第1章 第1話渋谷スクランブル・ノイズ
音が、死んだ。
ほんの刹那前まで、世界は音で飽和していた。
東京、渋谷。スクランブル交差点。信号が変わるたびに吐き出される数千の足音。巨大な街頭ビジョンから暴力的に浴びせられるJ-POPと企業広告の不協和音。センター街の奥から漏れ聞こえる客引きの怒声と、甘ったるく鼻腔をくすぐるクレープの香り。それらが排気ガスと無数の香水の匂いと混じり合い、湿ったアスファルトの上で一つの巨大な生命体のように蠢いている。それが、俺の知る日常だった。
俺はヘッドフォンのボリュームを少し上げた。外の世界のノイズを、お気に入りのマイナーな洋楽で上書きする。それが、この街で正気を保つための俺なりの作法だった。人混みを抜け、駅前の広場の隅にある喫煙スペースのフェンスに背を預ける。制服のポケットからくしゃくしゃの煙草を一本取り出し、慣れた手つきで火をつけた。紫煙が肺を満たし、ゆっくりと吐き出すと、現実との間に薄い膜が張られるような錯覚を覚える。それでいい。それがいい。この街では、誰も俺のことなど見ていないし、俺も誰も見ていない。無数の孤独がすれ違うだけの、巨大な交差点。
ふと、視界の端で光が明滅した。
いや、違う。光だけじゃない。交差点の象徴である巨大なビジョンが、一斉にその色彩を失い、ただのノイズの奔流――“砂嵐”へと変貌していた。街の喧騒を支配していた音楽が、アナウンスが、その生命活動を停止する。
そして、音が、完全に死んだ。
車の走行音も、人々の話し声も、俺自身の呼吸の音さえも、分厚い真空の壁に隔てられたように聞こえなくなった。世界から音という概念だけが、綺麗にくり抜かれたかのようだ。
ヘッドフォンから流れていた音楽も、もちろん、聞こえない。
何が起きた?
混乱が、無音の世界で伝播していく。誰もが隣の人間と顔を見合わせ、何かを叫んでいる。しかし、その口の動きは滑稽なパントマイムにしか見えず、声はどこにも届かない。スマホを取り出し、耳に当てる者。空を指さし、恐怖に顔を引きつらせる者。その表情だけが、この異常事態の深刻さを雄弁に物語っていた。心臓が、嫌な音を立てて脈打ち始める。ドクン、ドクンと、まるで耳元で誰かが巨大な太鼓を打ち鳴らしているかのように、その鼓動だけがやけに鮮明だった。
その中心は、スクランブル交差点のど真ん中だった。
信号が全て消灯し、立ち往生した車列の隙間に、それは立っていた。
少女だった。
サイズの合っていない、ぼろぼろの衣服を一枚だけ纏った、小さな少女。長く伸びた黒髪は手入れもされずに絡まり、その隙間から覗く肌は、栄養失調を疑わせるほどに痩せこけている。彼女は裸足で、アスファルトの冷たさなど感じていないかのように、ただそこに佇んでいた。
世界の時間が、その少女のためだけに流れている。映画のカメラが被写体を舐めるように、俺の視線は彼女に釘付けになっていた。風に揺れる髪の一筋、衣服の裾のほつれ、コンクリートの埃で汚れた足先。そして、その瞳。
虚ろだった。何も映していない。ただ、底なしの飢餓感だけが、まるで暗黒星のように爛々と輝いていた。
「…た…りな……い……」
聞こえるはずのない声が、脳に直接響いた。それは声というより、魂そのものの呻きだった。
瞬間、世界が歪み始める。
少女を中心に、灰色のノイズが同心円状に広がっていく。それはまるで、水面に落ちたインクの染みのように。ノイズが触れたものが、その存在の輪郭を失っていくのだ。
交差点の真ん中に停止していたタクシー。その黒いボディが、テレビの電源を切った瞬間の残像のように、チリチリと音のない音を立てて粒子に分解されていく。運転席にいたであろうドライバーの姿も、悲鳴を上げる間もなくノイズの奔流に飲み込まれ、霧散した。
アスファルトが、信号機が、ビル壁面の巨大な広告看板が、まるで砂糖菓子のように崩れていく。存在していたはずの物質が、その意味と形を失い、ただの情報の残骸――魔素のノイズとなって世界に還元されていく。悪夢のような光景だった。
ようやく、人々は理解した。これは事故ではない。テロでもない。理解を超えた、理不尽な「死」そのものが、今この場所に顕現したのだと。
無音の恐慌が爆発した。
誰かが走り出す。それに釣られて、一人、また一人と、人々は我先にと少女から遠ざかろうと殺到した。阿鼻叫喚。声のない地獄。押され、突き飛ばされ、将棋倒しになっていく人々の群れ。俺もその濁流に飲み込まれていた。
逃げろ。
本能が叫んでいた。脳が警鐘を乱打する。だが、足はもつれ、人波に押されて体勢を崩した。
「うわっ!」
声にならない叫びを上げ、俺はアスファルトに叩きつけられる。後頭部を強打し、一瞬、意識が白く染まった。人々の足が、俺の身体を容赦なく踏みつけていく。痛い。苦しい。死ぬ。
薄れゆく意識の中、俺は見た。
ノイズの波が、すぐそこまで迫っていた。俺の伸ばした指先から、ほんの数メートルの距離。そして、そのノイズの中心にいる少女が、ゆっくりとこちらに顔を向けたのを。
その瞳が、初めて俺を捉えた。
飢えた獣が、餌を見つけた時の目だった。
まずい。
身体が動かない。声も出ない。ただ、死だけがゆっくりと、しかし確実に俺に近付いてくる。
少女が、一歩、踏み出す。
彼女が歩いた後、アスファルトは存在を維持できずにノイズと化して消える。世界の法則そのものを喰らいながら、彼女は俺に向かってくる。
絶望が、心臓を氷の指で鷲掴みにした。
もう、終わりだ。
その時だった。
俺の真横で倒れていたサラリーマンの身体が、ノイズに触れた。彼のスーツが、肉体が、鞄が、まるで幻だったかのように掻き消える。そして、その直後。
少女の足が、俺の伸ばした右手に、触れた。
――閃光。
俺の身体の内側から、何かが爆発した。
それは熱く、眩い、生命そのものの奔流だった。自分の中にこんなエネルギーが眠っていたなど、知らなかった。制御不能の力が右手から溢れ出し、少女の身体へと注ぎ込まれていく。
ビリビリと空気が震える。視界が真っ白に染まり、鼓膜の奥でキーンという鋭い音が鳴り響いた。
「……あ……」
再び、脳に直接声が響く。だが、先程までの飢えた獣の呻きとは違う。それは、乾ききった砂漠が初めての一滴の雨を受け入れた時のような、微かな、本当に微かな安堵と充足の色を帯びていた。
光が収まると、信じられない光景が広がっていた。
俺を中心に、半径数メートルの円形だけが、ノイズの侵食を免れて元の姿を保っている。そして、俺の手に触れたままの少女は――その瞳から、飢餓の輝きが僅かに薄れていた。
彼女は、こてん、と不思議そうに首を傾げた。そして、俺の右手を、まるで未知の食べ物を吟味するように、じっと見つめている。
「……おいしい……」
その呟きは、紛れもなく俺に向けられていた。
彼女は俺を「餌」として、明確に認識したのだ。
背筋を、今まで感じたことのない種類の悪寒が駆け上った。これは、殺されるのとは違う。喰われる。存在そのものを、根こそぎ喰らい尽くされるという、もっと根源的な恐怖。
少女が、その小さな口をゆっくりと開いた。捕食の準備だ。
だが、その顎が俺に届くことはなかった。
空気を切り裂く轟音と共に、数条の黒い影が天から舞い降りた。
それは、全身を漆黒の強化装甲で固めた兵士たちだった。彼らの背負うバックパックからはジェット噴射の青い光が尾を引いている。彼らは寸分の狂いもない動きで俺と少女の周囲に展開し、その手に持つ物々しいライフルを少女へと向けた。
ヘルメットのバイザーの奥で、赤いモノアイが冷たく光る。その装甲に刻まれたエンブレムは、鷲が地球を掴む意匠――AEGIS。NEARを管理し、魔素災害から市民を守る国際組織。
「対象コードネーム:スクランブル、確認。これより鎮圧行動を開始する」
「待て。観測班より報告。特異な魔素反応を観測。発生源は、対象と接触している民間人」
「なんだと?……解析急げ。まさか……」
兵士たちの間で、機械的な音声が交わされる。彼らの一人が、ゆっくりと俺に近付いてきた。
「少年、聞こえるか。我々はAEGISだ。君を保護する。抵抗はするな」
有無を言わさぬ口調だった。
だが、俺の身体は恐怖で縫い付けられたように動かない。ただ、目の前の少女だけを見つめていた。
少女は、突然現れた邪魔者たちを気にも留めていないようだった。その瞳は、ただひたすらに、俺という「餌」だけを映している。
「……もっと……ちょうだい……」
その言葉を最後に、彼女の身体はふっと掻き消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
後に残されたのは、街の中心にぽっかりと空いた巨大な「無」の空間と、呆然と座り込む俺、そして俺を取り囲むAEGISの兵士たちだけだった。
こうして、俺の日常は終わった。
いや、あるいは。
この日が、本当の意味での俺の「始まり」だったのかもしれない。