表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/20

第2章 第14話告解と蜘蛛の糸

静寂が、星と夜景の海に満ちていた。

俺の意識が、陽だまりのような子守唄の夢からゆっくりと浮上した時、最初に感じたのは、誰かの膝の柔らかさと、頬を伝う涙の温かさだった。

見上げると、そこには涙でぐしゃぐしゃになった、ルクスリアの顔があった。彼女は、俺が目覚めたことに気づくと、びくりと身体を震わせ、慌てて俺をその膝から下ろそうとした。

「……目が、覚めたのね」

その声には、もう俺たちを弄ぶような甘い響きも、魂を支配しようとする傲慢さもなかった。ただ、深い疲労と、そしてどこか壊れやすい硝子のような、戸惑いの色だけが滲んでいた。

「お兄ちゃん!」

「……!」

グラとイヴが、俺の両脇に駆け寄ってくる。グラは俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくり、イヴは安堵したように、ただ黙って俺の手を握りしめた。二人の体温が、俺の魂がまだここにあることを、教えてくれる。

俺は、ゆっくりと上半身を起こした。ルクスリアの絶望の幻覚によって刻まれた魂の傷は、まだ疼くように痛む。だが、それ以上に、彼女が俺の魂の深淵で見たであろう『記憶』のことが、重く心にのしかかっていた。

「……全部、見たのか」

俺の問いに、ルクスリアは視線を彷徨わせ、そして、こくりと小さく頷いた。

「あなたの魂に癒着していた、あなたの『母親』の記憶……。ええ、見てしまったわ。……知りたくもなかった、地獄をね」

彼女は、自嘲するように、美しい唇を歪めた。

「私は、人の心を覗き、その欲望を操ることで、自らの孤独を癒してきた。誰もが醜い欲望を隠し持っているのだと、そう思うことで、私だけが特別に汚れているわけではないと、言い訳をしてきたの。でも……」

ルクスリアは、震える手で自らの胸を押さえた。

「……あなたの魂に触れて、分かってしまった。本物の地獄は、欲望の中にあるんじゃない。……愛が、踏みにじられる場所にあるのだと」

彼女の瞳から、再び涙が零れ落ちた。それは、俺の母親に向けられた涙であり、そして、同じように孤独を抱える、彼女自身の魂に向けられた涙でもあった。

「このシルク・パレスは、私のものじゃないわ」

唐突に、彼女は語り始めた。

「ここは、私の姉妹の一人……EVE-05《強欲》のマモンが創り出した、欲望の取引市場。私は、ただ彼女の『遊び場』を間借りして、魂という名のコレクションを集めていただけ。客の秘密を握り、傀儡を増やすには、うってつけの場所だったから」

彼女は、まるで懺悔するかのように、自らの罪を告白していく。

「私は、孤独だった。誰にも理解されない、この『精神感応』という力は、私から本当の意味で人と繋がる術を奪ったわ。だから、他人の心を無理やりこじ開け、私の『愛』という名の毒で満たすしかなかった。そうしなければ、私は、私でいられなかったのよ」

その告白は、あまりにも痛々しく、そして哀しかった。

グラとイヴも、ただ黙って、その言葉に耳を傾けている。

「でも、もう終わりよ。あなたの魂に触れて、思い知らされた。私が振りまいてきた『愛』が、どれほど醜く、空っぽなものだったのかを」

ルクスリアは、涙を拭うと、決意を秘めた瞳で俺をまっすぐに見つめた。

「だから、これは、あなたへの償い。そして、私自身への、けじめよ」

彼女は、一枚のデータチップを取り出した。

「あなたの母親……汎用NEARの最初期ロットを巡る、非人道的な実験。その記録の断片を、あなたの魂の中で見たわ。……そして、その実験が、今も続いていることも知っている」

彼女の口から語られた名前に、俺は息を呑んだ。

「――『黄泉の揺りよみのゆりかご』」

「東アジア連合の軍部が、極秘裏に運営する研究機関。彼らの目的はただ一つ。あなたのような『エーテルボーン』を、人工的に、そして量産することよ」

ルクスリアは、憎しみを込めて、言葉を続けた。

「彼らは、世界中から魔素に高い感応性を持つ人間や、非正規のNEARを拉致し、おぞましい交配実験を繰り返している。命の尊厳など、そこには存在しない。成功率の低い実験の果てに生まれるのは、不完全な命と、壊れていく母体だけ。あなたの母親が味わった地獄が、今も、世界のどこかで繰り返されているのよ」

その言葉は、俺の魂に深く突き刺さった。

俺の母親が受けた苦しみ。俺が生まれた理由。その全てが、今も続く悪夢の一部だというのか。

「……なぜ、そんなことを……」

「彼らは、AEGISの……いいえ、長女アダムの支配を覆したいのよ。ゴースト技術に依存しない、『自国産の超人』を生み出すことでね。そのために、彼らは生命倫理というタガを、とうの昔に捨て去った」

ルクスリアは、データチップを俺の手に握らせた。

「ここには、私がシルク・パレスで集めた、『黄泉の揺り籠』に関する情報の全てが入っているわ。彼らの研究施設の一つが、日本の近海にあることも突き止めてある。……これを使って、どうするかは、あなた次第よ」

それは、あまりにも重い、バトンだった。

俺の過去と、そして、これから俺が戦うべき、本当の敵の姿が、そこには示されていた。

「もう、行きなさい」

ルクスリアは、静かに言った。

「このシルク・パレスは、今夜限りで閉じるわ。私も、少し、独りで考える時間が欲しいの。……私が本当に求めていた『愛』とは、何だったのかをね」

彼女は、俺たちに背を向け、星空のドームの中心へと、ゆっくりと歩いて行った。その背中は、ひどく小さく、そして儚く見えた。

俺たちは、何も言わずに、その場を後にした。

エレベーターが下降していく。

俺の手の中には、世界の闇を凝縮したような、一枚のデータチップ。

隣には、俺の腕にしがみつき、不安そうな瞳を向けるグラと、何かを決意したように、固く唇を結ぶイヴ。

色欲の魔女との戦いは、終わった。

だが、それは、俺の魂の本当の物語の、始まりに過ぎなかった。

俺は、握りしめたチップの冷たさを感じながら、これから向かうべき、より深く、暗い戦場を、静かに見据えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ