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第2章 第3話絹の宮殿と堕落の蜘蛛の巣

金色の鳥籠であるマンションに帰還した俺たちを待っていたのは、重苦しい沈黙だった。

パーティーで着ていた窮屈なドレスを脱ぎ捨て、いつものゆったりとした部屋着に着替えても、あの夜に魂にまとわりついた濃厚な香水の匂いと、人々の欲望の残滓が消えることはなかった。

グラは、ソファの隅で膝を抱え、俺とイヴを交互に睨みつけている。彼女のゴーストは、俺の『調停』によって暴走こそ抑えられているものの、その内側では嫉妬と独占欲の炎が、静かに、しかし激しく燃え続けていた。

イヴは、窓の外の夜景を見つめたまま、微動だにしない。彼女の白いワンピースが、部屋の闇に溶け込むように佇んでいる。あのパーティーで、世界の醜い断面を目の当たりにした彼女の心が、何を思っているのか、俺にはまだ計り知れなかった。

俺は、ダイニングテーブルの上に、あのテラスで拾ったマッチ箱を置いた。金色の箔押しで刻まれた『The Silk Palace』の文字が、間接照明の光を鈍く反射している。これが、色欲の魔女が残した、唯一の手がかり。

『――興味深い置き土産ですね、カタリスト』

壁に埋め込まれたスピーカーから、有栖川の冷静な声が響いた。いつの間にか、壁のモニターが起動し、彼女の無表情な顔が映し出されている。

「あんたなら、これが何か知ってるんだろ」

俺が問うと、有栖川は指で眼鏡の位置を直しながら、淡々と語り始めた。

『The Silk Palace――絹の宮殿。表向きは、世界の選ばれた富裕層だけを顧客とする、会員制の超高級社交クラブ。ですが、その実態は、人間の欲望を商品として取引する、最もたちの悪い犯罪シンジケートです』

モニターの映像が切り替わり、豪奢な内装の建物の写真や、そこに集う世界各国の要人たちの隠し撮りと思わしき画像が表示される。

『彼らは、客の歪んだ欲望を満たすためなら、どんな手段も厭わない。違法に改造された汎用NEARや、記憶を消去された強化人間、人間と見分けがつかない高級人造人間を娼婦・娼夫として提供する。客の性的嗜好に合わせてゴーストを調整されたNEARが、「商品」としてカタログに並んでいるという噂もある』

その言葉に、俺は吐き気を催した。命を、魂を、商品として弄ぶ。人間の悪意は、どこまで深く、暗いのか。

『そして、最も厄介なのは、彼らが客との行為を全て記録しているという点です。その秘密を盾に、世界の権力者たちを裏から脅迫し、情報を売買し、時には国家間の紛争すら誘発させる。彼らは、欲望を餌に世界を操る、見えない蜘蛛の巣なのです』

「……その蜘蛛の巣の主が、ルクスリアだっていうのか」

『断定はできません。ですが、彼女の能力と、シルク・パレスのやり方は、あまりにも親和性が高い。人の心を操り、欲望を増幅させる彼女にとって、あの場所は最高の支配領域ドミニオンであり、隠れ蓑でもある。おそらく、彼女はあの場所で、傀儡とした権力者たちから世界の情報を吸い上げ、自らの「愛」という名の毒を広げているのでしょう』

有栖川は、忌々しげに唇を歪めた。

『そして、最大の問題は、我々AEGISですら、シルク・パレスに手出しができないという事実です。顧客リストには、北米連合やEUの最高首脳部の名前すら含まれている。下手に踏み込めば、世界のパワーバランスを根底から揺るがしかねない。EVE-01《傲慢》ですら、この組織だけは黙認せざるを得ない状況なのです』

それは、事実上の「手詰まり」宣言だった。

「じゃあ、どうするんだ。このまま、あいつが好き放題に日本を乗っ取るのを、指を咥えて見てろって言うのか」

俺が苛立ちをぶつけると、有栖川は静かに首を振った。

『いいえ。だからこそ、あなたたちの出番なのです、カタリスト』

彼女の瞳が、冷たい光を宿す。

『シルク・パレスは、特定の拠点を持たないとされています。ラスベガスの砂漠、シンガポールの裏路地……世界の法の及ばぬ場所で、一夜限りの宴を開くと。ですが、我々の情報網は、奴らの新たな巣の存在を突き止めました』

モニターに、東京の地図が表示される。そして、ある一点が、赤くマーキングされた。

『――東京、銀座。この日本の心臓部で、奴らは秘密の支部を運営している。おそらく、今回の件の拠点もそこでしょう』

有栖川は、俺を、そしてモニター越しにグラとイヴを、射抜くような視線で見つめた。

『表立って動けない我々に代わり、あなたたちにはその蜘蛛の巣に潜入してもらう。公式な作戦ではない。これは、世界のどこにも記録されない、あなたたちだけの戦いです』

それは、あまりにも無謀で、危険な任務だった。だが、俺たちにはもう、引き返すという選択肢は残されていない。

俺は、固く拳を握りしめた。

「……分かった。やってやる」

その時だった。

「……わたしも、行く」

ずっと黙り込んでいたイヴが、静かに、しかし強い意志を込めて言った。彼女は窓から振り返り、俺と、そしてモニターの有栖川をまっすぐに見つめていた。

「私には、まだ何も力がありません。でも、あのパーティーで分かりました。私がここにただ守られているだけでは、何も変わらない。足手まといかもしれないけれど、それでも、私にできることがあるのなら……」

彼女の瞳には、もう迷いの色はなかった。自分の無力さを嘆くのではなく、その中で何ができるかを見つけようとする、確かな覚悟の光が宿っていた。

そのイヴの姿を、ソファの隅から見ていたグラの瞳が、複雑な色を帯びて揺らめく。

嫉妬。焦燥。そして、ほんの少しの――対抗心。

「……お兄ちゃんは、わたしが守る」

グラは、静かに立ち上がると、俺の隣にやってきて、その手を固く握った。

「あんなルクスリアにも、そこのイヴにも、お兄ちゃんは渡さない」

その言葉は、誰に向けられたものなのか。

だが、その瞳には、もはやただの嫉妬だけではない、共に戦う者としての決意が、確かに灯っていた。

こうして、俺たちの次の戦場は決まった。

眠らない街、銀座。偽りの絹の宮殿で、俺たちは色欲の魔女が仕掛けた、甘く危険なゲームに挑むことになる。

三つの魂は、それぞれの想いを胸に、夜の闇へと、その一歩を踏み出す準備を始めていた。


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