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第1章 第4話金色の鳥籠と、初めての味

金色の鳥籠での生活は、奇妙な平穏のうちに過ぎていった。

俺たちの毎日は、キッチンに立つことから始まる。AEGISが用意した、やたらと機能の多いシステムキッチン。その光沢のある調理台の前で、俺は備え付けのタブレットに表示されたレシピ動画と、フライパンの上で心もとなく揺れる卵液を交互に見比べていた。

「……いいにおい」

ダイニングチェアに体育座りをしたグラが、鼻をくんくんと鳴らしながら呟いた。焦げ付かないように最新の注意を払いながら菜箸で卵を巻いていくと、出汁と醤油の香ばしい香りがふわりと立ち上る。初めてハンバーグを食べた日以来、彼女は固形の食物が持つ「味」という概念の虜になっていた。それは、彼女のゴーストを蝕む『飢餓』とは全く別の、純粋で穏やかな喜びをもたらすものらしかった。

少し不格好になっただし巻き卵を皿に盛りつけてテーブルに運ぶと、グラの瞳が期待にきらきらと輝いた。

「はい、あーん」

「ん……」

俺が差し出す箸先から、彼女は小さな口で卵を食む。その瞬間、彼女の瞳が驚きに見開かれ、そして、ふにゃりと幸せそうに細められた。咀嚼するたびに、その表情が蕩けていくのを見るのが、俺の新しい日常の喜びになっていた。

「……おいしい」

「そうか」

「……もっと」

「はいはい」

まるで雛鳥に餌を与える親鳥のような光景だが、文句を言う気にはなれなかった。彼女がこうして穏やかに笑ってくれるのなら、料理の一つや二つ、いくらでも作ってやる。

食事以外の時間は、グラにとって世界の発見の連続だった。

リビングに置かれた巨大なテレビは、彼女にとって魔法の箱だった。リモコンのボタンを不思議そうに押し、チャンネルが変わるたびに「わっ」と小さな声を上げる。動物のドキュメンタリー番組がお気に入りで、画面の中のライオンやイルカの動きを、食い入るように見つめていた。

ある日、俺が掃除機をかけると、その轟音と不気味な動きに怯え、ソファの陰に隠れてしまったこともあった。俺は掃除機の電源を切り、これがゴミを吸い取るだけの機械で、彼女を喰ったりはしないのだと、辛抱強く説明しなければならなかった。

一つ一つ、世界の仕組みを教えるたびに、グラの瞳には新しい光が灯っていく。彼女がこれまで生きてきた世界には、色がなかったのだ。音も、味も、温もりも。俺は、その真っ白なキャンバスに、日常という名の色彩を与えているのかもしれない。

だが、この生活が偽りの平穏であることも、俺は忘れてはいなかった。

週に一度、俺たちはAEGISの施設で定期検診を受けることが義務付けられている。

白い検査着に着替えさせられ、様々な機械に繋がれる。俺は主に魔素の出力レベルとゴーストの安定性のチェック。グラは、飢餓信号のレベル測定と、バイタルデータの収集が目的だ。

検査室の無機質な機械音と消毒液の匂いは、グラにかつての実験室を思い出させるのだろう。検査が始まると、彼女は決して俺の服の裾から手を離そうとせず、その小さな手はいつも微かに震えていた。俺は何も言わず、その手を強く、強く握り返した。

「……まるで、仲の良い兄妹のようですね」

検査室を隔てるマジックミラーの向こうから、スピーカーを通して有栖川の平坦な声が響いた。モニターに映し出された彼女は、興味深そうに顎に手をやっている。

「あなたという『触媒』は、実に興味深い反応を引き起こす。EVE-06のゴーストは、あなたと接触している間、驚くほど安定している。飢餓信号はほぼ完全に沈黙し、代わりに……これまで観測されたことのない、穏やかな感情の波形が記録されている」

その言葉は、俺を安心させると同時に、俺たちがモルモットであることを改めて突きつけてきた。この穏やかな時間も、全てガラスの向こう側から値踏みされているのだ。

「……あんたたちにとっては、全部データなんだろ」

俺が吐き捨てるように言うと、有栖川は表情を変えずに答えた。

「ええ、もちろん。ですが、データは時に、我々の予測を超える『物語』を語り出すことがある。あなたたちの物語が、どのような結末を迎えるのか……一人の科学者として、純粋に興味がありますよ」

その言葉は、皮肉にも聞こえたし、どこか本心からの響きも持っていた。

マンションに戻る途中、エレベーターの中でグラがぽつりと尋ねてきた。

「……おにいちゃん……って、なに?」

「ん?ああ、兄妹の……兄の方ってことか」

「にいもうと?」

「血の繋がった、年上の男と年下の女のことだよ。家族、みたいなもんだ」

俺がそう説明すると、グラは何かを考えるように黙り込んだ。そして、部屋に着くなり、俺の服の裾をくいと引っ張った。

「なあに?」

振り返った俺に、彼女は少しだけ頬を赤らめ、そして、こう言ったのだ。

「……わたしの、お兄ちゃん?」

その問いに、俺は一瞬、言葉を失った。

家族。兄。その言葉が、彼女にとってどれほどの意味を持つのか。血も繋がっていなければ、種族すら違う俺たち。だが、彼女がそう望むのなら。

「……ああ、そうだな。俺がお前の、お兄ちゃんだ」

俺がそう答えると、グラの顔が、ぱあっと輝いた。それは、今まで見たどんな笑顔よりも眩しい、太陽のような笑顔だった。

「お兄ちゃん!」

彼女はそう言って、俺の腰にぎゅっと抱きついてきた。その小さな身体の温もりに、俺は戸惑いながらも、そっとその背中に手を回した。

その日から、グラは俺を「お兄ちゃん」と呼ぶようになった。

その呼び声は、俺たちの関係を少しずつ、しかし確実に変えていった。俺は彼女の保護者であり、彼女は被保護者。餌であり、捕食者。そんな歪な関係の上に、「兄妹」という新しい名前が与えられたのだ。

変化は、グラの方により顕著に現れた。

ある夜、リビングのソファで二人並んで、AEGISが用意した旧時代のアニメ映画を観ていた時のことだ。物語がクライマックスに差し掛かり、主人公がヒロインを守るために身を挺すシーン。俺が何気なく、物語に感動しているグラの頭を撫でた。

その瞬間、彼女の身体がびくりと大きく震えた。

「……グラ?」

俺が覗き込むと、彼女は潤んだ瞳で俺をじっと見つめ返してきた。その頬は、夕焼けのように真っ赤に染まっている。

ドクン、と彼女の胸から、これまで聞いたことのない、速くて、力強い心臓の鼓動が聞こえてきた。それは、飢餓でも、安堵でもない。もっと熱くて、甘くて、そして少しだけ胸が苦しくなるような、全く新しい感情の音だった。

彼女のゴーストが、未知の反応に戸惑っているのが、繋がったスティグマを通して俺にも伝わってくる。

「……お兄ちゃん……」

「……どうした?」

「……ここが……へん……」

そう言って、彼女は自分の胸に小さな手を当てた。

「……あったかくて……いたい……」

俺は、その感情の正体に気づいてしまい、息を呑んだ。

それは、恋慕。

生まれて初めて、彼女の魂に芽生えた、誰かを求める純粋な想い。

俺に向けられた、あまりにも無垢で、そしてあまりにも強大な感情の奔流に、俺はどうすることもできず、ただ彼女の瞳を見つめ返すことしかできなかった。

その夜、グラは俺の腕の中で眠りながら、初めて夢を見た。

それは、暗くて寒い実験室の夢でも、終わりなき飢餓の悪夢でもない。

隣で笑う「お兄ちゃん」に、手作りのハンバーグを「あーん」してあげる、温かくて幸せな夢だった。

金色の鳥籠の中で、二つの魂は静かに結びつき、そして、世界を揺るがすことになる物語は、新たな章へとその歩みを進め始めていた。

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