神聖帝国編47 疫病の神イルディネスその2
その禍々しい邪神は、ドラグナーの肉体を乗っ取って現れた。
そのことに、カルドラとシルドラは衝撃を受けた。
「ザラケストラ様、これは、どういう……」
「すまぬな。ドラグナーを生贄にした」
ザラケストラは目を細めて答えた。
「いけ……にえ……ですと?」
「あれは我らが神々の一柱……疫病をもたらすイルディネス。竜の血肉によってこの世界に復活されたのだ」
「疫病……まさか、竜鱗病をもたらしたのも――」
ザラケストラは答えなかった。彼らには知られてはならない事実であった。イルディネスこそが竜鱗病の元凶であり、レビアタンにその病をもたらしたのは、それによって生み出された竜の血肉を利用し、復活を果たすためであったのだ。
くくくくく……と不気味な笑い声が響いた。
それはドラグナーの姿をしたイルディネスのものであった。
「病とは選別だ。それは強き肉体を……強き魂を選ぶ。強き竜として覚醒したこのものこそ、我が器に相応しい。ザラケストラよ、ご苦労であったな」
「ありがたき幸せ――」
「ザラケストラ様!」
カルドラとシルドラの悲痛な叫びが響いた。
「我らが神は、ゲネス教の悪鬼どもを滅ぼしてくださるのではなかったのですか! それが、なぜ我らを害するのです!」
「救いは平等にもたらされる。滅びるのは……すべてだ。そうしなくてはならぬ。滅びによってしか、この世界は救えぬのだ。それをわかってくれ」
「そんな――」
カルドラとシルドラは言葉を失った。彼らはベルダー教の神々が不完全な人間――神の名を騙り、悪逆の限りを尽くす血の騎士のような人間――を裁いてくれるとザラケストラに教えられていたのであった。それは偽りであったというのか。ザラケストラは邪神を復活させ、世界を滅ぼそうとしているのか。
「邪神だと……」
ギルバートはイルディネスを見据え、唾を飲み込んだ。畏怖の感情が湧き上がる。あまりにも強大な力を感じる。対峙しているだけで心が削り取られていくようであった。
「邪神ごとき、何を畏れることがある」
カリアンテが告げる。
「我らが神アルカ・ロンドに敗れしものどもであろう。神の使徒たるそなたらがあのようなものを畏れる道理はどこにもない」
理屈はそうであった。神々の闘争において、完全神アリル・マリルは創造神アルカ・ロンドに敗北し、外宇宙に封印されたと伝えられている。だが、イルディネスの発する気配はあまりにも強大であった。とてもではないが、ギルバートたちの敵う相手とも思えなかった。
「なんだ貴様は」
イルディネスがカリアンテに問う。
「我は【聖女】――創造神アルカ・ロンドの代理人である」
「【聖女】……? 【魔女】ではないのか」
「我は【魔女】を滅ぼすもの。ついでに邪神の一柱も壊すとしよう」
カリアンテの身体から魔力が放たれる。
≪十二使徒≫の肉体に溢れんばかりの力がみなぎった。
「あの邪神を滅せよ」
カリアンテが号令する。ギルバートたちは恐怖を払い、勇気を振り絞って邪神に斬りかかった。七本の聖剣がイルディネスの肉体を捉える。だが、それらは堅い紫の鱗に阻まれて一筋の傷すらも負わせることはできなかった。イルディネスから魔力が爆発し、ギルバートたちは吹き飛ばされた。
「馬鹿な……」
カリアンテが魔力の飛礫を放つ。だがそれも一向に効果はない。すべてイルディネスに命中したが、蚊に刺されたほども感じていないようであった。
「このようなもの、避けるにも値せんな」
イルディネスが静かにカリアンテに近づいてくる。根源的な恐怖がカリアンテを襲った。その瞬間、カリアンテに施されていた魔法が解けた。彼女は【聖女】などではない。その実は、深い森の奥、名もなき部族の集落において≪精霊憑き≫としての使命を背負った一族の少女であった。彼女たちの一族は先天的な霊媒体質により、森の精霊や古き神々をその身におとす。カリアンテは伝承魔法により【聖女】の伝承と同化し、自らを【聖女】と信じ込んでいた。夢は醒め、残酷な現実が彼女を襲った。
イルディネスの手刀がカリアンテを貫いた。心臓に風穴が空き、カリアンテは人形のように倒れた。その瞳は硝子玉のようであった。黄金の髪が大地に広がり、彼女は天を仰いだ。白く細い手が天に向かって伸ばされようとするが、途中で力尽きた。彼女は黄金の河に身を横たえ、永遠の眠りに就いた。
「カリアンテ様……」
ギルバートたちの心を絶望が襲った。【聖女】が失われてしまった。邪神の手によって。もはやこの世界に救いはない。我らの使命も終わった。すべては無為であったのだ。
「さて……我に刃を向けたものどもにもその報いを受けさせぬとな」
イルディネスはギルバートたちに目を向けた。イルディネスの一番近くにいたのはアッシュであった。先ほどの魔力の爆発によって重傷を負い、大地に転がっていた。動けなかった。
「まずは貴様からだ」
イルディネスは右手を掲げた。風の力が集まっていく。ドラグナーの風と雷を操る力は、イルディネスにも受け継がれており、その力を試したいと考えたのかもしれなかった。
イルディネスが手刀をきらめかせる。風の刃がアッシュを襲った。痛みのために動けないアッシュの眼前に風の刃が迫る。だがそれは、突如として現れた光の壁に弾き飛ばされた。
「なに――」
光の壁を展開したのはソフィアであった。神器である花の首飾りは失われている。だがソフィアはそんなものがなくてもこの力を振るえることに気づいていた。これは自身のうちより溢れる力。尽きることなく湧き出る永遠の泉。首飾りはむしろ彼女の力を抑えるためのものであったのだ。それが失われたいま、とんでもない力が湧き上がってくるのをソフィアは感じていた。
「これ以上誰も……殺させはしません。みんなはあたしが守ります!」
ソフィアは神に向かってそう宣言した。その瞳は美しい花色に輝いていた。




