運命の竜編36 月の魔女ミクリーン
霊峰エウレスカの頂上に≪月の祭壇≫はある。
神は月の似姿として月の魔女を創られたという。その伝承にちなみ、ノーラはこの地に祭壇を築いた。
眼下には竜の大地が広がる。竜の壁と大要塞ガンガルディアの姿も確認できる。王都や聖都はここからでは豆粒のように小さい。アルカロンドでもっとも高き場所――天空の大地。その頂に、ミリザたちは舞い降りた。
「今宵は大満月――まるで昼のような明るさね」
夜の静寂の清冽な空気をミリザの言葉が震わせた。
この星と月との距離がもっとも近づく大満月は年に一度しかない。そのなかでも、今年は近地点において完全なる満月となる≪極大満月≫の年であった。
夜を切り取る巨大な真円は神聖な光を放ち、世界を優しく照らしていた。その光にノーラは母ミクリーンの面影を見た。ミクリーンはまさに月のような女性だった。何も語らずともただそこにある。慈愛に満ち、すべてを包み込んでくれる万物の母のような存在であったのだ。
≪月の祭壇≫のある台地は極めて高度にあるために、【魔女】以外が立ち入ることはできない。
だがその場所にオーレンはいた。ミリザの【盾】として最終決戦に臨むために。
「スパーダはちゃんと留守番できてるかしら」
ミリザは呟く。スパーダはノルド城塞の留守を守っている。
真面目に務めているか、あるいはこれ幸いと羽を伸ばしているか。
「出るときに少し話したけど、いままで見たことないような真剣な顔をしてたな」
「何か言われた?」
「ちゃんとやってこいって。それだけさ」
「スパーダらしいわね」
ミリザは微笑んだ。スパーダのぶっきらぼうな横顔を懐かしく感じた。いつも眠たそうに目を半分閉じているが、見るべきものはしっかりと捉えている。これが世界の命運を懸けた戦いであることも承知しているのだろう。彼はミリザとオーレンに世界を託したのだ。
「期待には応えないといけないわね」
「ああ」
祭壇の中心に≪魔女の鏡≫はあった。鏡の中には月の魔女ミクリーンの姿があった。八百年前と変わることのない、美しい姿。彼女は地上における月そのものであった。
「母様……」
「≪禁呪≫を執り行いましょう」
ミリザは鏡の前に進み出た。
オーレンとノーラ、アビス、ザンザ、イルマの五人がそれを見守った。
「月の魔女ミクリーン」
ミリザは鏡の中の彼女に話しかけた。私の先祖かもしれない女性。髪の色は確かに同じだ。私と母と同じ蒼――月の光のような。神秘的な瞳はすべてを見通すかのようだ。
彼女は知っていたはずだ。神との約定を違え、ノーラに永遠の泉の水を与えたらどうなるか。その結末を。ならば彼女は自ら罰を受けたのだろうか。自らが犠牲になることで娘を救った。そうなのだろうか。
「母というのはまったく――」
みな同じだ。子のために自らを犠牲にしようとする。だが残されたものはどうなる? 子は母を求めるものだ。母のいない世界に光などあるだろうか。そのことを母というものはわかっていないのだ。
ミリザは≪禁呪≫を発動させる。
手にする≪氷の女王≫が際限なく輝く。
「大満月よ、鏡の時を巻き戻せ」
八百年に及ぶ時間遡行――その制御は想像を絶した。ミリザの周囲から景色が消え去った。ミリザの瞳に映るのは≪魔女の鏡≫と大満月のみ。時が逆流していく。時の渦に吞み込まれそうになる。ミリザは≪氷の女王≫を強く握る。これは標。千年の昔より存在する何よりも確かなもの。悠久の時の流れに耐えうるもの。この杖を標として八百年の時を遡る。
八百年の時空がミリザの上を経過した。近づいている。過去が流れ込んでくる。王宮の女王の間。二人の訪問者。光と闇の双子。彼女たちは使者。光の魔女ロザリウスと闇の魔女ダモクレス。まったく同じ顔をしている。人形のように無表情だ。彼女たちは神との約定を違えたミクリーンを罰しに来た。アリアの命によって。
「ミクリーン。かつて我らが神は、他ならぬおまえをもっとも愛された。それゆえに我らはおまえの勝手を咎めずにきた」
「アルカロンドに出ることも許した。だが、こればかりは許すわけにはいかぬ」
「わかっています」
ミクリーンは呟いた。こうなることはわかっていた。
すべてを受け入れる覚悟が彼女にはあった。
「ですが、ひとつだけ約束を。罪はすべて私にあります。ノーラには手を出さないでください」
「そんな交渉ができる立場だと思っているのか」
「それを承知で頼むのです。私の最期のお願いです。それが聞き入れられないのであれば――」
ミクリーンは手にする≪月の女王≫を双子に向ける。
「この命の限り、私は戦います」
≪古の十三魔女≫のなかでもアリアに次ぐ魔力を誇るミクリーンである。追い詰めるのは得策とは言えなかった。三人はしばし睨み合ったが、やがて双子の魔女が折れる形となった。
「よかろう……我らはあの子供に手を出さぬ。だが、あのものが我らに害をなすのであれば、その限りではないぞ」
ミクリーンは頷き、自ら鏡に囚われた。≪魔女の鏡≫――魔女の魂を捕らえる永遠の牢獄。神はなぜこのようなものを残されたのだろう。それはもはや誰にもわからない。わかるのは、そのなかに神がもっとも愛した魔女が囚われたということだけ。
ミリザは極限まで精神を集中させた。ここからはただひとつの手違いも許されない。下手を打てば時空がねじれ飛ぶ。そうなったらミリザはおろか、この場の全員が時空の藻屑となってしまう。あまりにも危険すぎる賭け。だがミリザには確信があった。必ず成功すると。彼女はその未来を視ていたのだ。
鏡の時が巻き戻った。鏡の前にはひとりの女性が立っていた。
淡い蒼の髪。薄い金色の瞳。頬には仄かな薄紅色が差している。
「母様――」
ノーラが彼女の胸に飛び込む。彼女の腕が、静かにノーラの身体を包み込む。
「ただいま。ノーラ」
月の魔女ミクリーンが≪魔女の鏡≫より解き放たれたのであった。




