幕あがる夜に
町の小さな劇場は、今夜も人でいっぱいだった。
老舗の帽子屋の店主も、広場のパン屋の若夫婦も、今朝兵役の通知を受け取った青年も。
それぞれが少し古びた黒い礼服や、母親がアイロンをかけたワンピースに身を包み、席についた。
劇場の椅子はぎしりと音を立てるが、誰も文句など言わなかった。
――音楽が聴ける。
それだけで、この夜は少しだけ、日常に戻れる気がした。
けれど、人々の顔にはうっすらと影が差していた。
数日前、町の外れの駅に、若い兵士たちを乗せた列車が停車していた。
その中に、息子の名前を見た者もいる。
新聞は、戦争が広がりつつあることを否応なく伝えていた。
それでも、今夜は正装。
足を運ぶ理由が音楽である限り、彼らは希望を信じていた。
劇場の外
夜風が吹き抜ける石畳の道。
劇場の正面玄関には衛兵が立ち、通りの先ではカフェの明かりがまだ灯っている。
だがすべての音が、遠ざかっていくようだった。
劇場の中から――ヴァイオリンの音が響いていた。
それは、ひとすじの光のように闇を裂き、空気を震わせる音。
続いて、ピアノの音が重なる。
それは大地を抱くような深い響き。
どこか祈りのようでもあり、夢のようでもあった。
街灯の下、ひとりの老人が立ち止まった。
彼はチケットを持たず、劇場の門前でただその音に耳を傾けていた。
「……聞こえるんだな」
彼がぽつりと呟いた。
音は、壁を超え、空を渡り、遠くへと広がっていく。
まるで町そのものに、柔らかな毛布がかけられたような温もり。
誰かが泣いていた。
誰かが目を閉じていた。
誰かが忘れていたものを、ふいに思い出していた。
そして誰もが、この音が終わらないことを、祈るように願っていた。