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第2章 第7話 蜘蛛の巣の女王と魂の寝室

静寂が、戦いの熱を冷ましていく。

気を失った支配人の女と、魂を抜かれて呆然と立ち尽くす仮面の群衆。その異様な光景の中心で、俺は疲弊しきった二人の少女を抱きかかえていた。

グラは、不完全な覚醒の反動で、俺の腕の中で荒い呼吸を繰り返している。その身体は熱く、ゴーストが安定していないのがスティグマを通して伝わってきた。イヴもまた、俺の精神を守るためにその力の多くを使い果たしたのだろう、その顔は青白く、額には玉のような汗が浮かんでいた。

このままでは、ジリ貧だ。

俺は、手の中に握りしめたカードキー『Penthouse - Owner』に視線を落とした。これが、この悪夢を終わらせるための、最後の扉。

「……行けるか、二人とも」

俺の問いに、グラはこくりと頷き、イヴもまた、震える足でゆっくりと立ち上がった。

「お兄ちゃんが……行くなら」

「……私も、最後まで」

二人の瞳に宿る、覚悟の光。俺は、その光に背中を押されるように、書斎の奥にあった隠しエレベーターへと向かった。

カードキーをスリットに差し込むと、壁に偽装されていた扉が、重厚な音を立てて開いた。内部は、深紅のベルベットで覆われた、まるで棺のような空間。俺たちが乗り込むと、扉は音もなく閉ざされ、エレベーターは静かに上昇を始めた。

上昇と共に、精神的な圧力が急速に増していく。

それは、もはや悪意や欲望といった、指向性のある攻撃ではない。ただひたすらに甘く、官能的で、魂の輪郭を蕩かしてしまうような、濃密な魔素の奔流。耳元で、女の吐息のような囁きが聞こえる。脳の奥で、決して叶うはずのなかった幸福な記憶が、幻覚となって明滅する。

「……っ!」

イヴが、苦しげに唇を噛んだ。グラもまた、俺の腕にしがみつき、その誘惑に必死に耐えている。

俺は二人の手を強く握り、舌のスティグマに意識を集中させた。

「喰らい続けろ、グラ!そして、俺に力を!」

俺の魂が、グラの『暴食』の権能を借り受け、流れ込んでくる精神汚染をエネルギーへと変換していく。そして、そのエネルギーを、イヴから流れ込む『調停』の光に乗せて、俺たちの周囲に防御的な精神障壁として展開する。

喰らい、癒し、守る。

三つの魂が、この閉鎖空間で、一つの生命体のように機能していた。

――チーン。

軽やかな到着音と共に、エレベーターの扉が開いた。

その瞬間、俺たちは息を呑んだ。

そこは、想像を絶する空間だった。

巨大なガラス張りのドーム。天井には、本物の夜空から星々を切り取ってきたかのように、無数の星が瞬いている。床には水が薄く張られ、眼下に広がる東京の夜景が逆さに映り込み、天地の境界を曖昧にしていた。俺たちは、まるで星と光の海に浮かぶ、孤島に立っているかのようだった。

そして、その空間の中央。

天蓋から吊るされた、白銀の巨大な鳥籠のような寝台の上で、一人の女が、猫のようにしなやかに横たわっていた。

EVE-07《色欲》ルクスリア。

薄いシルクのドレスは、彼女の豊満な身体のラインを隠すどころか、むしろ見る者の想像力を掻き立てるように、その肌にまとわりついている。顔には、パーティーの肖像で見たヴェールがかけられているが、その奥で妖しく輝く瞳は、俺たちの魂の奥底までをも見透かしているようだった。

彼女の周囲には、無数の小さな水晶の破片――『魂の万華鏡ソウル・カレイドスコープ』が、惑星のようにゆっくりと舞い、星々の光を乱反射させて、幻想的な光景を作り出していた。

彼女が、このシルク・パレスの、そしてこの精神汚染の全ての元凶。

「ようこそ、私の寝室へ。可愛い、可愛い小鳥さんたち」

ルクスリアは、ゆっくりと身を起こした。その声は、脳に直接響き、魂を甘く痺れさせる。

「私の可愛い人形が、随分と手荒い歓迎をしてしまったようね。お詫びに、この私が、直々にあなたたちの傷を癒してあげましょう」

彼女は、戦う素振りを見せない。ただ、その蠱惑的な視線で、俺たち一人一人の魂を、愛撫するように見つめる。

「……あなた。とても強くて、純粋で、そして……とても寂しい魂ね。大丈夫、私がその孤独を、極上の愛で満たしてあげるわ」

その視線が、俺を射抜く。

「あなたも……。そう、飢えているのね。お兄ちゃんの愛に。でも、それだけじゃ足りないでしょう?もっと、もっと欲しいのでしょう?世界の全てを喰らっても満たされない、その虚しさを、私が埋めてあげる」

視線が、グラへと移る。

「そして、あなた……。空っぽなのね。記憶も、感情も、何もかもが。なんて可哀想なのかしら。さあ、私の腕の中へ。私が、あなたという器を、美しい思い出と、燃えるような快感で、いっぱいにしてあげる」

最後に、イヴへと。

彼女の言葉は、ただの精神攻撃ではない。魂の最も弱い部分、最も隠したい傷口を的確に見抜き、そこへ甘い毒を流し込む、究極の誘惑。

グラとイヴの呼吸が、浅くなっていく。その瞳から、抵抗の光が消え、蕩けるような陶酔の色が浮かび始めた。

「……ふざけるな」

俺は、最後の理性を振り絞って、叫んだ。

「お前の言う愛なんて、ただの支配欲だ。相手を自分の都合のいい人形に変えるだけの、醜いエゴだ!」

俺の言葉に、ルクスリアの動きが、初めて一瞬だけ止まった。

ヴェールの奥の瞳が、僅かに見開かれる。

「……お前だって、そうなんだろ」

俺は、続けた。

「あんたも、独りなんだ。誰も、あんたの魂に触れてはくれない。だから、他人の魂を無理やりこじ開けて、自分の欲望を押し付けるしか、愛し方を知らないんだ!」

その言葉は、確信があったわけではない。だが、彼女が振りまく甘美な毒の裏側に、あまりにも深い、氷のような『孤独』の響きを感じ取っていたのだ。

「…………黙りなさい」

ルクスリアの声から、甘さが消えた。

代わりに、拒絶された女の、底知れぬ怒りと悲しみが、絶対零度の刃となって俺の魂を切り裂いた。

「あなたに、私の何が分かるというの……!」

彼女が叫んだ瞬間、周囲を舞っていた無数の水晶の破片が、一斉に俺たちに襲いかかった。

それは、幸福な夢と、絶望的な悪夢の奔流。魂を内側から破壊する、色欲の魔女の、本気の牙。

俺は、朦朧とする意識の中で、グラとイヴの手を強く握りしめた。

「……負けるな。こいつの孤独に、喰われるな!」

それが、俺たちの反撃の狼煙だった。

この、星と夜景が溶け合う、世界で最も美しい寝室で、魂の全てを賭けた戦いが、今、始まる。


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