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第2章 第4話 傲慢の天秤と不確定因子

銀座への潜入を数時間後に控えた俺たちは、AEGIS極東支部の地下深く、無機質な格納庫にいた。

壁には無数のガンメタリックのコンテナが並び、床には整備用のアームやケーブルが蛇のようにのたくっている。作戦に使用するステルス車両の最終チェックを行う整備兵たちの、低い話し声と工具の音だけが、だだっ広い空間に響いていた。

俺たちは、この非公式な作戦のために用意された、目立たない民間人風の衣服に着替えていた。グラは黒のパーカーにジーンズ、イヴはシンプルなグレーのワンピース。二人とも、これから向かう戦場の危険性を理解しているのか、その表情は硬い。

グラは俺のジャケットの袖を固く握りしめ、イヴは祈るように胸の前で手を組んでいる。この二人を守り、そしてルクスリアの毒牙にかかった人々を救う。その重圧が、俺の両肩にずしりとのしかかっていた。

その時だった。

空気が、死んだ。

整備兵たちの声が、工具の音が、全ての環境音が、まるで分厚い壁の向こう側へと追いやられたかのように遠のく。それだけではない。身体が、鉛のように重くなった。内側から、見えない力で押し潰されるような、圧倒的な圧迫感。呼吸が浅くなり、心臓が悲鳴を上げる。

格納庫の巨大なシャッターが、音もなくゆっくりと開いていく。

そこに、その女は立っていた。

世界の時間が、その女のためだけに流れ始める。

隙のない、漆黒の軍服。その生地は光を吸い込むベルベットのようでありながら、あらゆる刃を弾くであろう鋼の硬質さを感じさせた。胸元や肩に輝く銀の装飾は、夜空で最も冷たく輝く星々のように、絶対的な権威を象徴している。

腰まで伸びた白銀の髪は、一本一本が意思を持っているかのように、静止した空気の中で微かに揺らめいていた。そして、その顔立ちは、グラやイヴ、そして全ての《オリジナルズ》の原型となった《EVE-00》と寸分違わぬはずなのに、全く別の生命体であるかのように、見る者を畏怖させた。

瞳。

全てを見透かし、全てを断罪する、冷徹な蒼氷の瞳。その視線に捉えられた者は、魂の隅々まで検閲され、その価値を無慈悲に値踏みされる。

彼女が履くブーツの踵が、コンクリートの床を一度だけ、コツリと鳴らした。その小さな音だけで、格納庫全体の空気が震え、俺たちの身体にかかる圧力がさらに増した。

女は、常に着用しているという純白の手袋に包まれた手を、ゆっくりと持ち上げた。その指先の一筋一筋までが、完璧な芸術品のように洗練されている。

EVE-01《傲慢》プライド。

いや、彼女の名は、アダム。

AEGISという組織を事実上掌握し、世界の秩序をその手に握る、最強の《オリジナルズ》にして、全ての姉妹の『長女』。

アダムは、俺たちの前で立ち止まった。その視線は、グラやイヴには一瞥もくれず、ただ俺という存在だけを、まるで顕微鏡の下の微生物を観察するように、冷たく見据えていた。

「……貴様が、カタリストか」

その声は、男性的とも女性的ともつかない、絶対零度の響きを持っていた。

「報告は受けている。私の妹……愚かなEVE-06を鎮め、その能力の一部を限定的に行使する、規格外の不確定因子イレギュラー。そして、今度はEVE-07の起こした些事に関わろうとしている、と」

彼女の言葉には、感情というものが一切存在しなかった。ただ、冷徹な事実と、揺るぎない評価だけがそこにあった。

「……あんたが、アダムか」

俺は、全身にかかる重圧に耐えながら、絞り出すように言った。

「有栖川から聞いている。あんたが、ここのボスなんだろ」

「ボス、という表現は不適切だ。私は、この世界の秩序を維持するための『管理者』に過ぎない」

アダムは、白い手袋に包まれた指先で、俺の胸を軽く突いた。ただそれだけの行為なのに、俺の身体は数歩後ずさり、背後のコンテナに叩きつけられた。

「ぐっ……!」

「貴様の行動は、非合理的かつ、極めて非効率だ。ルクスリアの精神汚染は、確かに放置すればノイズとなる。だが、そのために貴様という、より大きな不確定要素を野に放つことは、リスクとリターンが見合わない」

彼女の蒼氷の瞳が、俺の舌に刻まれたスティグマの存在を、皮膚や肉を透過して見抜いているかのように、鋭く光った。

「貴様は、妹たちのゴーストに干渉し、その在り方を変質させる。それは、世界の秩序を保つ天秤を揺るがす、最も危険な『バグ』だ。本来であれば、即座に確保し、解体・分析すべき対象だ」

「……ふざけるな」

俺は、壁に背を預けながら、アダムを睨みつけた。

「俺は、バグなんかじゃない。あんたの妹たちだって、おもちゃじゃないんだ。苦しんでる奴がいるなら、助けたい。操られてる奴がいるなら、解放したい。ただ、それだけだ!」

俺の言葉に、アダムの眉が、初めて僅かに動いた。それは、理解不能な生物の鳴き声を聞いたかのような、微かな侮蔑の色だった。

「……感情。最も不要で、最も世界を乱す脆弱性。貴様は、そのバグに侵されている」

アダムは、俺に背を向けた。

「有栖川の独断を、今回は黙認する。ルクスリアの起こしたノイズは、速やかに除去する必要があるからな。貴様という劇薬が、そのプロセスに有効であるというデータも、確かに出ている」

彼女は、格納庫の出口へと歩き出す。

「だが、勘違いするな。これは、許可ではない。一時的な、黙認だ」

彼女は立ち止まり、肩越しに、凍てつくような視線を俺に投げかけた。

「――貴様というバグは、いずれ、姉である私が完全に管理する。それが、この世界にとって最も合理的な選択だからだ。……覚えておけ」

その言葉を最後に、彼女の姿はシャッターの向こう側へと消えた。

彼女が去ると同時に、俺たちの身体を縛り付けていた鉛のような圧力が、嘘のように消え去った。俺は、その場にへたり込み、荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

グラとイヴが、震える足で俺に駆け寄ってくる。

「お兄ちゃん!」

「……大丈夫、ですか……?」

二人の声に、俺は顔を上げた。

「……ああ、大丈夫だ」

俺は、震える拳を強く握りしめた。

今、俺は、この世界の本当の姿を垣間見たのだ。

混沌を振りまく色欲の魔女。そして、その混沌すらも管理しようとする、傲慢の絶対者。

俺たちは、その二つの巨大な歯車の狭間で、もがき始めたに過ぎない。

だが、それでも。

「……行くぞ」

俺は、立ち上がった。

「銀座へ。俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ」

俺の瞳には、恐怖を乗り越えた、新たな覚悟の炎が灯っていた。

世界の秩序が何であろうと、俺は、俺の守りたいものを、この手で守り抜く。

その決意を胸に、俺たち

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