氷はやわらかく、僕に優しい涼をもたらしてくれた。
我慢できずに、また一口。
勿体ないから、ゆっくりゆっくり、味わうように。
「なんか子どもの頃を思い出しちゃうなぁ。後藤さんの夏休みの思い出って何かある?」
「ずっと野球の練習してたので、特段思い出なんてないですね。きつかったことしか覚えてないです」
ぽろりと本音が零れる。
それを聞いても、久住さんは「へぇ、そうなんだ」と表情を変えなかった。
「練習ってどのくらいするの?」
「基本早朝からずっと。たまに午後は練習試合なんかもありました。それを毎日」
「毎日? すごいね。私はただ遊んでたことしか覚えてないや、さすがに受験の時は塾行ったけど」
そう言って久住さんが明るく笑う。
その笑顔を見て、僕の中に眠る罪悪感が疼いた。
「……いや、全然すごくないですよ。毎日練習したって、何の結果も残せませんでしたし――試合にもほとんど出ていないので」
そう自嘲しながら吐き捨て、視線を逸らす。
あんなにあったかき氷は、残り数匙の命だ。
少し名残惜しさを感じながら、スプーンを差し込んだ――その時
「えっ、なんで? 毎日練習するだけですごいじゃん」
――投げかけられた言葉に、スプーンが止まる。
ゆっくり顔を上げると、そこには心底不思議そうな顔をした久住さんがいた。
「ていうか後藤さんって子どもの頃から早起きだったんだね。いつも朝早いし仕事が丁寧だってうちの部長が褒めてたよ」
「……え」
言葉を失う僕を前に、久住さんは笑顔で続ける。
「前も言ったかも知れないけど私って飽きっぽいんだよね。子どもの頃から習い事も続かなかったし、最初は頑張れるんだけど暫くしたら飽きちゃって――ほら、ここでもう3社目でしょ? だから、後藤さんみたいにひとつのことをコツコツ続けられるひとって本当にすごいと思う」
あっけらかんとそう言って、久住さんは笑った。
僕はそんな彼女をぽかんと見つめるしかない。
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
何の結果も出せず、ただ一日一日を必死で駆け抜けてきた――そんな生き方が『すごい』だなんて。
黙り込んだ僕を前に、久住さんが首を傾げたあとで「あ」と表情を変える。
「――あの、ちなみに私今の会社は好きだからできるだけ仕事続けたいと思ってるよ? いきなり辞めたりなんてしないし、そこは安心してもらっていいから」
珍しく焦ったように早口で言い切った。
その必死な様子がなんだかおかしくて――僕の口から、ふっと息が洩れる。
すると、久住さんの動きが止まったあと、その顔がふわりと笑みに変わった。
「後藤さん、また笑った」
――うん、確かに僕は今、笑っている。
なんだか晴れ晴れとした気持ちで残りのかき氷をかき込み「久住さん、おかわりください」と空っぽの皿を差し出した。
久住さんが笑顔でそれを受け取る。
「いいねいいね、今日は店中の氷を砕いちゃおう! カルピスかけたらいくらでもいけるでしょ」
楽しそうに彼女が笑いながら、不揃いな氷をかき氷器に放り込んだ。
ざらざらと踊るようなその音に煽られて、僕もつい口が滑る。
「うん、いけるいける。全部砕いて食べちゃおうか」
その僕の台詞に、久住さんがもう一度動きを止めた。
――うん、やっぱり調子に乗るもんじゃない。
勇気を振り絞って発したタメ口だったが、どうやら不発に終わったようだ。
恥ずかしさに思わず目を逸らす。
そして、無言の空間にがりがりと氷を削る音が響いた後――俯いた僕の目の前にきらきらと輝くかき氷が「はい」と差し出された。
「ありがとう……ございま」
「後藤さん」
「……はい?」
敬語をかき消すように名を呼ばれ思わず顔を上げると、久住さんが恥ずかしそうにこちらを見ている。
今更酔いが出てきたのか、頬を少し赤らめて。
「次後藤さんが来る時までに、ちゃんとシロップ用意しておくから――だから、また来てくれないかな? できればお店が閉まったあとに」
彼女からかき氷を受け取り、僕は「……うん」と頷いた。
期待した答えを引き出せたことに満足したのか、久住さんの顔が一気に明るさを取り戻す。
その笑顔を見ながら、僕にも初めて夏の思い出ができるような――そんな予感がした。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
本作は『夏』をテーマに書いた作品です。
最初に思い付いたのが「夏を砕く」というイメージで、そこからアイデアを膨らませていった結果、かつて甲子園をめざしていた後藤さんとそんな彼と対極にいるような久住さんが浮かび上がってきました。
どんなジャンルにおいてもスポットを浴びるのはごくごく一部ですが、その陰にはたくさんの選ばれなかったひとたちがいて。
それでも、彼らの努力は決して徒労ではないと思うのです。
頑張った日々はきっと人生を豊かにしてくれるはず!
以上、お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。