第1章 第3話魂の設計図と、きみの名前
意識が覚醒へと向かう過程は、深く暗い水底から、光の差す水面へとゆっくりと浮上していく感覚に似ていた。最後に脳裏をよぎったのは、俺の腕の中で静かに寝息を立てる少女の姿と、周囲を取り巻くAEGIS兵士たちの硬質なヘルメットの残像。そして、舌の上に残る、灼けるような奇妙な感触だった。
最初に届いたのは、やはり消毒液の匂いだった。だが、以前に目覚めた純白の独房とは違い、そこには微かに人の気配と、稼働する電子機器のかすかな駆動音が混じっていた。
瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。間接照明の柔らかな光が、部屋全体を穏やかに照らしている。身体を起こすと、自分が寝かされていたのは簡素なベッドの上で、あのざらついた白い衣服ではなく、肌触りの良いスウェットに着替えさせられていることに気づいた。
部屋は、以前の独房よりは遥かに広かった。壁の一面が巨大なマジックミラーになっており、その向こう側にいるであろう無数の視線を感じて、背筋が冷たくなる。
「気分はいかがですか。プライム・ファクター」
声は唐突に、しかしすぐそばから聞こえた。見ると、部屋の隅の椅子に、いつからそこにいたのか、有栖川栞が脚を組んで座っていた。白衣は着ておらず、タイトな黒のタートルネックとスラックスという、研究者というよりはエージェントのような服装だ。手にしたタブレットの画面から、彼女は一度も目を離さない。
「プライム・ファクター?」
「あなたのコードネームです。我々にとって、あなたは最優先観測対象であり、最重要因子。そう呼称することが決定しました」
まるで他人事のように、彼女は告げる。俺という個人の名前は、ここでは何の意味も持たないらしい。
「……グラトニーは?あの子はどうなった?」
俺の問いに、有栖川は初めてタブレットから視線を上げ、その冷たい瞳で俺を射抜いた。
「EVE-06は、あなたのすぐ隣の部屋で眠っています。驚くほど安定した状態でね。あなたの『供給』以降、彼女のゴーストから発せられる飢餓信号は、観測史上最も低いレベルを維持している」
その言葉に、俺は知らず安堵の息を漏らしていた。よかった。あの子は、今は苦しんでいない。
「さて」と有栖川は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。「あなたが眠っている間に、いくつか興味深いデータが取れました。あなた自身の、そして、あなたと彼女の間に起きた『事象』に関するデータが」
彼女がタブレットを操作すると、俺と彼女の間に、青白い光で構成された立体映像が浮かび上がった。それは、複雑な幾何学模様と無数の光の線が絡み合った、星雲のように美しいオブジェクトだった。
「これは『ゴースト』の概念図です。以前にも話しましたが、もう少し詳しく説明する必要があるでしょう。ゴーストとは、単なる意識のデジタルコピーではない。それは、個人の魂、クオリア、その存在の全てを情報として定義する『魂の設計図』そのもの。そして、《オリジナルズ》のゴーストは、我々人類のそれとは比較にならないほど高次元で、複雑で、そして……不安定な構造をしています」
映像の中の星雲が、その一部を禍々しい赤色に染め上げていく。
「EVE-06のゴーストには、致命的なバグが存在する。自己保存本能の暴走による、永続的な『飢餓』です。ゴーストが常にエネルギーを求め、自身の存在を維持するために、外部から際限なく情報を喰らい続ける。それが、あの破壊の正体。彼女に悪意はない。ただ、生きるために、世界を喰らっているに過ぎない」
その説明は、俺の胸を抉った。生きるために、苦しみ続ける。そんな地獄があるというのか。
「そして、これがあなたの舌に刻まれたもの」
有栖川が再びタブレットを操作すると、今度は俺の口の中の映像が、拡大されて表示された。舌の上に刻まれた、あの紋様。それは淡い光を放ち、まるで生きているかのように微かに脈動している。
「我々はこれを『スティグマ』と仮称しています。聖痕、あるいは烙印。あなたのゴーストと、EVE-06のゴーストが、極めて高いレベルで共鳴し、一時的にリンクした際に形成された、物理世界におけるインターフェースです。信じがたい現象ですが、これにより、あなたは彼女の能力の一部を限定的に行使する権能を得た」
「能力の、共有……」
「ええ。あなたの特異な魔素を介して、二つの魂の間に仮初の『契約』が結ばれた、とでも言うべきでしょうか。あなたは彼女に魂の渇きを癒す『糧』を与え、その見返りに、彼女の力の『欠片』を受け取った。舌という部位に形成されたのは、おそらく『暴食』という彼女の根源的欲求と、最も密接な器官だからでしょう」
有栖川の言葉は、俺の中でバラバラだった事象を一つの線で結びつけた。あの灼けるような痛み。流れ込んできた、新しい力の感覚。全ては、この紋様の仕業だったのだ。
「あなたは、やはり我々の想定を超える存在だ。プライム・ファクター。あなたは、人類の希望にも、そして最悪の災厄にもなり得る」
彼女の瞳には、科学者としての純粋な探求心と、得体の知れないものへの畏怖が、奇妙なバランスで同居していた。
説明が終わると、有栖川は俺を隣の部屋へと案内した。
重々しい隔壁が開くと、そこは俺がいた部屋とほぼ同じ造りだったが、隅に置かれたベッドの上で、小さな身体が丸くなっていた。
グラトニーだった。
俺の気配に気づいたのか、彼女の身体がびくりと震え、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、まだ怯えの色が濃い。だが、同時に、俺という存在を確かめるような、探るような視線が向けられていた。
「……」
俺は、有栖川の存在を無視して、ゆっくりと彼女に近付いた。数歩の距離で立ち止まる。
「怖がらないで。俺は、何もしない」
グラトニーは、ただ俺をじっと見つめている。その視線は、俺という存在を値踏みしているようでもあった。「餌」としての価値を。
「俺は……お前の敵じゃない。助けたいんだ」
「……たすける……?」
初めて、彼女が明確な意思を持って言葉を発した。か細く、掠れた声。長い間、誰とも対話していなかったことを物語っていた。
「ああ。腹、減ってるんだろ?もう、あんな風に街を壊さなくてもいいようにしてやりたい」
俺は、そっと右手を差し出した。あの時、彼女に触れた手だ。
グラトニーの視線が、俺の手に注がれる。彼女のゴーストが、この手から流れ込んできた温かいエネルギーの感覚を記憶しているのだろう。
彼女は、おずおずと、震える手を伸ばしてきた。その小さな指先が、俺の指に触れる。
瞬間、俺の身体から淡い光が溢れ出し、彼女の身体へと吸い込まれていった。それは、戦場で交わした激しい奔流ではなく、静かで、穏やかな小川の流れのようだった。
「……あったかい……」
グラトニーの瞳から、少しだけ警戒心が解けていく。彼女は、赤ん坊が母親の指を握るように、俺の手をぎゅっと握りしめた。その感触は、あまりにもか弱くて、胸が締め付けられる。
「なあ、お前のこと、何て呼べばいい?EVE-06とか、スクランブルとか、そんな記号じゃなくて」
俺の問いに、彼女はこてん、と首を傾げた。
「……よぶ……?」
「名前だよ。お前の名前」
「なまえ……わたしは……EVE-06……」
「それは識別番号だろ。そうじゃなくて、お前自身の名前」
グラトニーは困ったように眉を寄せ、うーんと唸り始めた。その仕草は、どこにでもいる普通の子供のようで、彼女が背負わされた運命とのギャップに、俺は言葉を失いそうになる。やて、彼女は何かを思い出したように、ぽつりと言った。
「……ぐ……ら……」
「グラ?」
「……みんな……そう、いってた……『暴食の失敗作』……って……」
その言葉に、俺は奥歯を噛みしめた。研究者たちが、彼女をそう呼んで蔑んでいたのだろう。名前ですらない、ただの侮蔑の記号。
「そうか。グラ、か」
俺は、彼女の前にしゃがみこみ、視線を合わせた。そして、できるだけ優しい声を作って言った。
「いい名前じゃないか。俺は好きだぜ、その響き」
「……すき……?」
「ああ。だから、これからは俺もそう呼ぶ。いいか、グラ?」
俺がそう言うと、グラの瞳が、ほんの僅かに、本当に僅かに見開かれた。その黒い瞳の奥に、小さな光が灯ったように見えた。彼女は、こくりと小さく頷いた。その瞬間、握られた手の力が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
「交渉成立、ですね」
いつの間にか背後に立っていた有栖川が、満足げに言った。
「これより、あなたとEVE-06――グラの共同生活を開始します。もちろん、我々の厳重な監視下で、ですが」
その日から、俺とグラの奇妙な共同生活が始まった。
AEGISが用意したのは、新宿の超高層ビルの一室だった。リビングだけで二十畳はあろうかという、俺が今まで住んでいた安アパートがいくつ入るか分からないような豪華な部屋。壁一面の窓からは、宝石を撒き散らしたような東京の夜景が一望できた。だが、その窓ガラスは銃弾はおろか、対戦車ミサイルにも耐える特殊素材でできているらしい。ここは、金色の鳥籠だった。
生活に必要なものは、全て揃えられていた。俺のサイズの服、グラの……おそらく同年代の少女が着るであろうワンピースやパジャマ。そして、冷蔵庫にはぎっしりと食料が詰め込まれていた。
「……これ、なに?」
ダイニングテーブルに並べられた温かい食事を前に、グラは不思議そうに首を傾げた。湯気の立つハンバーグ、彩りの良いサラダ、そして真っ白なご飯。彼女は、フォークの持ち方すら知らないようだった。
「食事だよ。腹、減ってないのか?」
「おなか、すいてる。でも……これは……おいしいの?」
彼女にとって、「食事」とはエネルギーそのものを吸収することだったのだろう。固形の食物を口から摂取するという概念が、そもそも存在しないのかもしれない。
俺は苦笑しながらフォークを取り、ハンバーグを小さく切り分けた。
「ほら、こうやって……あーん」
差し出すと、グラは戸惑いながらも、恐る恐る小さな口を開けた。フォークの先が口の中に消える。ゆっくりと咀嚼する彼女の目が、驚きに見開かれていく。
「……! おいしい……!」
その表情は、俺の魔素を吸収した時の安堵とは全く違う、純粋な子供のような喜びだった。その顔が見れただけで、俺はこの生活も悪くないかもしれない、なんて思ってしまった。
風呂にも入れた。もちろん、別々にだ。
俺が先にシャワーを浴びて出てくると、グラは脱衣所で服の脱ぎ方が分からずに固まっていた。俺はバスルームのドアの向こうから、シャワーの使い方からシャンプーの仕方まで、一つ一つ言葉で教えなければならなかった。しばらくして、中から聞こえてきた楽しそうな水音に、俺はまた頬が緩むのを感じた。
夜。
寝室は二つ用意されていたが、グラは俺の部屋のドアの前から動こうとしなかった。新品のパジャマに着替えた彼女は、少しだけ不安そうな顔で俺を見上げている。
「……ひとりは……いや」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。彼女が今まで生きてきた世界は、常に独りだったのだ。飢餓と孤独だけが、彼女の全てだった。
「……分かったよ。こっちに来い」
俺は自分のベッドの半分を空けてやった。グラは、ためらうようにベッドに上がり、俺から少し距離を置いた場所にちょこんと座る。その身体からは、シャンプーの甘い香りがした。
部屋の明かりを消すと、窓の外の夜景がより一層鮮やかに見えた。
「……きれい」
グラが、ぽつりと呟いた。
「ああ、きれいだな」
「ずっと……くらいところにいた。なにもなくて……さむくて……おなかがすいてた」
「……もう、大丈夫だ。俺がいる」
俺がそう言うと、グラはもぞもぞと動いて、俺の背中にぴたりと身を寄せた。小さな身体の温もりが、パジャマ越しに伝わってくる。やがて、すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始めた。
俺は、天井を見つめながら、舌の上で微かに光るスティグマの感触を確かめていた。
失われた日常。始まった非日常。腕の中には、世界を滅ぼしかねない少女。
これからどうなるのかなんて、全く分からない。
だが、この温もりを守るためなら、何だってしてやろう。
そんな、柄にもないことを考えているうちに、俺の意識もまた、深い眠りへと落ちていった。金色の鳥籠の中で、俺たちの最初の夜が、静かに更けていく。