神聖帝国編16 ルミナリアの花園
いまより800年以上も前のこと――
それは小高い丘にある廃墟の一角であった。
時刻は夜半であり、すべては青白い月の光のなかにあった。
かつてそこにあったのは石造りの神殿であった。簡素な造りであり、規模も大きなものではない。だがそこには確かな信仰があった。創造神アルカ・ロンドを讃える聖なる言葉があり、神の言葉を聞くものがいた。しかしいまはそのいずれもない。あるのはただ瓦礫の山であり、かつての神殿の名残すらも失われている。この地を襲った戦火に巻き込まれ、このような姿になっていたのであった。
その場所にひとり膝をつくものがあった。青年であった。青年は涙を流していた。美しい青い瞳から、透き通った水滴が溢れ、瓦礫に零れ落ちた。ぴしゃんという音がこだまする。
青年の名はカイナスといった。コーデリアスという小国の王子であった。王である父が病気のために床に臥せ、余命いくばくもないと典医に告げられたところであった。カイナスは次代の王たる責務に耐え切れず、神に救いを求めるためにこの地を訪れたのであった。
「瓦礫に祈るとは変わっておるな」
声が響いた。気づけば、カイナスの背後より少女が静かに近づいてきていた。白く薄い布をまとい、金色の長い髪を揺らしていた。そのすべてが月の光に溶けるようであった。少女は裸足であった。少女が足を踏み出すと、その場所から白い花が咲いた。少女の歩みに沿って、花は次々と咲き誇った。白く美しい花であり、月の光を受けて淡い蒼に輝いていた。
ひとならざるものであった。
カイナスは畏まり、平伏した。その身は震えていた。
「なにゆえそのように震えるのか」
「心弱きゆえに……」
「心弱きものが何を祈っていたのか」
「私はコーデリアスの王子です。王である父は間もなく天に召されます。そののちは、私が王位を継ぐことになるでしょう。ですが、いまは戦乱の世……私のようなものに王は務まりませぬ。それを考えると、民が哀れと思ったのです。彼らを救う道を示していただきたかったのです」
「そなたが震えておるのは民を思うがゆえか」
「私のような弱き王を戴く彼らの不幸を恐れるのです」
「強くあるためには弱くなければならぬ。弱きものこそが、もっとも強くあることができるのだ」
「は……それは……いかなる……」
「面を上げよ」
カイナスは顔を上げ、恐る恐る少女を見た。少女の青い瞳と目が合う。その瞳は無限の広がりを有しているように思われた。カイナスは自身が夜の空を見つめているのではないかと思った。漆黒の闇のなかに、幾億もの星が瞬いている。そのきらめきのひとつひとつが何かを示唆しているかのようであった。
「そなたの祈りは神に届いた」
少女はカイナスに告げた。
「心やさしきものよ。神はそなたに聖なる使命を与える。戦乱の世を終わらせ、アルカロンドを統べよ。これがそなたの民を救う唯一の道である」
「私が……アルカロンドを統べる……?」
「私は神の言葉を預かるもの。我が名はカリアンテ。神より【聖女】たる使命を授かったものである」
これがコーデリアス神聖帝国初代皇帝カイナスと【聖女】カリアンテとの出会いであった。
このとき神殿の廃墟には【聖女】の歩みに沿ってルミナリアの花が咲いた。
それゆえにこの地はルミナリアの花園と呼ばれるのであった。
☆
「それで、ルミナリアの花はどこに咲いてるんですか?」
ソフィアが目を輝かせながらエリスに問う。エリスは困ったように微笑む。
「ルミナリアの花は伝説上の花だから……実際には咲いてないのよ」
「ええー! そんなあ!」
「伝説なんてそんなもんだろ」
「うう……そんなあ……話が違うよお……」
「でもでも、パンジーとかビオラとかが咲いてるわよ。ほら、色とりどりでとっても綺麗ね」
「そんなの珍しくないですよう! いつも見てますもん!」
ルミナリアの花園は現在はただの花畑であった。色鮮やかな花々が咲いてはいるが、花屋のソフィアにとっては別段珍しくもないものであった。彼女はルミナリアの花が見たかったのである。純白の花であり、夜には淡い蒼に光るという。彼女の首飾りはその花を象ったものであると祖母に聞いたことがあった。
「ルミナリアの花が見れると思ったのに……」
わーん、とソフィアは泣き出した。その彼女にハンカチを差し出すものがあった。細面の美青年であり、左手には竪琴を持っていた。
「涙を拭いてください。あなたのような美しいひとが涙を流すなんて、この世はなんと残酷なのでしょう」
芝居がかった物言いであった。しかしその声はなんとも麗しい。
「ありがとう……あなたは?」
「私はアリアンヌ。吟遊詩人です」
「吟遊詩人?」
「おや、吟遊詩人をご存じないですか? では一曲いかがです。吟遊詩人とは音楽を奏で、歌を唄うものなのです」
「へえ、面白そう!」
「では……」
アリアンヌは唄い出した。竪琴から美しい音色が奏でられる。
白きもののなかに黒き闇は眠る
闇は魔を育てやがて世界を包む
太陽は姿を隠し永遠の夜が来る
明けぬ夜の名はダモクレスの闇
だが希望はあるそれは聖女の光
神より授かりしロザリウスの光
聖女はその力で闇を祓うだろう
そして世界は麗しき朝を迎える
「こんなところですか」
「はえーなんか意味はわかんないけど、すっごくいいです!」
「これは【聖女】を神の光と解釈する歌なのです。ソフィア様に響いておればよいのですが」
そう言ったアリアンヌの瞳には何か不思議な光が灯っているように見えた。
「え? あたし名前言ったっけ?」
「ご友人がおっしゃっていたのを聞いたのですよ。私は吟遊詩人ゆえ、耳がいいのです」
「はーそうなんだ」
ソフィアのなかで何かが変わったような感覚があった。
「なんか……変な感じ」
ソフィアは急に気分が悪くなった。うーん、と唸って倒れ込んでしまう。それを見てアッシュたちが駆け寄ってくる。アッシュが倒れたソフィアを抱き起す。
「おい! ソフィア! どうした!」
「アッシュ……なんでもないよ……大丈夫」
気分が悪かったのは一瞬であった。いまはもうなんともない。
ソフィアはぴょこんと立ち上がると、あたりを見回して言った。
「あれ……さっきの吟遊詩人さんは?」
「吟遊詩人?」
「アリアンヌさんだっけ? さっきここにいたでしょ。歌を唄ってた」
「何言ってんだ? そんなのいなかったぜ」
「はへ?」
アッシュが冗談を言っているのかと思ったが、アッシュの瞳は真剣であった。
ソフィアは狐につままれたような気になったが、ギルバートたちの声が聞こえてきて、思考を中断した。
「さて、祈願も終わったし、そろそろ行こう」
「ソフィア、行きますよ」
「はーい!」
ソフィアは駆けだす。なんかよくわかんないけど……さっきのは白昼夢というやつかもしれない。きっといろんなことがあって疲れが出ているのだ。今晩はぐっすり眠らなくちゃ。
ソフィアたちが花園を出てしばらくすると、ソフィアが倒れた場所からするすると一輪の花が咲いた。純白の花であった。わずかに蒼く光っているようにも見える。それを手折るものがあった。吟遊詩人のアリアンヌであった。アリアンヌは右手につまんだ花を見つめて笑みを浮かべた。それは邪悪という言葉では表現しきれないほどに邪悪な笑みであった。




