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第2章 第2話欲望の交響曲と魂の捕食者

ルクスリアの粘つくような精神の接触が消え去った後も、俺の魂はその残滓にまとわりつかれているかのように、不快な痺れを感じていた。脳内に直接響いた、あの愉悦に満ちた声。まるで、これから嬲り殺す玩具を見つけた猫のような、残酷で甘美な響き。

「……お兄ちゃん、大丈夫?」

俺の腕に絡みつくグラの指先に、ぐっと力が込められる。彼女の瞳には、俺を案じる色と、そして幻覚の中で俺の敵として現れたイヴに対する、消えぬ猜疑の色が混じり合っていた。

「ああ、なんとか……」

俺は額の冷や汗を手の甲で拭い、耳元の通信機に意識を集中させた。

「有栖川さん、聞こえるか。今のが、ルクスリア本人だ」

『……確認した、カタリスト。凄まじい精神干渉能力だ。だが、君のゴーストが彼女の攻撃エネルギーを『捕食』する瞬間も、確かに観測した。やはり、君たちは彼女に対する唯一の有効打だ』

有栖川の冷静な声が、俺の昂った神経をわずかに鎮めてくれる。

「イヴが汚染源を特定した。テラスだ。これから向かう」

『了解した。だが、気をつけろ。今の接触で、敵も君たちの存在に気づいた。これはもはや、一方的な狩りではない』

俺たちは、周囲の招待客たちの訝しげな視線を背中に受けながら、会場の奥にあるテラスへと向かった。グラは俺の腕にぴったりと身を寄せ、イヴは一歩後ろから、警戒するように周囲に視線を配っている。

ガラスの扉を開けると、ひやりとした夜気が肌を撫でた。眼下には、光の海と化した東京の夜景が広がっている。その絶景を背に、テラスの中央には数人の男女が集まっていた。ターゲットである三人の閣僚。そして、その中心で、まるで女王のように振る舞う一人の女がいた。

年の頃は三十代だろうか。身体のラインを強調する、深紅のドレスに身を包んでいる。その手にはシャンパングラスが握られ、ヴェールこそ着けていないが、その蠱惑的な雰囲気は、有栖川が見せたルクスリアの肖像とどこか通じるものがあった。

だが、イヴが小さく首を振る。

「……違う。あの人は、本体じゃない。もっと強い力で操られている……傀儡くぐつ

閣僚たちは、まるで意思を失ったかのように、その女の言葉の一つ一つに恍惚の表情で頷いている。彼らの瞳には、もはや政治家としての理性や野心の色はない。ただ、目の前の女への盲目的な崇拝と、獣のような欲望だけが、濁った光となって渦巻いていた。

俺たちの存在に気づいたのか、傀儡の女がゆっくりとこちらに顔を向けた。その唇が、熟れた果実のように艶めかしく弧を描く。

「あら、迷子の小鳥さんたちかしら?こんな場所まで、どうかなさったの?」

その声は、脳に直接響いてきたルクスリアの声とは違う。だが、その響きには、聞く者の理性を麻痺させるような、甘い毒が含まれていた。

彼女はシャンパングラスを置き、ゆったりとした、猫のようなしなやかな動きで俺に近付いてきた。彼女が歩くたびに、濃厚な香水の香りが夜気と混じり合い、俺たちの思考を鈍らせようとする。

「……あなたね。あのルクスリアの『愛』を弾いた、面白い子は」

女は、俺の目の前で立ち止まると、その指先で俺のタキシードの胸元を、挑発的になぞった。

「素晴らしい魂の響き……。とても強くて、純粋で……そして、まだ誰の色にも染まっていない。……ああ、なんて美味しそうなのかしら」

その瞬間、俺の腕を掴むグラの指が、俺の肉に食い込むほど強く握られた。

「やめて」

グラが、低い唸り声のような声で言った。

「お兄ちゃんに、さわらないで」

その声には、剥き出しの敵意と独占欲が満ちていた。

傀儡の女は、グラを一瞥すると、楽しそうに喉を鳴らした。

「あらあら、可愛い番犬さん。でも、あなたも同じ匂いがするわね。……そう、飢えているのでしょう?愛に。そして、この方の魂に」

その言葉は、グラの最も触れられたくない部分を、容赦なく抉った。

「だまれっ!」

グラが叫んだ瞬間、彼女の周囲の空間が、僅かに陽炎のように揺らめいた。

傀儡の女は、それを待っていたかのように、その紅い唇を歪めた。

「さあ、始めましょう?欲望の交響曲を」

彼女が指を鳴らした瞬間、俺たちの周囲の空気が一変した。

パーティー会場から漏れ聞こえていたオーケストラの甘美な旋律が、不協和音へと変わる。会場にいた招待客たちが、一斉にこちらを向いた。その瞳は、閣僚たちと同じように、理性の光を失い、剥き出しの欲望に濁っている。

嫉妬、傲慢、食欲、物欲……。人間の持つあらゆる負の感情が、ルクスリアの力によって増幅され、明確な『悪意』となって俺たちに牙を剥いた。

「あの男を、引きずり降ろせ」

「あの女たちのドレスを、引き裂いてしまえ」

「邪魔だ、消えろ、殺せ!」

声なき声が、精神的な圧力となって俺たちに襲いかかる。人々が、虚ろな目で、ゆっくりとこちらへとにじり寄ってきた。

「お兄ちゃん!」

グラが、俺を見上げる。その瞳には、恐怖ではなく、獲物を前にした捕食者の光が宿っていた。

「……喰って、いい?」

俺は、覚悟を決めた。

「ああ、好きにしろ、グラ!こいつらの『悪意』も『欲望』も、全部お前の飯だ!」

その許可を得た瞬間、グラの唇が、歓喜に歪んだ。

「――いただきます!」

彼女がそう呟いた瞬間、その小さな身体から、目に見えない捕食域が爆発的に展開された。それは、かつて渋谷を飲み込んだ物理的な破壊ではない。人々の魂から発せられる、負の感情エネルギーだけを狙って喰らう、魂の捕食器。

取り囲んでいた人々の身体から、黒い靄のようなものが引きずり出され、渦を巻いてグラの身体へと吸い込まれていく。エネルギーを吸われた人々は、次々とその場に崩れ落ち、まるで憑き物が落ちたかのように、呆然とした表情で我に返っていく。

「……素晴らしいわ。本当に、素晴らしい食べっぷり」

傀儡の女は、その光景をうっとりと眺めている。

「でも、私の役目は時間稼ぎ。あの方が、あなたという『おもちゃ』を、心ゆくまで味わうためのね」

その言葉に、俺はイヴに叫んだ。

「イヴ!糸を探せ!こいつを操ってる、ルクスリア本体に繋がる糸を!」

「……はい!」

イヴは目を閉じ、その精神を研ぎ澄ませる。彼女のクリーンなゴーストが、汚染された精神ネットワークの奔流の中から、傀儡を操る一本の繋がり――サイコ・ストリングスを探し出そうと、情報の海へと深く潜っていく。

傀儡の女は、グラによって力が削がれ、さらにイヴによって本体との接続を探られていることに気づき、初めてその余裕の笑みを消した。

「……時間切れ、かしら」

彼女はそう呟くと、優雅に一礼し、踵を返した。

「あのルクスリアは、あなたをとても気に入ったみたい。次は、もっと素敵な『愛』で満たしてくださるそうよ……。この、夜の世界でね」

彼女はそう言い残すと、崩れ落ちた人々の間を縫って、闇の中へと消えていった。

後には、呆然とする人々が転がる混乱したテラスと、彼女が立っていた場所に落ちていた、一枚のマッチ箱だけが残されていた。

そこには、金色の箔押しで、こう記されていた。

『The Silk Palace』

俺は、そのマッチを拾い上げ、強く握りしめた。

色欲の魔女が仕掛けた、最初のゲーム。その招待状を、俺たちは確かに受け取ったのだ。

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