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第2章 第5話 絹の迷宮と欲望の仮面

夜の銀座は、光と影が織りなす巨大な宝石箱だった。

ネオンの洪水がアスファルトを七色に染め上げ、ショーウィンドウには世界の富を凝縮したかのような宝飾品や高級時計が、冷たい輝きを放っている。AEGISのステルス車両を降りた俺たちの姿は、この街を行き交う着飾った人々の群れの中に、あまりにも不釣り合いに溶け込んでいた。

有栖川が示した『シルク・パレス』の銀座支部は、大通りから一本裏に入った、人通りの少ない路地にひっそりと佇んでいた。看板もなければ、表札もない。ただ、磨き上げられた黒曜石のような壁を持つ、窓のない三階建てのビル。その威圧的なまでの沈黙が、逆に内部の爛熟した秘密を雄弁に物語っていた。

「……ここから先は、私の声も届かない」

耳元の通信機から、有栖川の最後の通信が入る。

『内部は、ルクスリアの能力によって強力な精神的結界が張られている。通信も、外部からの干渉も全て遮断されるだろう。……生きて帰れ、カタリスト』

その言葉を最後に、通信はノイズと共に途絶えた。俺たちは、完全に孤立した。

「……行くぞ」

俺の言葉に、グラとイヴはこくりと頷く。グラは俺の左手を、イヴは俺の右手を、それぞれ固く握りしめた。二人の少女の体温が、俺に覚悟を決めさせる。

正面の扉は、指一本触れていないのに、まるで俺たちを招き入れるかのように、音もなく滑るように開いた。

一歩、足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。

鼻腔を突き刺すのは、甘く、むせ返るような白檀と、熟れすぎた果実のような香水の匂い。耳を撫でるのは、気だるいジャズの生演奏と、人々の抑制された囁き声。そして、視界を埋め尽くすのは、深紅のベルベットで覆われた壁と、天井から吊るされた無数のシャンデリアが放つ、官能的なまでの黄金色の光。

そこは、人間の欲望を最も美しく見せるために設計された、堕落の神殿だった。

ホールには、仮面をつけた男女が、まるで夢の中を彷徨うように、ゆったりと行き交っていた。彼らが纏う衣服はどれも一級品で、その立ち居振る舞いからは育ちの良さが窺える。だが、その仮面の奥の瞳は、誰もが虚ろで、焦点が合っていない。彼らは、ルクスリアの精神支配によって、自らの欲望という名の繭の中に閉じ込められているのだ。

ウェイターやウェイトレスとして働く者たちの姿は、さらに異様だった。人間と見分けがつかないほど精巧なアンドロイドや、感情を完全に消去された汎用NEARたち。彼らは完璧な微笑を浮かべながら、魂のない人形のように、ただプログラムされた役割をこなしている。

「……気持ち、悪い……」

イヴが、顔を青ざめさせて呟いた。彼女のクリーンなゴーストにとって、この空間に渦巻く剥き出しの欲望は、魂に直接叩きつけられる汚泥のようなものなのだろう。

「お兄ちゃん……」

グラもまた、俺の腕にしがみつきながら、警戒するように周囲を睨みつけている。彼女にとって、この場所の欲望は、自らの『飢餓』とは質の違う、理解不能な不快感をもたらしているようだった。

俺は、二人の手を強く握り返した。

「大丈夫だ。俺を信じろ」

舌のスティグマが、微かに熱を帯びる。俺は意識を集中させ、グラから流れ込む『エネルギー吸収』の力を、ごく僅かに発動させた。俺たちの周囲に、目に見えない薄い膜が張られる。それは、ルクスリアの精神汚染から、俺たちの魂を守るための、ささやかな盾だった。

「イヴ、分かるか?本体の気配は」

俺の問いに、イヴは目を閉じ、精神を集中させた。やがて、彼女はゆっくりと目を開き、ホールの奥、二階へと続く螺旋階段を指さした。

「……上です。この建物の全ての『欲望』が、あの場所へと流れ込み、そして、そこからまた流れ出している……。まるで、巨大な心臓みたい……」

俺たちは、仮面の群衆の間を縫うようにして、螺旋階段へと向かった。誰一人として、俺たちの存在に気づく者はいない。彼らは皆、自分の見たい夢しか見ていないのだから。

二階は、一階の喧騒とは打って変わって、静寂に包まれていた。いくつもの個室が並び、その扉の隙間からは、甘い喘ぎ声や、苦悶とも愉悦ともつかない呻き声が、微かに漏れ聞こえてくる。

イヴは、迷うことなく、廊下の最も奥にある、一際大きな黒檀の扉の前で立ち止まった。

「……この、中です。一番、強い……」

俺が扉に手をかけようとした、その時だった。

『――まあ、お待ちになって。お客様』

脳内に、直接、声が響いた。あのパーティーの夜に聞いた、傀儡の女の声だ。

扉が、音もなく開く。

部屋の中は、薄暗い照明に照らされた、書斎のような空間だった。そして、その中央。豪奢な椅子に深く腰掛け、脚を組んでいたのは、あの深紅のドレスの女だった。

「こんなところまで、よくお越しになりましたわ、可愛い小鳥さんたち」

彼女は、優雅に微笑む。だが、その瞳には、もはや傀儡としての虚ろさはない。鋭い知性と、獲物を嬲る捕食者の光が宿っていた。

「驚いたかしら?あのルクスリアは、私という『器』を、とても気に入ってくださってね。今では、こうして自由に動く許可まで頂いているのよ」

「……お前が、ここの責任者か」

「責任者、だなんて。私はただの支配人。この宮殿を訪れる、迷える魂たちのお世話をさせて頂いているだけですわ」

彼女は立ち上がると、しなやかな動きで俺に近付いてきた。その指先が、俺の頬をそっとなぞる。

「特に、あなたのような、特別なお客様はね」

その瞬間、俺の腕の中で、グラが低い唸り声を上げた。

支配人は、それを楽しむように、くすくすと笑った。

「さあ、お見せしましょう。このシルク・パレスが誇る、最高の『商品』を」

彼女が指を鳴らすと、部屋の奥の壁が、巨大なマジックミラーへと変わった。

その向こう側には、ステージがあった。そして、その上に、まるで商品のように立たされていたのは――パーティーでルクスリアに操られていた、三人の閣僚だった。

彼らは、虚ろな目で、ただ一点を見つめている。

「今宵は、特別なお客様のために、特別なオークションを開催しますの。商品はこちら、日本の未来を担う大臣閣下三名様の『忠誠心』。さあ、一番高い『欲望』を提示した方に、この国を差し上げましょう」

その言葉に、俺は戦慄した。これは、ただの精神支配ではない。国家そのものを商品とした、狂気のゲームだ。

「……ふざけるなっ!」

俺が叫んだ瞬間、支配人の瞳が、冷たく光った。

「お遊びは、ここまでよ」

彼女の身体から、パーティーの時とは比較にならないほどの、強烈な精神的な圧力が放たれる。

「あのルクスリアは、あなたたちを心ゆくまで味わいたいそうよ。――この、絹の迷宮の奥底でね!」

彼女の言葉を合図に、部屋の扉が音を立てて閉まり、完全にロックされた。そして、マジックミラーの向こう側、オークション会場にいた仮面の客たちが、一斉にこちらを向いた。

その仮面の奥の瞳が、全て、赤く、爛々と輝いていた。

俺たちは、完全に、蜘蛛の巣の真ん中に誘い込まれたのだ。


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