第2章 第9話覚醒の光、絶望の幕開け
違う。こいつらは、グラじゃない。イヴじゃない。
頭のどこかで、理性が叫んでいる。
だが、身体は正直だった。熱が集まり、呼吸が荒くなる。
これは、罠だ。魂を喰われる。
分かっている。分かっているのに。
俺の魂は、この甘き毒の夢路から、抜け出すことを、拒絶し始めていた。
偽りのグラの唇が、俺のそれに触れようとした、その刹那――
――ピシリ。
世界に、一本の光の筋が走った。
それは、あまりにも純粋で、清浄で、この欲望で飽和した偽りの世界には存在し得ない、聖なる光。
現実世界。星と夜景が溶け合うルクスリアの寝室。
俺の身体は、白銀の鳥籠のような寝台の上で、虚空を抱きしめるようにして横たわっていた。その表情は恍惚とし、口元からは意味をなさない甘い喘ぎが漏れている。魂が、完全に夢の虜となっていた。
「お兄ちゃん!起きて、お兄ちゃん!」
グラは、そんな俺の身体を必死に揺さぶっていた。だが、その声は俺の魂には届かない。彼女の『暴食』の力は、ルクスリアが作り出した精神結界そのものを喰らうことはできても、その内側で個人が見せられている夢までは干渉できないのだ。
「くそっ……!なんで……なんで届かないの……!」
グラの瞳から、悔し涙が零れ落ちる。自分の無力さに、嫉妬に狂ったあの時以上の絶望を感じていた。
その隣で、イヴはただ唇を噛み締めることしかできなかった。自分にはグラのような戦う力はない。俺を守るための盾になることも、敵を喰らう牙になることもできない。
(私には、何もない……)
無力感が、彼女の心を苛む。だが、それでも。
(それでも、私は……!)
イヴは、祈るように、そっと俺の手に自分の手を重ねた。
攻撃も、防御もできないのなら。せめて、この温もりだけでも届けと。彼の魂が、独りきりで堕ちていかないように。
その、純粋な祈りが、奇跡を呼んだ。
イヴの手のひらから、柔らかな光が溢れ出した。
それは、彼女のゴーストの根源に眠っていた、純粋な『調停』の力。いかなる汚染も、いかなる悪意も、その存在を許さず、ただ調和のとれた元の形へと還そうとする、世界の理そのもの。
その光は、俺の身体を包み込み、ルクスリアの精神支配という名の毒を、ゆっくりと浄化していく。
偽りの世界に差し込んだ一本の光は、瞬く間に無数の亀裂となって広がっていく。
目の前で、俺に身を委ねようとしていたグラとイヴの姿が、テレビのノイズのように乱れ始めた。
「……いやよ、行かないで……」
「……ずっと、一緒に……」
彼女たちの声が、ルクスリアの声と不気味に重なり合う。その必死の引き留める言葉が、逆に俺の魂を覚醒させた。
そうだ。俺が守ると誓った彼女たちは、こんな偽りの笑顔で俺を堕とそうとはしない。
グラは、もっと不気用で、もっと必死で。
イヴは、もっと儚げで、もっと強い意志を瞳に宿している。
こいつらは、偽物だ。
「――お前たちは、誰だ?」
俺が、最後の理性を振り絞ってその言葉を紡いだ瞬間、甘く幸福だった世界は、けたたましい音を立ててガラスのように砕け散った。
意識が、現実へと引き戻される。
視界に飛び込んできたのは、涙を浮かべて俺を覗き込むグラと、その手から癒しの光を放ち続けるイヴの姿。そして、目の前。白銀の寝台の上で、ルクスリアが、生まれて初めて見るような、驚愕と屈辱に歪んだ顔で、こちらを睨みつけていた。
ヴェールが、彼女の荒い呼吸に合わせて震えている。
「……私の愛を……私の、完璧な世界を……よくも……!」
その声から、甘さは完全に消え失せていた。代わりに、拒絶された女の、底知れぬ怒りと侮蔑が、絶対零度の刃となって俺たちに突き刺さる。
「いいわ。そんなに現実がお望みなら、見せてあげる」
ルクスリアは、ゆっくりと立ち上がった。その身体から、禍々しいまでの魔素が溢れ出し、星空を模した天井を、暗雲のように覆い尽くしていく。
彼女の周囲を舞っていた水晶の破片が、幸福な光から一転、魂の叫びを吸収したかのように、禍々しい黒い光を放ち始めた。
「甘い夢で堕ちないというのなら、苦い絶望で砕いてあげる」
その唇が、残酷な笑みを刻む。
「あなたの魂が、その奥底に隠し持つ、最も辛く、最も見たくない記憶。その傷口を抉り出し、永遠の悪夢の中で、悲鳴を上げさせてあげるわ!」
黒い水晶が、意志を持った流星群のように、再び俺たちに襲いかかった。
今度は、幸福の幻ではない。
魂の最も深い傷を抉り出し、その心を永遠に折り砕くための、純粋な破壊の奔流。
俺は、グラとイヴを背後に庇い、舌のスティグマを灼熱させながら、その絶望の嵐を、正面から迎え撃った。
黒い水晶が、俺の張った精神障壁に衝突し、砕け散る。だが、それは物理的な破壊ではない。砕けた破片の一つ一つから、魂を蝕む毒が、俺の意識の中へと染み込んでくる。
世界が、反転する。
気がつくと、俺は金色の鳥籠――あのマンションのリビングに立っていた。
だが、いつもと何かが違う。部屋の空気は氷のように冷え切り、窓の外の夜景は色を失って、まるで葬列のように見えた。
ソファに、グラとイヴが座っていた。
俺の知っている二人ではない。その瞳は、俺を、まるで汚物でも見るかのように、冷たい侮蔑と嫌悪に満ちていた。
「……もう、お兄ちゃんじゃない」
グラが、吐き捨てるように言った。その声には、いつもの甘えなど微塵もない。
「あなたのせいで、わたしは化け物になった。あなたのその、気味の悪い力さえなければ、わたしはただ、お腹を空かせているだけでいられたのに」
「……あなたといると、息が詰まる」
イヴもまた、静かに、しかし刃物のように鋭い言葉を紡いだ。
「あなたは、私たちの心を勝手に覗いて、分かったような顔をする。あなたのその独りよがりな優しさが、私たちを苦しめていることに、どうして気づかないの?」
違う。
そんなはずはない。
俺は、お前たちを守りたくて――
「守る?笑わせないで」
「あなたこそが、私たちを不幸にしている元凶よ」
二人の少女が、同時に立ち上がる。そして、俺に背を向け、玄関のドアへと向かっていく。
「待ってくれ!行かないでくれ!」
俺は、必死に手を伸ばす。だが、身体が動かない。金縛りにあったように、その場から一歩も動けない。
「さようなら」
「もう、二度と私たちの前に現れないで」
ドアが、無慈悲に閉ざされる。
後に残されたのは、広すぎるリビングと、絶対的な孤独だけだった。魂が、内側から凍りついていく。俺の存在理由は、今、完全に否定された。
場面が、再び切り替わる。
今度は、AEGISの薄暗い格納庫。俺は、冷たいコンクリートの床に倒れていた。
目の前に、漆黒の軍服が立つ。
見上げると、そこには、蒼氷の瞳で俺を見下ろす、アダムがいた。
「……やはり、貴様はただのバグだったな」
その声は、世界の終わりを告げる宣告のように、冷たく響き渡った。
彼女は、何も言わずに、俺の腹を軍靴のつま先で蹴り上げた。
「ぐ……はっ……!」
内臓が破裂するかのような衝撃。口から、胃液がこみ上げてくる。
「弱い。あまりにも、弱い。感情という脆弱性に溺れ、守るべきものにも拒絶される。貴様に、何の価値がある?」
アダムは、倒れ込む俺の髪を鷲掴みにして、無理やり顔を上げさせた。その瞳には、一片の情けもない。
「貴様のような不確定要素は、世界の秩序を乱すノイズでしかない。私が、直々に削除してやる」
彼女は、俺の顔面に、容赦なく拳を叩き込んだ。骨が砕ける鈍い音。視界が、火花で明滅する。何度も、何度も、殴られる。痛みで、意識が遠のいていく。
だが、身体の痛みよりも、彼女の言葉が、俺の魂を深く、深く抉っていく。
「貴様は、誰一人救えない」
「貴様は、誰からも必要とされていない」
「貴様は、ただ、世界に生まれただけの、エラーだ」
最後に、アダムは、俺の顔を、その軍靴で、力一杯踏みつけた。
「――消えろ、バグ」
ぐしゃり、という嫌な音と共に、俺の意識は、完全な暗闇へと、堕ちていった。




