表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/20

第1章 第2話白い部屋の契約

意識が浮上する。

最初に感じたのは、消毒液の匂いだった。鼻腔の奥をツンと刺す、あらゆる生命感を拒絶するような無機質な香り。次に、硬質なベッドの感触。シーツは糊が効きすぎて、肌に擦れると微かな痛みを覚えるほどだ。

ゆっくりと瞼を開くと、そこは純白の世界だった。

壁も、天井も、床も、全てが継ぎ目のない白い素材でできている。照明はどこにあるのか分からないが、部屋全体が均一な光で満たされており、影というものが存在しない。まるで、現実感が希薄な夢の中にいるようだった。俺が着ているのも、ざらついた感触の白い衣服だった。制服はどこへやったのだろう。煙草の匂いが染みついた、俺の日常の象徴は。

「目が覚めましたか」

声は、壁に埋め込まれたスピーカーから響いた。女の声だ。体温を感じさせない、平坦で落ち着いたアルト。

「気分はいかがです?身体に異常は?」

「……ここは?」

掠れた声が出た。喉がカラカラに乾いている。

「AEGIS極東支部、第7隔離セクターです。あなたは現在、我々の保護下にあります」

保護、という言葉の響きが、やけに空々しく聞こえた。拘束具こそないが、この部屋の有り様は独房そのものだ。ドアらしきものはどこにも見当たらない。

「……あの後、どうなった。渋谷は……あの女の子は……」

「鎮圧は完了しました。対象――コードネーム《スクランブル》は活動を停止し、現在は潜伏期間に入ったものと推測されます。民間人の被害は甚大ですが、あなたは……幸運でしたね」

淡々とした説明に、感情は一切込められていない。まるで天気予報でも読み上げるかのように、彼女はあの地獄を語る。

俺は、アスファルトにへたり込んだままだった自分を思い出す。黒い兵士たち。そして、消える直前の少女の、俺を見つめる瞳。

「説明を求めます。何が起きたのか。あの子は、一体何なんだ」

俺は、無意識のうちに強張っていく身体を起こしながら言った。

スピーカーの向こうで、微かな衣擦れの音がした。

「説明はします。そのために、あなたをここへお連れしたのですから」

その言葉と共に、目の前の壁の一部が音もなくスライドして開いた。光の向こうから、一人の女性が姿を現す。

白衣を着ていた。きっちりと切りそろえられた黒髪のボブカットに、フレームの細い眼鏡。化粧気のない顔立ちは知的に整っているが、その瞳はまるでメスのように冷たく、俺という存在を分析しているのが見て取れた。胸元のIDカードには「主任研究員 有栖川ありすがわ しおり」と記されている。

「私が、あなた方の担当になった有栖川です。よろしく」

あなた方、と言った。複数形。俺の他に、誰かいるというのか。

有栖川と名乗る女は、俺の疑問を読み取ったように続けた。

「あなたと、そして《スクramble》……EVE-06《暴食》グラ。あなた方二人の、です」

彼女はそう言うと、手にしたタブレット端末を操作した。すると、部屋の壁が巨大なディスプレイへと変わる。そこに映し出されたのは、あの少女の鮮明な顔写真だった。虚ろな瞳。だが、写真であっても、その奥に宿る底なしの飢餓感が伝わってきて、背筋がぞくりと粟立った。

「彼女は、《オリジナルズ》と呼ばれる7体の最強のNEARの一人。コードネーム《スクランブル》。識別名、EVE-06《暴食》グラ。彼女の能力は、あらゆるエネルギーを際限なく吸収し、喰らい尽くすこと。物理法則さえも例外ではありません。渋谷で起きた事象は、彼女の『食事』の痕跡です」

NEAR。神経接続魔素感応体。第五次世界大戦の主力兵器として開発された強化人間。知識としては知っていた。だが、それはニュースの向こう側の出来事で、俺の日常とは何の関係もないはずだった。

「……化け物、ということか」

俺の呟きに、有栖川は静かに首を振った。

「いいえ。彼女は兵器であり、同時に……被害者でもある」

ディスプレイの映像が切り替わる。そこに映し出されたのは、おぞましい実験記録の数々だった。培養カプセルの中で眠る、無数の同じ顔をした少女たち。身体中に繋がれたケーブル。そして、暴走するエネルギーによって肉体が崩壊していく凄惨な映像。

「《オリジナルズ》は、全てのNEARの原型となった《EVE-00》を素体として生み出されました。彼女たちは姉妹であり、そして、人類が作り出した最も罪深い存在です。特にEVE-06は、エネルギー転換効率の実験中に制御不能に陥り、以来、ゴーストそのものが癒えることのない『飢餓』という呪いに囚われている」

ゴースト。魂の設計図。肉体が滅んでも、それさえあれば復活できるというNEARの根幹技術。

「彼女は、ただ空腹なだけなのです。満たされることのない、永遠の空腹に苛まれている。だから、喰らう。それが彼女に唯一許された存在理由だから」

俺は言葉を失った。あの少女が、そんな存在だったとは。ただの災害、歩く天災ではなかった。彼女もまた、苦しんでいたのだ。

「……だが、なぜ俺がここに?」

「本題はそこです」

有栖川の眼鏡が、くい、と持ち上げられる。その奥の瞳が、初めて探るような光を帯びた。

「我々の観測記録です」

壁の映像が、渋谷の惨状に切り替わる。監視カメラの映像だろう。人波に押されて倒れる俺。ノイズに飲み込まれていく人々。そして、俺に触れた瞬間の少女。

映像がスローモーションになる。俺の右手から、眩い光が溢れ出す瞬間が、克明に映し出されていた。グラフが表示される。俺から放出された魔素エーテルの波形パターン。そして、それを吸収した後の、EVE-06のゴーストの安定化を示すデータ。

「あなたは、ただの人間ではない。我々のデータベースのどこにも存在しない、特異な魔素の持ち主です。それは、EVE-06の『飢餓』を、一時的にではありますが、鎮静化させる効果を持っていた。あのような現象は、史上初めて観測されました」

「……俺が、あの子を……?」

「ええ。あなたは、彼女にとって唯一無二の『餌』であり、同時に……『薬』にもなり得る存在なのです」

有栖川は一歩、俺に近付いた。その声には、科学者としての抑えきれない好奇心と、冷徹な計算が滲んでいた。

「単刀直入に言いましょう。我々はあなたに協力を要請します。あなたの力があれば、EVE-06を破壊することなく、無力化、あるいは制御下に置くことが可能かもしれない。これは、人類にとって大きな福音です」

「協力……」

「拒否することもできます。その場合、あなたは最重要機密事項、そして特級危険因子として、生涯この施設で暮らしていただくことになります。あなたの存在そのものが、世界のパワーバランスを崩しかねない爆弾ですので」

それは、選択の余地のない選択だった。協力か、永遠の監禁か。

俺は、俯いた。脳裏に、あの少女の顔が浮かぶ。

飢えに歪んだ顔。俺に触れた瞬間の、僅かな安堵の表情。そして、「おいしい」と言った、無邪気な声。

彼女は化け物じゃない。兵器でもない。

ただ、助けを求めている、一人の女の子だ。

俺は、顔を上げた。

「……やるよ。協力する。でも、条件がある」

「聞きましょう」

「俺は、あんたたちの兵器になるつもりはない。あの子を、グラを、俺は助けたい。ただ、それだけだ」

その言葉を聞いた有栖川の表情が、初めて僅かに動いた。ほんの少しだけ、口元が緩んだように見えた。それは嘲笑でも、感心でもない。まるで、予期していた通りの答えを聞いたかのような、奇妙な満足感を含んだ微笑だった。

「……結構。その『感傷』が、吉と出るか、凶と出るか。見せてもらいましょう」

その時だった。

けたたましい警報音が、白い部屋に鳴り響いた。壁も天井も、全てが警告を示す赤色灯で明滅する。

『緊急警報!緊急警報!対象スクランブル、再出現!ポイントは……渋谷区、初台周辺!』

スピーカーから、緊迫したオペレーターの声が響く。

有栖川の顔から表情が消えた。彼女はタブレットを凄まじい速さで操作し、壁面に渋谷のリアルタイム映像を映し出す。そこには、再び灰色のノイズに飲み込まれていく街並みがあった。

「……早すぎる。潜伏期間がこれほど短いとは……」

有栖川が忌々しげに呟く。

「いや、待て。この侵食パターンは……何かを探している?まさか……」

ノイズの進行方向は、一直線だった。無差別にエネルギーを喰らっていた前回とは違う。明確な意志を持って、ある一点を目指している。その先にあるのは――俺が住んでいるアパートだった。

俺を探している。

直感的に理解した。一度味わった「餌」の匂いを追って、飢えた獣が巣穴までやってきたのだ。

「有栖川さん!」

俺は叫んでいた。

「俺を行かせてくれ!俺なら、あの子を止められる!」

有栖川は、俺と壁面のモニターを交互に見比べ、一瞬だけ逡巡した。だが、すぐに決断を下す。その瞳には、研究者としての冷徹な光が宿っていた。

「……面白い。あなたの言う『救済』とやらが、どれほどのものか。ここで試させてもらいましょう」

彼女はインカムに鋭く指示を飛ばした。

「第1戦闘部隊、出動準備!『プライム・ファクター』を現場へ移送する!これは実験ではない、実戦だ!」

移送機の中は、機械油と兵士たちの汗の匂いが充満していた。轟音と振動に耐えながら、俺は窓の外を流れていく夜景を見ていた。さっきまで俺がいた世界が、まるで作り物のように遠く感じられる。

現場に到着すると、そこは地獄だった。

AEGISの戦闘用NEARたちが、グラを相手に必死の抵抗を試みていたが、その攻撃は全く意味をなしていなかった。彼らが放つエネルギーライフルの一斉射は、グラにとっては豪華なフルコースでしかない。彼女は全ての攻撃をその身に吸収し、満足げな溜息と共に、周囲のビルをノイズへと変えていく。

「少年!行け!」

兵士の一人に背中を押され、俺は戦場の真っただ中に躍り出た。

グラが、俺に気付いた。

その虚ろな瞳が、一瞬にして歓喜の光に満たされる。

「……み……つけた……」

彼女は一直線に、俺に向かって突進してきた。その背後で、高層ビルが音もなく崩れ落ちていく。

AEGISの兵士たちが俺の前に立ちはだかろうとするが、俺は彼らを制した。

「下がってくれ!俺がやる!」

恐怖はあった。足が震える。だが、それ以上に強い感情が、俺の胸を支配していた。

助けたい。

この、世界でたった一人、飢えに苦しむ少女を。

俺は両腕を広げ、彼女を待ち受けた。

走ってくる彼女の姿が、スローモーションで見える。風に煽られる黒髪。ぼろぼろの衣服。そして、ただひたすらに俺を求める、その瞳。

衝撃。

小さな身体が、俺の胸に飛び込んできた。だが、予想していたような痛みはない。代わりに、全身の血が沸騰するような熱い感覚が駆け巡った。

俺の身体から、再びあの光が溢れ出す。だが、今度は暴走ではない。俺自身の意志が、その流れをコントロールしていた。

――満たしてやりたい。お前のその、果てしない渇きを。

心の中で、強く念じる。

すると、光はより一層輝きを増し、奔流となってグラの身体へと注ぎ込まれていった。

俺の意識が、彼女の意識と混じり合う。

感じたのは、言葉にならないほどの『孤独』と『飢餓』だった。生まれてからずっと、ただの一度も満たされたことのない、魂の渇き。冷たくて、暗くて、果てしない虚無。それが彼女の世界の全てだった。

涙が、頬を伝った。俺自身の涙なのか、彼女の涙なのか、もう分からなかった。

「……もう、いいんだ」

俺は、彼女の小さな身体を、壊れ物を抱きしめるように、そっと抱きしめた。

「もう、一人じゃない」

その瞬間、舌に、灼熱の痛みが走った。

口の中に鉄の味が広がり、鏡もないのに理解できた。舌の上に、複雑な紋様が、まるで光る刺青のように刻まれているのを。それは、円環状に連なる、どこか古代の文字を思わせるデザインだった。

そして、俺は理解した。

これが、最初の『契り』。

俺の中に、新しい力が流れ込んでくるのを感じた。それは、彼女の力の一部。あらゆるエネルギーを吸収し、自らの力へと変える――『エネルギー吸収エナジードレイン』の権能。

グラの身体から、力が抜けていく。あれほど荒れ狂っていた魔素のノイズが、嘘のように静まっていく。彼女は、俺の腕の中で、安心しきった子供のように、静かな寝息を立て始めていた。

その顔には、もう飢餓の色はなかった。ただ、穏やかな安らぎだけがあった。

俺は、精根尽き果ててその場に膝をついた。

周囲を取り囲むAEGISの兵士たちが、畏怖と驚愕の入り混じった目で俺を見ている。遠くで、有栖川が冷静に何事かを指示する声が聞こえる。

俺は、そんなことなどどうでもよかった。

ただ、舌の上で淡い光を放ち続ける紋様の、その奇妙な感触を確かめていた。

俺の日常は、完全に終わった。

そして、神々と怪物が支配する世界の片隅で、俺の新しい人生が、今、静かに始まったのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ