『沈黙の楽隊』
砲声はまだ遠くにあった。
けれど兵たちは、それがすぐ近くまで迫っていることを知っていた。土をえぐる音、空気がひび割れる音、命の終わる音は、やがてすべての距離をゼロにする。
司令部に二人の旅人が現れたのは、そんなある日の夕暮れだった。
男は黒の長いコートに身を包み、背にはヴァイオリンケースを背負っていた。
女は静かにピアノの前に座った。彼女の楽器は輸送トラックで共に運ばれたものらしく、砲撃の傷跡のようなひびが、木製の蓋にうっすらと走っていた。
「……芸人か?」
最前線を任された大尉が眉をひそめる。だが彼らの背後には、軍高官の署名入りの命令書があった。
“あらゆる手段を用いて士気を維持せよ”。
誰が、どこで、なぜこの二人を選んだのか、誰にもわからない。
やがて夜が訪れた。月は雲の背に隠れ、光も音も、希望も失われかけていたその時、前線の小さな広場に一つの音が響いた。
ヴァイオリンだった。
男の弓がひとたび弦を震わせると、空気の密度が変わった。
それは凍りついた兵士たちの心臓に火を灯すような、あるいは戦火を忘れさせる夢のような旋律だった。
続けて、ピアノが応えた。
女の指が鍵盤に触れるたび、砲弾の爆音が音楽の中に溶けて消えていく。
どこからか風が吹いた。血と硝煙に満ちた空が、ほんの一瞬だけ青空に戻ったようだった。
音楽は、戦場を支配した。
兵士たちは武器を置いた。
敵の狙撃兵も、砲撃も、その瞬間だけは沈黙していた。
両軍の境界に立ち尽くす男と女の姿は、敵味方を超えて誰もが目を奪われた。
だがその演奏は、夜明けとともに終わりを告げた。
二人は何も言わず、楽器を携えてまた歩き出す。
名前も、出自も、行き先も、誰も知らない。
ただ兵たちは知っていた。
あの夜、自分たちは救われたのだと。
命ではなく、心が。
「何者だったんだ……?」
誰かが呟いたその問いに、誰も答えは持たなかった。
ただ、その後も語り継がれるだけだった――
“かつてこの戦場に、音楽が降りた夜があった” と。