第2章 第8話 甘き毒の夢路
無数の水晶の破片が、星々の光を乱反射させながら俺たちに降り注ぐ。
それは、幸福な夢と、絶望的な悪夢の奔流。魂を内側から破壊する、色欲の魔女の、本気の牙。
俺は、朦朧とする意識の中で、グラと イヴの手を強く握りしめた。
「……負けるな。こいつの孤独に、喰われるな!」
それが、俺たちの反撃の狼煙だったはずだ。
だが、俺の意識は、抵抗する間もなく、底なしの甘美な闇へと、急速に引きずり込まれていった。
「……お兄ちゃん、朝だよ!起きて!」
身体を揺さぶる小さな振動と、鼓膜をくすぐる快活な声。
ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の木目の天井と、窓から差し込む暖かい朝の光だった。そして、ベッドの脇では、制服姿のグラが腰に手を当てて、ぷくりと頬を膨らませていた。
「もう、また夜更かししたでしょ!早くしないと、イヴちゃん、待たせちゃうよ!」
「……グラ……?」
掠れた声で彼女の名前を呼ぶと、グラは「なによー」と言いながら、俺の額に手を当ててきた。その手のひらは、温かくて、柔らかい。
「熱はないみたいだけど……。まだ寝ぼけてるの?ほら、朝ごはん、できてるからね!」
そう言って、彼女はぱたぱたと軽い足音を立てて部屋から出て行った。階下からは、味噌汁のいい匂いが漂ってくる。
何かが、おかしい。
俺は、ゆっくりと身体を起こした。見慣れた部屋。壁には、好きなバンドのポスター。机の上には、読みかけの漫画と、昨日の夜食のカップ麺の容器。それは、AEGISも、NEARも、シルク・パレスも存在しなかった頃の、俺の日常そのものだった。
舌の奥に、灼けるような紋様の感触はない。身体の内に、エネルギーの流れを感じることもない。ただ、高校生らしい、健全な倦怠感が全身を支配しているだけだ。
階段を降りると、リビングのテーブルには、湯気の立つ朝食が並んでいた。白米、味噌汁、そして少し焦げた卵焼き。キッチンに立つグラのエプロン姿は、驚くほど様になっている。
「おはよう」
ソファに座って静かに本を読んでいた少女が、顔を上げて微笑んだ。
イヴだった。彼女もまた、グラと同じ高校の制服に身を包んでいる。その表情には、記憶を失った影も、戦いの緊張もない。ただ、穏やかで、知的な光だけが宿っていた。
「おはよう、イヴ。早いな」
「あなたが、なかなか起きてこないから。グラさんが、心配していましたよ」
「うっさいわね!イヴちゃんは、お兄ちゃんの味方しすぎ!」
「ふふ。だって、グラさんの作る朝食、美味しいですから」
二人の少女が、俺を挟んで軽口を叩き合う。その光景は、あまりにも自然で、温かくて、俺の胸の奥を、くすぐったいような幸福感で満たしていった。
そうだ。これが、俺の日常だ。グラは、血の繋がらない妹で、少し手がかかるけど、本当は俺のことが大好きなんだ。そして、イヴは、数ヶ月前に隣の家に引っ越してきた、ミステリ アスで、少し内気な転校生。俺たちは、三人でいつも一緒に学校へ行く。
通学路に咲く紫陽花が、朝露に濡れてきらきらと輝いている。
「あ、見てお兄ちゃん!カタツムリ!」
「本当だ。最近、見ないよな」
「……きれい」
他愛のない会話。隣を歩く二人の少女の、シャンプーの香り。時折、触れ合う肩の温もり。その全てが、奇跡のように愛おしい。
学校に着いても、その幸福な時間は続いた。
昼休みには、三人で屋上へ行き、グラが早起きして作ったという弁当を広げる。タコさんウィンナーを巡ってグラとイヴが静かな攻防を繰り広げ、俺はそれを笑いながら見ている。
放課後は、商店街のクレープ屋に寄り道する。生クリームを口の周りいっぱいつけて頬張るグラの顔を、俺がハンカチで拭いてやる。それを見て、イヴが少しだけ羨ましそうに、でも嬉しそうに微笑んでいる。
甘い。
あまりにも、甘い時間。
これが、俺が心のどこかでずっと望んでいた、ありふれた日常。戦いも、異能も、組織も、何もない。ただ、大切な人たちと、穏やかに笑い合える世界。
このままで、いい。
この時間が、永遠に続けばいい。
魂が、この甘美な毒に、蕩かされていく。戦う理由も、思い出すべき現実も、全てがどうでもよくなっていく。
夕焼けが、帰り道の坂を茜色に染めていた。
俺たちは、三人、影を長く伸ばしながら、ゆっくりと歩いていた。
その時、グラとイヴが、同時に立ち止まった。そして、まるで示し合わせたかのように、俺の左右の手を、それぞれぎゅっと握りしめた。
「……あのね、お兄ちゃん」
グラが、上目遣いに俺を見上げる。その頬は、夕焼けよりも赤く染まっていた。
「……あの、ですね」
イヴもまた、長い睫毛を伏せ、恥ずかしそうに呟く。
二人の心臓の鼓動が、繋がれた手を通して、俺に伝わってくる。速くて、熱くて、甘いリズム。
ああ、これは。
俺が、ずっと夢見ていた瞬間の、一つだ。
「「――好きです」」
二人の声が、完璧に重なった。
その瞬間、俺の幸福感は、頂点に達した。
――そして、世界が、蕩け始めた。
夕焼けの空が、深紅のベルベットの天井へと変わる。足元のアスファルトは、柔らかなシルクのシーツへと変貌し、俺の身体は、抗う間もなくゆっくりと後ろへ倒れ込んでいった。
「お兄ちゃん……?」「どうしたんですか……?」
心配そうに俺を覗き込むグラとイヴ。だが、その声はどこか艶を帯び、その瞳は潤んで熱を宿し始めている。彼女たちの制服が、まるで陽炎のように揺らめき、その下から現れたのは、肌の白さを際立たせる、官能的な黒と白のシルクのネグリジェだった。
「……やっと、捕まえた」
グラが、猫のように喉を鳴らしながら、俺の上に四つん這いになる。その黒いシルクは、彼女の肌のほとんどを露わにし、その瞳には無垢な愛情ではなく、飢えた獣の独占欲が燃え盛っていた。
「……あなたの魂、とても美味しそう……」
イヴが、俺の耳元で囁く。その声は、吐息と共に俺の理性を麻痺させる甘い毒のようだ。白いシルクを纏った彼女は、静かに俺の隣に横たわり、その冷たい指先で俺の胸をゆっくりとなぞっていく。
ここは、ルクスリアの寝室。星と夜景が溶け合う、あの白銀の鳥籠の中だ。
俺は、彼女の罠に、完全に堕ちたのだ。
「さあ、愛してあげるわ。私の可愛い坊や」
グラの唇が、そう動いた。だが、聞こえてきた声は、ルクスリアのものだった。
「あなたの望んだ世界でしょう?可愛い妹と、優しい隣人。二人に愛される、甘くて幸せな毎日。……いいのよ、このまま、夢の中にいれば」
イヴの指先が、俺のシャツのボタンに触れる。その唇から、ルクスリアの声が続く。
「抵抗なんて、しなくていい。ただ、身を委ねて。この快感に、魂ごと蕩かされてしまえばいいのよ」
二人の身体が、俺にぴたりと密着する。グラの豊満とは言えないが、少女らしい柔らかさを持つ胸が、俺の胸板に押し付けられる。イヴのしなやかな脚が、俺の脚に絡みついてくる。シルク越しの肌の感触、二人の少女から発せられる甘い体臭、そして耳元で囁かれる誘惑の言葉が、俺の思考を完全に停止させた。
舌のスティグマが、警鐘のように熱を発する。だが、それすらも、この官能的な状況の中では、ただの快感を増幅させるスパイスにしか感じられない。
グラの唇が、俺の首筋に触れる。ちくり、と小さな痛みが走り、そこから毒が回るように、全身の力が抜けていく。
イヴの手が、俺のベルトのバックルにかかる。その冷たい金属の感触が、なぜかひどく扇情的に思えた。
違う。こいつらは、グラじゃない。イヴじゃない。
頭のどこかで、理性が叫んでいる。
だが、身体は正直だった。熱が集まり、呼吸が荒くなる。
これは、罠だ。魂を喰われる。
分かっている。分かっているのに。
俺の魂は、この甘き毒の夢路から、抜け出すことを、拒絶し始めていた。




