第2章 第14話告解と蜘蛛の糸
静寂が、星と夜景の海に満ちていた。
俺の意識が、陽だまりのような子守唄の夢からゆっくりと浮上した時、最初に感じたのは、誰かの膝の柔らかさと、頬を伝う涙の温かさだった。
見上げると、そこには涙でぐしゃぐしゃになった、ルクスリアの顔があった。彼女は、俺が目覚めたことに気づくと、びくりと身体を震わせ、慌てて俺をその膝から下ろそうとした。
「……目が、覚めたのね」
その声には、もう俺たちを弄ぶような甘い響きも、魂を支配しようとする傲慢さもなかった。ただ、深い疲労と、そしてどこか壊れやすい硝子のような、戸惑いの色だけが滲んでいた。
「お兄ちゃん!」
「……!」
グラとイヴが、俺の両脇に駆け寄ってくる。グラは俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくり、イヴは安堵したように、ただ黙って俺の手を握りしめた。二人の体温が、俺の魂がまだここにあることを、教えてくれる。
俺は、ゆっくりと上半身を起こした。ルクスリアの絶望の幻覚によって刻まれた魂の傷は、まだ疼くように痛む。だが、それ以上に、彼女が俺の魂の深淵で見たであろう『記憶』のことが、重く心にのしかかっていた。
「……全部、見たのか」
俺の問いに、ルクスリアは視線を彷徨わせ、そして、こくりと小さく頷いた。
「あなたの魂に癒着していた、あなたの『母親』の記憶……。ええ、見てしまったわ。……知りたくもなかった、地獄をね」
彼女は、自嘲するように、美しい唇を歪めた。
「私は、人の心を覗き、その欲望を操ることで、自らの孤独を癒してきた。誰もが醜い欲望を隠し持っているのだと、そう思うことで、私だけが特別に汚れているわけではないと、言い訳をしてきたの。でも……」
ルクスリアは、震える手で自らの胸を押さえた。
「……あなたの魂に触れて、分かってしまった。本物の地獄は、欲望の中にあるんじゃない。……愛が、踏みにじられる場所にあるのだと」
彼女の瞳から、再び涙が零れ落ちた。それは、俺の母親に向けられた涙であり、そして、同じように孤独を抱える、彼女自身の魂に向けられた涙でもあった。
「このシルク・パレスは、私のものじゃないわ」
唐突に、彼女は語り始めた。
「ここは、私の姉妹の一人……EVE-05《強欲》のマモンが創り出した、欲望の取引市場。私は、ただ彼女の『遊び場』を間借りして、魂という名のコレクションを集めていただけ。客の秘密を握り、傀儡を増やすには、うってつけの場所だったから」
彼女は、まるで懺悔するかのように、自らの罪を告白していく。
「私は、孤独だった。誰にも理解されない、この『精神感応』という力は、私から本当の意味で人と繋がる術を奪ったわ。だから、他人の心を無理やりこじ開け、私の『愛』という名の毒で満たすしかなかった。そうしなければ、私は、私でいられなかったのよ」
その告白は、あまりにも痛々しく、そして哀しかった。
グラとイヴも、ただ黙って、その言葉に耳を傾けている。
「でも、もう終わりよ。あなたの魂に触れて、思い知らされた。私が振りまいてきた『愛』が、どれほど醜く、空っぽなものだったのかを」
ルクスリアは、涙を拭うと、決意を秘めた瞳で俺をまっすぐに見つめた。
「だから、これは、あなたへの償い。そして、私自身への、けじめよ」
彼女は、一枚のデータチップを取り出した。
「あなたの母親……汎用NEARの最初期ロットを巡る、非人道的な実験。その記録の断片を、あなたの魂の中で見たわ。……そして、その実験が、今も続いていることも知っている」
彼女の口から語られた名前に、俺は息を呑んだ。
「――『黄泉の揺り籠』」
「東アジア連合の軍部が、極秘裏に運営する研究機関。彼らの目的はただ一つ。あなたのような『エーテルボーン』を、人工的に、そして量産することよ」
ルクスリアは、憎しみを込めて、言葉を続けた。
「彼らは、世界中から魔素に高い感応性を持つ人間や、非正規のNEARを拉致し、おぞましい交配実験を繰り返している。命の尊厳など、そこには存在しない。成功率の低い実験の果てに生まれるのは、不完全な命と、壊れていく母体だけ。あなたの母親が味わった地獄が、今も、世界のどこかで繰り返されているのよ」
その言葉は、俺の魂に深く突き刺さった。
俺の母親が受けた苦しみ。俺が生まれた理由。その全てが、今も続く悪夢の一部だというのか。
「……なぜ、そんなことを……」
「彼らは、AEGISの……いいえ、長女アダムの支配を覆したいのよ。ゴースト技術に依存しない、『自国産の超人』を生み出すことでね。そのために、彼らは生命倫理というタガを、とうの昔に捨て去った」
ルクスリアは、データチップを俺の手に握らせた。
「ここには、私がシルク・パレスで集めた、『黄泉の揺り籠』に関する情報の全てが入っているわ。彼らの研究施設の一つが、日本の近海にあることも突き止めてある。……これを使って、どうするかは、あなた次第よ」
それは、あまりにも重い、バトンだった。
俺の過去と、そして、これから俺が戦うべき、本当の敵の姿が、そこには示されていた。
「もう、行きなさい」
ルクスリアは、静かに言った。
「このシルク・パレスは、今夜限りで閉じるわ。私も、少し、独りで考える時間が欲しいの。……私が本当に求めていた『愛』とは、何だったのかをね」
彼女は、俺たちに背を向け、星空のドームの中心へと、ゆっくりと歩いて行った。その背中は、ひどく小さく、そして儚く見えた。
俺たちは、何も言わずに、その場を後にした。
エレベーターが下降していく。
俺の手の中には、世界の闇を凝縮したような、一枚のデータチップ。
隣には、俺の腕にしがみつき、不安そうな瞳を向けるグラと、何かを決意したように、固く唇を結ぶイヴ。
色欲の魔女との戦いは、終わった。
だが、それは、俺の魂の本当の物語の、始まりに過ぎなかった。
俺は、握りしめたチップの冷たさを感じながら、これから向かうべき、より深く、暗い戦場を、静かに見据えていた。




