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第1章 第6話 魂の共鳴、そして夜明けへ

ラボでの衝撃的なキスから一夜明けても、俺たちの周囲には気まずさと、そして奇妙な熱気が漂っていた。

グラは、あれ以来、俺のそばから一歩も離れようとしなかった。食事の時も、ソファで寛いでいる時も、その小さな手は常に俺の服の裾を固く握りしめている。それはもはや不安からくる行動ではなく、自らの所有を主張する、明確な意志の表れだった。

そして俺自身もまた、身体の内側で何かが決定的に変化してしまったのを感じていた。

「予想以上の結果です、カタリスト」

再び呼び出された第3ラボのモニタールームで、有栖川は興奮を隠しきれないといった様子で告げた。彼女の前に浮かぶ立体映像には、俺とグラのゴーストパターンが、複雑な光の糸で幾重にも結びついている様が映し出されている。

「昨日のキスという行為……それは、我々の理解を超える、極めて高密度なゴースト間の情報交換を誘発した。魂の同調率はレベル1『物理的接触』を飛び越え、レベル2『精神的共感』の領域にまで達しています」

有栖川は、俺の舌に刻まれたスティグマのデータを拡大する。紋様は以前よりも鮮やかな光を放ち、その輝きは力強く脈打っていた。

「スティグマの活性化に伴い、あなたの能力も新たな段階に入ったようです。これまでの『エネルギー吸収』は、グラのゴーストを介した受動的なものでした。しかし今のあなたは、より能動的に、そして精密にその力を行使できるはずです」

彼女の言葉に、俺は自分の右手に視線を落とした。言われてみれば、分かる。この部屋を満たす照明の光、稼働する電子機器が発する微弱な電磁波、それら全てが持つエネルギーの「流れ」が、皮膚感覚として理解できるのだ。そして、意識を集中すれば、その流れを僅かに自分の内側へと引き寄せることができる。まるで、呼吸をするように。

「これが……俺の力……」

「ええ。あなたの魂が、彼女の能力を自らのものとして理解し始めたのです。まだ基礎的な特性――パッシブスキルに過ぎませんが、大きな進歩です」

俺の隣で、グラは有栖川の説明をどこか得意げな顔で聞いていた。そして、俺の手に自分の手をそっと重ね、「お兄ちゃんは、わたしの」と、俺にだけ聞こえる声で囁いた。

分析の後、有栖川は俺を一人、イヴの元へと向かわ せた。

「彼女のゴーストの安定性を、あなたという触媒を介して最終確認します。EVE-06は、ここで待機」

有栖川の冷静な命令に、グラは不満を露わにしたが、「お兄ちゃんの、お仕事だから」と俺が言い聞かせると、渋々ながらも頷いた。マジックミラー越しに、その視線が俺の背中に突き刺さるのを感じながら、俺は再びイヴの部屋へと足を踏み入れた。

イヴは、ソファに座って静かに本を読んでいた。俺の姿を認めると、彼女は本を閉じ、少しだけ戸惑ったような表情で立ち上がった。

「……あの……」

「よお。昨日は、悪かったな。色々あって」

俺がそう言うと、イヴは小さく首を振った。

「いえ……。ただ、少し、驚いただけです」

彼女は、探るような目で俺を見つめた。

「あの……昨日の、あれは……何だったのですか?」

その問いは、あまりにも率直で、俺は言葉に詰まった。嫉妬に狂った少女の暴走だ、などと言えるはずもない。

「……あいつなりの、愛情表現、みたいなもんだ。ちょっと、不器用すぎるけどな」

俺がそう誤魔化すと、イヴは納得したような、しないような、複雑な表情で俯いた。

「愛情……」

その言葉を、彼女はまるで知らない単語を反芻するかのように、小さく繰り返した。そして、顔を上げると、その澄んだ瞳で俺をまっすぐに見据えた。

「不思議です。あなたとこうして話していると、なぜか……心が落ち着く。失くしてしまった記憶の代わりに、何か温かいものが、この胸の中に流れ込んでくるような……そんな気がするんです」

その言葉に、俺はハッとした。彼女もまた、俺の持つ『調停』の能力に、無意識のうちに影響を受けているのかもしれない。安定しているとはいえ、彼女のゴーストもまた、記憶という名の大きな欠落を抱えているのだから。

俺は、目の前のこの少女もまた、守るべき存在なのだと、強く思った。

イヴとの対話の後、俺は有栖川に呼び止められた。彼女は一枚の電子ファイルを俺の前に提示する。そこに映し出されていたのは、日本の政財界を牛耳る数人の要人たちの顔写真と、彼らの不可解な行動を記録した機密報告書だった。

「これは……?」

「最近、霞が関を中心に、奇妙な精神汚染が報告されています。まるで、誰かに心を操られているかのように、人々が意思を失い、特定の政策を強引に推し進めようとしている。我々は、これを別の《オリジナルズ》によるものと断定しました」

有栖川の指が、ファイルの中の一人の女の肖像をなぞった。官能的なドレスにその身を包み、薄いヴェールで口元を隠した、見る者を惑わす妖艶な女。――EVE-07、《色欲》のルクスリア。

「彼女の能力は『精神感応マインドハック』。人の心を内側から支配する、最も厄介な敵です。あなたに、この事件の調査を命じます」

「俺に?」

「ええ。あなたの『触媒』としての力、そしてEVE-06のエネルギー吸収能力は、精神攻撃というエネルギーすら喰らう、唯一の対抗策カウンターとなり得る。これは、あなたにしかできない任務です」

有栖川の言葉は、拒否を許さない響きを持っていた。

「そして……」と彼女は続けた。「この任務には、イヴも同行させます。彼女の汚染されていないクリーンなゴーストは、ルクスリアが張り巡らせた精神汚染のネットワークを探る、最高の探知機センサーになる可能性がある」

その決定は、俺たちの間に新たな波紋を広げた。

モニタールームで全てを聞いていたグラは、イヴも一緒だと知った瞬間、再びその瞳に嫉妬の炎を宿した。だが、俺が彼女の前に膝をつき、その両手を握って、まっすぐに目を見て言った。

「任務だ。でも、それだけじゃない。グラ、お前の力が必要なんだ。俺だけじゃ、勝てないかもしれない。だから、一緒に戦ってくれ」

俺の真剣な言葉に、グラの中の嫉妬の炎が、戸惑うように揺らめいた。そして、しばらくの沈黙の後、彼女はこくりと頷いた。「お兄ちゃんが、必要だって言うなら」と。

こうして、第一章の幕は下りる。

俺と、俺に執着する最強の少女グラ、そして自分自身を知らない謎の少女イヴ。

奇妙なトリオは、これから始まる戦いを予感しながら、東京の夜景を見下ろしていた。

色欲の魔女が支配する、偽りの愛と欲望が渦巻く夜の社交界へ。

俺たちの、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。

side —EVE-07—

パリ。夜の光がシャンゼリゼ通りを黄金色の川に変える頃、その女は最高級ホテルのスイートルームで、世界の駒を動かしていた。

滑らかなシルクのドレスが、彼女の蠱惑的な身体のラインを惜しげもなく描き出す。窓の外に広がる夜景を背に、彼女――ルクスリアは、深く満たされた溜息を漏らした。その吐息だけで、部屋に侍る日本の大臣のゴーストは甘美な痺れに打ち震える。

「……ああ、愛しい人。これで、あなたの望むがままに……」

男は、恍惚の表情で彼女の足元に跪き、その靴に口づけようとする。だが、ルクスリアはそれを許さず、つま先で男の顎をくいと持ち上げた。

「ええ、よくできましたわ。私の可愛い人形」

その声は蜜のように甘いが、瞳は凍てつくほどに冷たい。彼女は男の魂を完全に掌握し、その空っぽの器に自らの「愛」という名の毒を注ぎ込むことに、もはや何の愉しみも見出していなかった。

ふと、彼女は指先で弄んでいたワイングラスの動きを止める。

「……あら?」

薄いヴェールの下の唇が、妖艶な弧を描いた。

「……極東から、面白い『響き』が聞こえるわ。……とても純粋で、力強い魂の音。まだ何色にも染まっていない、無垢な光……」

ルクスリアは、ゆっくりと立ち上がった。窓ガラスに映る自分の姿に、うっとりと囁きかける。

「退屈な遊びはもう終わり。ねえ、アダムの管理する箱庭に、新しいおもちゃが見つかったみたいよ」

彼女の指先が、窓ガラスをそっとなぞる。その軌跡に、微かな魔素の光が走り、ガラスの向こうの東京の夜景が、一瞬だけ歪んだ。

「どんな音がするのかしら。どんな色に染まるのかしら。その魂を、私の『愛』で満たしてあげたら……」

彼女の瞳の奥で、決して満たされることのない渇望が、新たな獲物を見つけて、爛々と輝き始めていた。


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