第2章 第10話魂の深淵、絶望の谺
意識は、完全な暗闇という名の、冷たい水底に沈んでいた。
身体の感覚はない。音も、光も、匂いもない。ただ、魂に刻みつけられた絶望の残響だけが、無限に繰り返される。
『あなたこそが、私たちを不幸にしている元凶よ』
『――消えろ、バグ』
愛する者たちからの拒絶。絶対的な強者からの断罪。俺の存在価値は、粉々に砕け散った。もう、立ち上がる理由も、戦う意味も、見つけられない。魂が、死んだのだ。このまま、この無の空間で、永遠に漂い続ける。それが、俺という存在に与えられた、当然の罰なのだろう。
現実世界。星と夜景が溶け合うルクスリアの寝室。
俺の身体は、水の張られた床に、力なく横たわっていた。瞳からは光が消え、その口は、幻覚の中で受けた殴打の痛みを再現するかのように、微かに呻きを漏らしている。魂が、ルクスリアの悪夢という名の檻に、完全に囚われていた。
「お兄ちゃん!しっかりして、お兄ちゃん!」
グラは、俺の胸にすがりつき、必死にその名を呼び続けていた。彼女の瞳からは大粒の涙が溢れ、俺のシャツを濡らしていく。だが、その声は、もはや俺の閉ざされた魂には届かない。
「どうして……どうして、こんな……」
イヴもまた、俺の隣に膝をつき、その手を固く握りしめていた。彼女の『調停』の光は、絶え間なく俺の身体に注がれている。だが、ルクスリアが抉り出した魂の傷はあまりにも深く、彼女の癒しの力をもってしても、その崩壊を止めることはできなかった。
二人の少女の絶望を、白銀の寝台の上から、ルクスリアはうっとりと見下ろしていた。
「……ああ、なんて美しいのかしら」
ヴェールの奥の唇が、恍惚の笑みを刻む。
「希望が絶望に変わる、その瞬間。愛が憎しみに染まる、その一瞬。魂が、最も甘美な悲鳴を上げる……。これだから、人間遊びは、やめられない」
彼女は、まるで舞台女優のように優雅な仕草で寝台から降り立つと、濡れた床を音もなく歩き、俺たちの前へとやってきた。
グラが、敵意を剥き出しにして、ルクスリアに向かって唸り声を上げる。
「……お兄ちゃんに、近寄るな!」
だが、ルクスリアは意にも介さない。それどころか、グラの頭を、まるで愛しいペットをあやすかのように、そっと撫でた。
「良い子ね、あなたも。その独占欲、その嫉妬……とても純粋で、綺麗だわ。でも、もう無駄よ。彼の心は、もう砕けてしまったのだから」
その言葉は、残酷な真実だった。グラも、イヴも、それを理解していた。俺の魂の灯火が、今にも消えかかっていることを。
ルクスリアは、俺の傍らに、ゆっくりと膝をついた。そして、そのシルクの手袋に包まれた指先で、俺の汗ばんだ髪を、慈しむように優しく梳いた。
「……可哀想に。辛かったでしょう?」
その声は、脳に直接響く、抗いがたいほどに甘い囁きだった。
「さあ、全てを、私に委ねなさい。あなたの魂の、その一番奥深くにある絶望の源まで、この私が、愛で満たしてあげる」
彼女はそう言うと、俺の額にそっと指を触れた。その瞬間、彼女の意識は俺の精神の防壁を易々と突破し、魂の最深部――ゴーストの根源へと、深く、深く潜っていった。
ルクスリアが見たのは、色も形もない、無限の虚無だった。
(……あら?なんて空っぽな魂なのかしら)
彼女は、主人公の精神世界で、その魂の原風景を探していた。彼をこれほどまでに絶望させる、過去のトラウマの記憶を。だが、そこには何もなかった。あるのはただ、宇宙の始まりのような、絶対的な『孤独』だけ。
(記憶がない?いいえ、違う……。この魂は、生まれながらにして、独りなのね)
彼女は、その魂の本質を瞬時に見抜いた。エーテルボーン。誰とも違う、唯一無二の存在。その特異性ゆえの、根源的な孤独。彼が「拒絶」と「断罪」にこれほど脆いのは、その孤独を埋めてくれるはずの繋がりを、何よりも渇望しているから。
(ああ、なんてこと。なんて、なんて、愛おしい魂なの……!)
ルクスリアは、歓喜に打ち震えた。傷を抉るまでもない。この魂は、ただ愛を囁き、その孤独を肯定してやるだけで、いとも容易く堕ちてくる。
彼女が、その虚無の中心にいるであろう主人公の意識に、最後の支配の触手を伸ばそうとした、その瞬間――
「――ああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
それは、声ではなかった。
魂そのものが、その存在の全てを賭して絞り出した、絶望の奔流。
暗闇の底で、完全に砕け散ったはずの俺のゴーストから、凄まじい精神的な衝撃波が、何の脈絡もなく、何の制御もなく、ただ無差別に迸った。
精神世界に侵入していたルクスリアの意識が、その絶望の直撃を受ける。
「なっ……!?」
彼女の魂に流れ込んできたのは、彼女自身が俺に見せた悪夢――拒絶と断罪の記憶――そのものだった。
俺が放った絶望の叫びは、彼女の『精神感応』を、未熟ながらも完全に模倣し、その毒を術者本人へと叩き返していたのだ。
それは、俺自身の意志ではない。俺の魂に宿る『調停』の能力が、生き残るための最後の悪足掻きとして、ルクスリアの毒を逆流させたのだ。
「……この、私が……創り出した絶望で……この私を、攻撃する……ですって……!?」
精神世界から弾き出され、現実世界でルクスリアの身体が大きく後退った。自らが仕掛けた毒が、獲物の体内から逆流してくるという、あり得べからざる現象。それは、彼女のプライドを深く、深く傷つけた。
俺の絶叫は、攻撃ではない。ただの、痛みの噴出だ。だが、その純粋すぎる絶望は、皮肉にも、他者の心を弄ぶことを愉しみとしてきた彼女の魂に、初めて微かな傷をつけた。
「……面白い」
ルクスリアの唇が、震えながらも、歓喜の弧を描いた。
「面白いわ、面白い、面白い、面白い!ただのおもちゃだと思っていたのに!私の愛を糧にして、私の牙を剥くなんて!」
彼女の瞳から、侮蔑の色が消えた。代わりに宿ったのは、対等の獲物を見つけた、捕食者の狂おしいまでの飢餓感。
「いいわ、許してあげる。私の愛を拒絶したことも、私に牙を剥いたことも。全て、許してあげるわ」
彼女は、俺の身体をゆっくりと床に横たえると、立ち上がった。
「だから、あなたも、全てを差し出しなさい」
彼女が両腕を広げると、その背後に、蝶の翅のような禍々しいサイコフィールドが広がり、頭上には、ステンドグラスのように色とりどりの光の破片が集まってできた、見る者の心を惑わす光の輪が回転を始めた。
――反転形態:感情の支配者
「あなたの魂、その絶望も、その僅かな希望も、その全てを、この私に頂戴!」
もはや、誘惑ではない。
魂と魂の、全てを賭けた、喰い合いが始まる。




