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第1章 第5話鏡の向こうの少女

金色の鳥籠での生活は、まるで薄氷の上を歩くような、危うい平穏のうちに続いていた。

俺はグラのために料理を作り、グラは俺の作るものを「おいしい」と言って笑う。俺は世界の常識を教え、グラはスポンジが水を吸うようにそれを吸収していく。夜は同じベッドで眠り、互いの体温に安心して眠りに落ちる。その繰り返される日常は、俺たちの間に「兄妹」というにはあまりにも濃密で、甘やかな絆を育んでいた。

だが、その平穏が永遠に続くものではないことを、俺は心のどこかで理解していた。俺たちはAEGISの監視下にあり、俺は『カタリスト』、グラはEVE-06という、役割を与えられた存在なのだから。

その日は、突然やってきた。

昼食後、リビングのソファで二人並んでまどろんでいた俺のスマホが、けたたましい音を立てた。ディスプレイには非通知の着信。出るまでもなく、相手は分かっている。

「……有栖川さんか」

俺が応答すると、スピーカーの向こうからいつもの平坦な声が響いた。

『カタリスト。至急、第3ラボまで来てください。あなたに会わせたい人間がいます』

有無を言わさぬ口調。俺は溜息をつき、隣で不安そうにこちらを見上げるグラの頭を撫でた。

「大丈夫。ただの呼び出しだ。すぐ帰る」

だが、有栖川はそれを許さなかった。

『いいえ、EVE-06も同行させなさい。彼女にも、関係のあることです』

AEGISの第3ラボは、これまで通っていた検査施設とは比べ物にならないほど厳重なセキュリティに守られていた。幾重もの隔壁を抜け、俺たちが通されたのは、巨大なマジックミラーを備えたモニタールームだった。

「こちらです」

有栖川に促され、俺は息を呑んだ。

鏡の向こう側。そこは、俺たちが暮らすマンションの一室を模したような、生活感のある部屋だった。そして、その部屋のソファに、一人の少女が座っていた。

「……!」

俺の隣に立つグラの身体が、こわばるのが分かった。

少女は、グラと全く同じ顔をしていたのだ。

いや、違う。顔の造形は、寸分違わず同じだ。だが、その雰囲気はまるで正反対だった。長く艶やかな黒髪を揺らし、清潔な白いワンピースに身を包んだその少女には、グラが持つような飢餓の影も、怯えの色も一切ない。ただ、少しだけ所在なさそうに、しかし凛とした静けさをもってそこに存在していた。まるで、丁寧に磨き上げられた黒曜石のような少女。

「数日前、我々の保護下に入った民間人です。名前は、イヴ」

有栖川は、手元のタブレットを操作しながら淡々と説明を始めた。

「特筆すべきは、彼女のゴーストパターン。驚くべきことに、全ての《オリジナルズ》の素体となった《EVE-00》の初期データと、99.8%の近似率を示しました。しかし、彼女のゴーストには、他の姉妹たちが持つような『大罪』に起因する汚染や欠損が一切見られない。極めて安定的で、クリーンな状態です」

「……どういうことだ?」

「分かりません。彼女は自分が何者なのか、記憶を失っている。我々が知りたいのは、あなたという『触媒』が、この特異な個体と接触した時、一体どのような化学反応を起こすのか、ということです」

有栖川の瞳が、科学者としての冷たい探求の光を帯びる。

「さあ、中へ。彼女と話をしてみてください」

俺は、固く握られたグラの手をそっと離し、一人で部屋へと入った。重い隔壁が、背後で音を立てて閉まる。

ソファに座っていた少女――イヴが、俺の姿を認め、静かに立ち上がった。その瞳は、深い森の湖のように澄み切っていて、俺という存在をただ静かに映している。

「……はじめまして」

俺が言うと、彼女は小さく頷いた。

「……はじめまして」

その声は、鈴が鳴るようにクリアで、それでいてどこか儚げな響きを持っていた。

俺は、どう話を切り出すべきか迷いながら、彼女の向かいのソファに腰を下ろした。

「気分は、どうだ?」

「……大丈夫です。皆、親切にしてくれますから」

「そうか。……何か、思い出せそうなことは?」

「……いいえ。何も。ただ、目が覚めたら、ここに……」

彼女はそう言うと、寂しそうに瞳を伏せた。その仕草は、あまりにも自然で、普通の少女そのものだった。俺は、無意識のうちに、彼女を安心させようと優しい声を作っていた。

「そっか。まあ、焦ることはないさ。何かあったら、俺でよければ……」

そこまで言いかけた時だった。

――ピシッ。

背後で、ガラスに罅が入るような、鋭い音が響いた。

俺が振り返った先、マジックミラーの向こう側。そこに立つグラの姿が、俺の目に飛び込んできた。

彼女は、ミラーに両手を張り付かせ、その内側から俺とイヴの姿を、食い入るように見つめていた。

その瞳は、俺が今まで見たことのない色をしていた。

飢餓ではない。怯えでもない。

もっと暗く、もっとドロドロとした、魂の奥底から湧き上がるような、濁った感情の炎。

俺が、知らない女と話している。

俺が、知らない女に、優しい顔を見せている。

俺が、知らない女に、笑いかけている。

その事実が、彼女のゴーストを内側から焼き焦がしていくのが、舌のスティグマを通して、痛いほどに伝わってきた。

モニタールームの気温が、急速に下がっていく。有栖川のタブレットに表示されたグラの飢餓信号が、警告を示す赤色で激しく点滅を始めた。

「……お兄ちゃんは」

グラの唇が、微かに動く。

「……わたしの」

ドクン、と俺の心臓が大きく跳ねた。

これは、まずい。

彼女の中で、今まで知らなかった感情が、最も危険な形で産声を上げようとしている。

それは、嫉妬。

自分の大切なものを、他人に奪われることへの、根源的な恐怖と怒り。

俺は、イヴに断りを入れるのも忘れ、慌ててモニタールームへと戻った。

「グラ!」

俺が駆け寄ると、グラはゆっくりと俺に顔を向けた。その瞳から、一筋、涙が零れ落ちる。

「……お兄ちゃん」

「どうしたんだ、急に……」

「……あの女、だれ……?」

その声は、震えていた。

「……お兄ちゃんの、妹……?」

「いや、違う!ただの……」

「じゃあ、なに……?」

グラは、俺の服の裾を、爪が食い込むほど強く握りしめた。

「……わたしの、お兄ちゃんなのに……なんで、あんな女と……」

その瞳の奥で、微かな灰色のノイズがちらつくのが見えた。それは、かつて渋谷を飲み込んだ、あの破壊の光の予兆だった。

俺は、言葉を失った。このままでは、彼女のゴーストが暴走する。

俺は、周囲の目も、有栖川の冷徹な視線も、何もかもを無視して、震えるグラの身体を強く抱きしめた。

「落ち着け、グラ。俺はここにいる。お前のそばにいる」

「……でも……」

「あの子は、関係ない。俺の妹は、お前だけだ」

俺は、宥めるように、言い聞かせるように、彼女の背中をゆっくりと撫でた。俺の体温と、魔素が、穏やかに彼女へと伝わっていく。

腕の中で、グラの身体の強張りが、少しずつ解けていく。だが、彼女の瞳から嫉妬の炎が消えることはなかった。それどころか、その炎は、別の熱を帯びて、より一層強く燃え上がっていく。

「……お兄ちゃん」

俺を見上げる、潤んだ瞳。その中に宿るのは、もはや妹が兄に向けるものではなかった。

女が、男に向ける、熱を帯びた眼差しだった。

「……わたしの……」

彼女はそう呟くと、俺の首に小さな腕を回し、その身体を預けてきた。そして、僅かに背伸びをし、俺の唇に、自らの唇を重ねた。

柔らかく、そして熱い感触。

驚きに目を見開いた俺の視界の端で、有栖川が冷静にタブレットを操作しているのが見えた。

グラの唇から、彼女の魂の叫びが流れ込んでくるようだった。『行かないで』『わたしだけを見て』『あなたはわたしのもの』。言葉にならない、純粋で、あまりにも強大な独占欲。

それは、初めてのキスだった。

甘くも、切なくもない。ただひたすらに、相手を自分のものにしようとする、魂と魂のぶつかり合い。

鏡の向こう側で、イヴはその光景をただ呆然と見つめていた。

自分と全く同じ顔をした少女が、見知らぬ男性と唇を重ねている。

それが何を意味する行為なのか、彼女の失われた記憶は教えてくれない。だが、その光景が、自分の魂の奥底にある何かを、強く、そして不穏に揺さぶることだけは、確かだった。

なぜ、あの二人はあんなことをしているのだろう。

なぜ、自分とそっくりなあの少女は、あんなにも必死な顔をしているのだろう。

そして、なぜ。

なぜ、自分の胸が、こんなにも締め付けられるように痛むのだろう。

イヴは、答えの出ない問いに困惑しながら、ただガラスの向こうの二人を、見つめ続けることしかできなかった。


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