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第2章 第13話傷ついた獣のための子守唄

ルクスリアの精神体が、主人公の魂の深淵から、弾き飛ばされるようにして現実世界へと帰還した。

「……はっ……あ……う……ああ……」

彼女は、床に四つん這いになり、激しく喘いでいた。ヴェールはどこかへ吹き飛び、その美しい顔は、恐怖と、嫌悪と、そして自らの理解を超えたものに触れてしまったことへの、深い混乱に歪んでいた。

流れ込んできたのは、主人公自身の記憶ではない。

彼のゴーストに、母親のゴーストの断片が、まるで呪いのように癒着していたのだ。エーテルボーンの誕生の秘密。その裏にあった、一人の女性NEARの、あまりにも惨たらしい凌辱と崩壊の記録。

人の魂を弄ぶことを至上の喜びとしてきた彼女が、初めて、他人の魂の、本物の地獄を覗いてしまったのだ。

「……なんて、こと……」

彼女は、震える手で自らの身体を抱きしめた。

「なんて、醜くて……なんて、おぞましくて……そして……」

ルクスリアは、顔を上げた。その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

「……なんて、哀しい魂なの……」

彼女は、力なく床に横たわる俺の姿を、初めて、おもちゃとしてではない、一つの傷ついた魂として、見つめていた。

俺の瞳からは光が消え、その魂は、自らが作り出した絶望の悪夢の中で、完全に砕け散っていた。

「……お兄ちゃん……」

グラが、すがるように俺の身体を揺する。だが、反応はない。

「……いや……いやだ……!」

イヴの『調停』の光も、もはや砕けた魂の破片を繋ぎ止めることができず、その輝きを失いかけていた。

二人の少女が絶望に打ちひしがれる、その時だった。

ルクスリアが、動いた。

彼女は、震える足でゆっくりと立ち上がると、まるで夢遊病者のように、ふらふらと俺の元へと歩み寄った。その瞳から、涙が次々と零れ落ち、濡れた床に小さな波紋を作る。

グラが、最後の力を振り絞って、威嚇するように唸った。

「……さわるな」

だが、ルクスリ-アは、その声が聞こえていないかのように、俺の隣に静かに膝をついた。そして、壊れ物を扱うかのように、そっと、俺の上半身を抱き起した。

彼女は、そのまま俺を、自らの膝の上へと乗せた。

シルクのドレスの柔らかな感触と、彼女の体温が、意識のない俺の身体に伝わる。

「……こんなになるまで……独りで……」

ルクスリアは、俺の額に浮かんだ汗を、その指先で優しく拭った。その仕草は、まるで我が子を慈しむ母親のようだった。

他人の魂を支配することでしか、自らの孤独を埋められなかった女。

生まれながらの孤独を、誰にも理解されずに生きてきた少年。

二つの、あまりにも歪で、あまりにも哀しい魂が、今、静かに出会った。

ルクスリアは、俺の頭を、その豊満な胸にそっと抱き寄せた。そして、ゆっくりと、歌い始めた。

それは、子守唄だった。

特定の国の言葉ではない。もっと古く、もっと根源的な、魂そのものに直接響く、音の連なり。

彼女の声は、もはや甘い毒ではなかった。それは、傷ついた魂を包み込み、その痛みを鎮めるための、聖母の祈り。

彼女の能力の根源である『精神感応』の力が、その歌声に乗って、星空を模したドーム全体に広がっていく。それは支配のための力ではない。ただ、一つの傷ついた魂を癒すためだけに奏でられる、慈愛の旋律。

歌声が、俺の砕け散ったゴーストの破片を、一つ、また一つと、優しく拾い集めていく。

拒絶の記憶を、慰めるように。

断罪の言葉を、赦すように。

そして、その魂の最も深い場所に癒着した、母親の哀しい記憶を、鎮魂歌のように、優しく、優しく、包み込んでいく。

グラとイヴは、その光景を、ただ呆然と見つめていた。

敵だったはずの女が、自分たちの「お兄ちゃん」を膝に乗せ、涙を流しながら、子守唄を歌っている。

その姿は、もはや色欲の魔女ではない。

傷ついた獣を腕に抱き、その魂の痛みと共に泣く、一人の女だった。

グラの瞳から、嫉妬の色が消えていた。代わりに浮かんだのは、自分には決してできないやり方で、お兄ちゃんの魂を救おうとしている女への、畏怖と、そしてほんの少しの、敗北感。

イヴは、その歌声に、自らの失われた記憶の扉が、微かに軋むのを感じていた。知らないはずなのに、どこかで聞いたことがあるような、懐かしくて、胸が締め付けられるような旋律。

歌声が、星々の間を抜け、夜景の中に溶けていく。

どれほどの時間が、経ったのだろうか。

やがて、歌が終わり、静寂が戻った時。

ルクスリアは、その美しい顔を、涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、泣き崩れていた。彼女は、俺の魂の地獄を覗き、そして、自らの魂の孤独と共に、泣いていたのだ。

そして、彼女の膝の上。

俺の瞳に、再び、微かな光が灯っていた。

その口元が、ほんの僅かに、穏やかなカーブを描く。

俺は、夢を見ていた。

陽だまりの中で、優しい母親が歌ってくれた、遠い日の子守唄の、夢を。



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