自治区編3 大地の加護
確かに事前にスパーダに釘を刺されていなければ手が出るところであった。
オーレンは部屋を出て怒りのままに廊下を進むと、やがて固く握りしめていた拳をほどいた。手のひらに爪痕が残っている。先ほどから、はあはあ、と奇妙な音が聞こえると思ったら自らの息遣いであった。身体も熱く、体温が上昇しているようだった。頭に血が上っているのか、少しふらつくような感じもある。
スパーダがオーレンの肩に手を置く。
「えらいぞ、よく我慢したな」
その響きは子供に言い聞かせるようでもあり、からかうようでもある。
どちらか判別がつきかねるほどにオーレンは逆上していたのだ。
「なんなんだあいつは! なんであんなに偉そうなんだ?」
「あいつは≪魔動革命≫の立役者だ。あいつの発明のおかげで、魔動エネルギーが広く行き渡るようになったわけだ。そりゃもう大した偉業だ。そのせいで増長してるんだろうさ」
「いや、あいつは昔からあんな感じだよ」
オーレンたちに話しかけてきたのは煌びやかな鎧に身を包んだ騎士であった。オーレンは彼の気配にまったく気づかなかったことに驚き、わずかに冷静さを取り戻した。騎士団長のフェルディンであった。
「フェルディン・グリンモル――≪鷹の騎士≫様じゃねえか。元気してたか」
スパーダがフェルディンの背中を叩く。友人同士であるのか、気安い感じが見て取れる。
フェルディンはスパーダを適当にいなすと、ミリザに向き直って深々と頭を下げた。
「友人の非礼を詫びます。【第六魔女】ミリザ・デストール様。アレクセイの態度を不快に思われたでしょう」
「様はやめて。あなた騎士団長でしょう」
「他に成り手がいなかっただけの名誉職ですよ。こんな肩書に大した意味はありません」
「あ、王様」
「えっ!」
慌てるフェルディンを愉快そうにミリザは見つめる。はたから見ればあまり表情は変わっていないのだが、ミリザが楽しそうにしていることがオーレンにはわかった。ミリザがこんないたずらを仕掛けるのは珍しいことであった。もちろん王様などいなかった。
「ミリザ様もお人が悪い」
フェルディンは眉をしかめる。
「様はやめてって言ったでしょう。まあいいわ。とにかく滅多なことは言わないほうがいいわよ。どこに耳があるかわからないんだから」
「ご忠告感謝いたします」
「あの、さっき友人って言ってました?」
オーレンはフェルディンに問いかける。フェルディンは頷く。
「アレクセイとは同郷なんだよ。子供の頃からずっと一緒だ。とんでもなく頭のいいやつでね、勉強じゃとてもじゃないが敵わないと思って、おれは仕方なく剣を握ったというわけだ」
「フェルディンもアレクセイもどっちも田舎の山猿ってこった。カピルナ村だったか? どえらい辺境の生まれなんだよな」
「そんな辺境の地から騎士団長に……」
「いやいや、そこまで田舎じゃないよ。オーレン君、スパーダの言うことを真に受けるなよ」
オーレンはフェルディンが自分の名前を知っていることにびっくりした。
ミリザがフェルディンに問いかける。
「アレクセイは【魔女】が嫌いみたいね」
「嫌いというか……なんと言いますか。不公平だとは言っておりました。【魔女】だけが魔法を使えることが。おれはいつか不公平のない世界を創る――それが彼の口癖でしたな。夢みたいな話だと思っていましたが」
「彼は実際にそれを叶えつつある。魔動科学という新しい力で」
きっとアレクセイにとってそれは夢ではなく現実的な目標であったのだろう。ミリザが【第一魔女】になると公言していることがそうであるように。その点に関しては共通項が見いだせる。他はどうかわからないが。
「大した男です」
フェルディンは真摯な面持ちで告げる。
「性格には難のある男ですが、彼は王国にとって……いえ、アルカロンドにとっての財産です。私はそう信じています。ミリザ様、どうか彼のことをよろしくお願いいたします」
フェルディンは深々と頭を下げる。
彼の兜の頂上にとまった鷹までもがミリザに何事かを頼み込んでいるようであった。
王宮を後にしたミリザたちはその足で魔導学院に向かった。
【第二魔女】テレサ・ゼムリアに出発の挨拶をするためであった。
テレサはいつものように微笑み、ミリザに言った。
「ごめんなさいね、アレクセイは怒っていたでしょう」
「ええ、とても。なぜ先生が受けなかったんです?」
「私はこれ以上偉くなるつもりはないもの。でもあなたはそうじゃないんでしょう?」
「任務を譲っていただいて感謝しています」
「この任務を無事にやり遂げられれば、あなたの目的に大きく近づく」
ミリザは頷く。
「でも覚えておいて。遠くばかりを見ていては駄目。足元も見ておかないと、思わぬところで転ぶかもしれない」
「ご忠告感謝します」
ところで、とテレサは言う。
「君が噂のオーレン君ね。こっちへいらっしゃい」
ミリザの後ろに控えていたオーレンは急に呼ばれて戸惑いながらもテレサの前に出る。
「可愛いわね。ミリザが気に入るだけのことはあるわ」
「先生!」
「大地の加護を」
テレサが小さく魔法を唱えると、オーレンの身体の中心に一本芯が通ったような感覚があった。まるで自身が巨大な樹木になったかのように、大地との強い結びつきを感じる。
「まあ、本当に魔法の通りがいいのね。これなら半年くらいもちそう」
「これは……」
「大地の魔法であなたの強靭を引き上げておいた。その力でミリザを守ってね」
「あ、ありがとうございます……」
オーレンは感激して涙を流しそうだった。ミリザの師匠であるテレサにこんな餞別をもらうなんて、自分はなんと幸運であるのだろう。そう感じて胸が熱くなった。
「こんなことくらいしかしてあげられないけど」
テレサは微笑む。すべての人々の母のような微笑みであった。
「充分です、先生」
「あなたの力はよく知ってるわ。私の助力が必要ないこともね」
テレサの脳裏に昔のミリザの面影がよぎる。まだ十歳だったころのミリザ――とても小さく、非力で、でも誰よりも強い決意を胸に秘めていた。
私は【第一魔女】になりたいんです、とミリザは言った。母の跡を継いで。
ミリアム。≪未来視の魔女≫と呼ばれた、テレサが知る限り最高の【魔女】――その娘ミリザ。でも血統だけですべてが決まるわけではない。それはとても困難な道になる、とテレサは言った。だがテレサにはわかっていたのだ。ミリザがいかなる困難をも乗り越えるであろうことが。だからこそ、テレサはミリザを初めての弟子としたのだ。それまで多くの志望者を断ってきたのに。
「あれから七年ね――」
テレサは呟く。ミリザはその七年で大きく成長した。
【魔女】となり、六芒星の一角まで上り詰めた。
いつかは自分を飛び越えていくだろう。
それは予感ではなく確信であった――嬉しいことに。
「気をつけて行ってくるのよ」
口にして母親みたいだな、とテレサは思う。子に恵まれなかった自分ではあるが、そんなことは別に構わなかった。私にはこんなにも立派な娘がいるのだから。誰よりも強く、美しく、健気で、愛らしい。本当の娘であればちょっと完璧すぎて怖くなってしまうかもしれない。
「はい」
ミリザの返答は短い。だが二人にはわかっていた。
そのたった二文字のなかに、七年分の想いが詰まっていることを。
二人の間には、もはや言葉など必要ないことを。




