第2章 第12話魂の心臓、禁断の記憶
絶体絶命の状況の中で、ルクスリアは、狂おしいほどの笑みを浮かべた。
「あなた、一体、何者なの……!?」
彼女の問いに答える者はいない。
ただ、暴走する姉妹たちの力の奔流が、侵入者である色欲の魔女を、その記憶の迷宮から、完全に排除しようとしていた。
灰色のノイズが空間そのものを喰らい尽くそうと迫り、絶対的な重力が彼女の精神体を圧し潰そうと襲いかかる。それは、EVE-06《暴食》とEVE-01《傲慢》の、制御を失った力の残響。ただの本能。故に、純粋で、圧倒的な破壊の嵐。
並のNEARであれば、この嵐に触れた瞬間に、そのゴーストは塵芥と化して消滅していただろう。
だが、彼女はルクスリア。人の心を弄び、魂を支配することを至上の喜びとする、色欲の魔女。
「――面白いわ。面白いじゃないの、姉さんたちの『お下がり』で、この私を止められるとでも思って?」
ルクスリアの唇が、愉悦に歪んだ。
彼女は、迫りくる破壊の嵐から逃げようとはしなかった。それどころか、自らその渦中へと、優雅なワルツを踊るように、その身を投じたのだ。
灰色のノイズが彼女の精神体に触れた瞬間、それは喰らうべき対象を見失い、その勢いを失う。彼女が、自らの魂に偽りの『満腹感』という幻覚を見せることで、グラトニーの力を欺いたのだ。
絶対的な重力が彼女を押し潰そうとすれば、彼女はその魂に『無重力』という名の快感を囁きかけ、アダムの力を無効化する。
彼女は、戦っているのではない。誘惑しているのだ。姉妹たちの、剥き出しの力の奔流そのものを、自らの『愛』で手懐けようとしている。
「あなたたちの力は、確かに強いわ。でも、それはただの暴力。感情のない、空っぽの力。……魂を蕩かす本当の『愛』の前では、無意味よ」
ルクスリアは、破壊の嵐の中を、まるで散歩でもするように、悠然と進んでいく。そして、再び、あの禁断の領域――光る鎖でがんじがらめにされた、球体の前へとたどり着いた。
(――見つけたわ、あなたの『心臓』)
「さあ、見せなさい。あなたの全てを。その魂の奥底に、一体、何を隠しているのかを……!」
ルクスリアは、恍惚の表情で、その光る鎖の球体へと、今度こそ、ためらいなく手を伸ばした。
姉妹たちの力の残響が、最後の抵抗とばかりに彼女の精神体に襲いかかるが、もはやその力は届かない。彼女の指先は、全ての防御機構をすり抜け、ついに、その禁断の記憶の残滓に、触れた。
その瞬間――
「――あり得ない、これは何……!?」
ルクスリアの魂が、絶叫した。
彼女の指先から、濁流のように、膨大な記憶が流れ込んでくる。だが、それは主人公自身の記憶ではない。もっと古く、もっと悲しく、そして、もっとおぞましい、別の誰かの魂の記録だった。
――陽だまりの匂いがした。
白いシーツに包まれた小さな身体。自分を見下ろす、優しい瞳。
『私の、可愛い赤ちゃん……』
歌うように、囁く声。それは、汎用NEARの最初期ロットとして生み出された、「母親」の声だった。彼女は、奇跡的に生殖機能を有していた。その腕の中で、赤ん坊の自分は、世界の全てに祝福されているかのような、絶対的な安心感に満たされていた。
――場面が、暗転する。
冷たい金属の拘束台。腕に突き刺さる注射針の、鋭い痛み。無機質な機械音と、白衣の男たちの感情のない声。
『サンプルG-7、採取完了』
『脳波パターン、安定。魔素との親和性、予測値を大幅に上回る』
ガラスの向こう側で、あの優しかった母親が、血の気の引いた顔でこちらを見ている。その瞳には、恐怖と、絶望と、そして息子を守れない無力さに引き裂かれる、凄絶な苦しみが映っていた。
――再び、母親の腕の中。だが、もう陽だまりの匂いはしない。
母親の腹は、不自然に膨らんでいた。だが、その顔に喜びの色はない。
『ごめんなさい……ごめんなさい……こんな、身体で……』
彼女は、泣いていた。そして、ある夜、絶叫と共に、大量の血と、肉塊と、そして「何か」を排出した。それは、赤ん坊の形すら成していない、おぞましい異形。失敗作。不完全な命。
――母親が、壊れていく。
彼女はもう、歌を歌わなくなった。笑うこともなくなった。ただ、虚ろな目で、実験室の壁を見つめている。その瞳には、もう俺の姿は映っていない。
そして、ある夜。
白衣の研究者の一人が、彼女の病室に入ってきた。その目は、欲望に濁っていた。
「……これも、実験だ。君と、あの『成功作』のデータを取るためのな」
男は、抵抗する力もない母親の衣服を剥ぎ取り、その身体に跨った。母親は、泣かなかった。叫びもしなかった。ただ、虚空を見つめ、その美しい瞳から、一筋だけ、涙を零した。
その光景を、隣の部屋のモニターで、幼い俺は、ただ見ていることしかできなかった。
ルクスリアの精神体が、主人公の魂の深淵から、弾き飛ばされるようにして現実世界へと帰還した。
「……はっ……あ……う……ああ……」
彼女は、床に四つん這いになり、激しく喘いでいた。ヴェールはどこかへ吹き飛び、その美しい顔は、恐怖と、嫌悪と、そして自らの理解を超えたものに触れてしまったことへの、深い混乱に歪んでいた。
流れ込んできたのは、主人公自身の記憶ではない。
彼のゴーストに、母親のゴーストの断片が、まるで呪いのように癒着していたのだ。エーテルボーンの誕生の秘密。その裏にあった、一人の女性NEARの、あまりにも惨たらしい凌辱と崩壊の記録。
人の魂を弄ぶことを至上の喜びとしてきた彼女が、初めて、他人の魂の、本物の地獄を覗いてしまったのだ。
「……なんて、こと……」
彼女は、震える手で自らの身体を抱きしめた。
「なんて、醜くて……なんて、おぞましくて……そして……」
ルクスリアは、顔を上げた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……なんて、哀しい魂なの……」
彼女は、力なく床に横たわる俺の姿を、初めて、おもちゃとしてではない、一つの傷ついた魂として、見つめていた。




