第2章 第1話偽りの夜会と傀儡の糸
東京、霞が関。
昼間は日本の政治と官僚主義の心臓として、灰色のビル群が整然と立ち並ぶこの街は、夜になると全く別の顔を見せる。黒塗りの高級車が音もなく滑るように走り、料亭や会員制クラブの灯りが、アスファルトを濡らす湿った光の中に滲む。ここでは、欲望と権力が濃密な空気となって澱み、昼間の建前とは違う、国家という巨大な機械を動かす本当の歯車が、静かに、そして確実にかみ合っていく。
俺たちが送り込まれたのは、その渦の中心だった。
AEGISのブリーフィングルーム。巨大なホログラムモニターに、今夜の潜入先である超高級ホテルの内観図と、ターゲットとなる政府高官たちの顔写真が次々と映し出される。
「今宵、ホテル・マジェスティアの最上階で、政府与党の政治資金パーティーが開催されます。表向きは懇親会ですが、実態は次期防衛予算と対NEAR政策を巡る、各派閥の密談の場です」
有栖川栞は、白い指でモニターをなぞりながら、いつものように体温のない声で説明を続ける。
「我々のターゲットは、このパーティーに出席する三名の閣僚。彼らはここ数週間で、まるで別人のように強硬な反NEAR政策を主張し始めました。ゴーストへの干渉……EVE-07《色欲》ルクスリアの『精神感応』に汚染されている可能性が極めて高い」
モニターに、ヴェールで顔を隠した妖艶な女の肖像が映し出される。その視線は、写真であるはずなのに、見る者の魂の奥底を覗き込むような妖しい力を持っていた。
「あなたたちの任務は、会場に潜入し、ルクスリア本人、あるいは彼女に繋がる汚染の源流を特定すること。カタリスト、あなたは司令塔として二人を統率しなさい。イヴ、あなたのクリーンなゴーストは、精神汚染を探る最高のセンサーです。そして……」
有栖川の視線が、俺の隣で腕を組み、不機嫌そうに唇を尖らせているグラに向けられた。
「EVE-06。あなたの『エネルギー吸収』能力は、精神攻撃に対する我々の唯一の切り札。あなたの姉の一人……ルクスリアを止めるために、その力を使ってもらいます」
「……お兄ちゃんの、命令なら」
グラは、俺の顔をちらりと見上げ、小さな声でそう答えた。その瞳には、イヴと同じ任務に就くことへの不満と、それでも俺の役に立ちたいという健気な想いが、複雑に揺らめいていた。
控え室の空気は、緊張と、そして微かな香水の匂いで満たされていた。
俺は、生まれて初めて着る窮屈なタキシードに悪戦苦闘していた。慣れない蝶ネクタイをいじりながら鏡の前に立つと、そこに映る自分はまるで借り物のようで、ひどく滑稽に見えた。
「……似合わないな」
自嘲気味に呟いた、その時だった。
「……きれい」
背後から、吐息のような声が聞こえた。振り返ると、そこに立っていたのは、息を呑むほど美しい二人の少女だった。
グラは、彼女の黒髪と白い肌を際立たせる、漆黒のゴシックドレスに身を包んでいた。幾重にも重なるフリルとレースが、彼女の華奢な身体を飾り立て、まるで気高くて少し危険な、夜の妖精のようだ。
一方のイヴは、グラとは対照的に、純白のシンプルなAラインドレスを着ていた。余計な装飾は何もない。だが、それがかえって彼女の素材そのものの美しさと、どこか儚げな雰囲気を引き立てていた。
二人は、互いの存在を意識しながらも、その視線を俺に集中させていた。
「お兄ちゃん……かっこいい」
グラが、頬を微かに染めて言う。
「……とても、素敵です」
イヴもまた、はにかむように微笑んだ。
二人の、あまりにも純粋な賞賛の言葉に、俺は顔が熱くなるのを感じた。
「……お前らこそ。……まあ、悪くないんじゃないか」
精一杯の虚勢を張ってそう言うのが、俺にはやっとだった。
黒塗りのセダンが、ホテルのエントランスに滑り込む。
一歩足を踏み入れると、そこは別世界だった。天井からは巨大なシャンデリアが眩い光を降り注ぎ、大理石の床は磨き上げられて鏡のように俺たちを映す。オーケストラの甘美な生演奏が、人々の喧騒と混じり合い、この空間を満たしていた。
日本の権力者たちが、偽りの笑顔を浮かべながらグラスを片手に談笑している。彼らの妻や愛人たちは、高価な宝石とドレスでその身を飾り、互いの虚栄心を探り合っている。
俺たちは、この華やかで、同時に醜悪な欲望が渦巻く世界に、三匹の異物として紛れ込んだ。
「……すごい……」
グラは、目を丸くして周囲を見回している。俺は彼女の手を取り、人混みからはぐれないように、そっと自分の腕に絡ませた。その瞬間、グラの身体から安堵したような気配が伝わってくる。
「イヴ、大丈夫か?」
「……はい。でも……少し、気分が……」
イヴは、顔をしかめてこめかみを押さえていた。
「この場所にいる人たちの感情が……直接、頭の中に流れ込んでくるみたいで……」
彼女の言葉に、俺は耳に着けた小型通信機に意識を集中させた。
『聞こえるか、カタリスト。イヴの言う通りだ。この会場は、極めて高レベルの精神汚染に満ちている。誰もが、自分の欲望を隠そうともしていない。ルクスリアの能力が、彼らのタガを外しているんだ』
有栖川の冷静な分析が、鼓膜を震わせる。
俺は、イヴの肩に手を置き、自分の魔素を僅かに流し込んだ。俺の『調停』の力が、彼女のゴーストを外部からのノイズから守る、薄いフィルターの役割を果たす。
「……ありがとう、ございます。少し、楽に……」
イヴがほっと息をついた、その時だった。
俺の腕に絡みついていたグラの指先に、ぎゅっと力が込められた。見ると、彼女は俺がイヴの肩に置いた手を、嫉妬に燃える瞳で睨みつけていた。
まずい、と思った瞬間、イヴが「あっ」と小さな声を上げた。
「……見つけました」
彼女の視線は、会場の奥、テラスへと続くガラスの扉に向けられていた。
「……あそこです。とても強い……甘くて、どろりとした、気持ちの悪い感情の流れが……渦を巻いています」
その瞬間だった。
俺の脳内に、直接、声が響いた。それは、男も女も、誰もが振り返るような、甘く、官能的なアルト。
『――あら、可愛い坊や。迷子かしら?』
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前の華やかなパーティー会場が、一瞬にして、あの渋谷の惨劇へと変わる。灰色のノイズが世界を喰らい、人々の声なき悲鳴が響き渡る。そして、俺の目の前で、グラが飢餓に狂い、その虚無の顎でイヴを喰らおうとしていた。
「やめろぉぉっ!」
俺が叫んだ、その時。
舌のスティグマが、灼けるように熱くなった。
グラとの繋がりが、現実へと俺の意識を無理やり引き戻す。幻覚だ。これは、ルクスリアの精神攻撃。
「……お兄ちゃん!」
隣で、グラが俺の腕を掴んでいた。彼女の瞳には、俺と同じ幻覚を見せられた恐怖と、そして俺を守ろうとする強い意志が宿っていた。
俺は、舌の奥で熱を帯びる力を感じながら、幻覚という名の精神エネルギーそのものに意識を集中させた。そして、命じのではなく、本能で理解した。
――喰らえ。
俺の魂が、そう叫んでいた。
脳内にまとわりつく甘美な毒を、俺のゴーストが、まるで極上の食事のように喰らい尽くしていく。視界がクリアになり、パーティー会場の喧騒が戻ってくる。
俺の額には、びっしょりと冷や汗が浮かんでいた。
『……へぇ……』
脳内に、再び声が響く。だが、今度は嘲るような、そして獲物を見つけた獣のような、愉悦に満ちた声だった。
『面白いおもちゃ。私の愛を、弾くなんて。……いいわ。もっと、もっと、可愛がってあげる』
声はそれきり途絶えた。だが、その粘つくような視線だけが、俺たちの魂に絡みついて離れない。
色欲の魔女は、俺たちに気づいた。
偽りの夜会で、狩りの始まりを告げる、蠱惑的な笑みを浮かべながら。