プロローグ 氷の魔女
登場人物
ミリザ……魔女。アルケイア魔導王国、魔導学院所属。
スパーダ……魔女の騎士。攻撃を主とする【剣】を務める。
「氷の魔女よ、凍土より出でて銀嶺の天幕をひけ――」
ひとりの【魔女】が巨大な炎の怪物を前に、詠唱を行っていた。極大詠唱と呼ばれる強力な魔法。だがその詠唱の間、彼女はまったくの無防備となる。それを守るのが魔女の騎士――【剣】と【盾】である。怪物が詠唱中の【魔女】に向かって炎の散弾を放つ。だがそれを騎士が素早い剣さばきで散らしていく。
「汝が力は氷の法域。氷嵐の輪舞」
【魔女】に氷の魔力が集中していく。アルカと呼ばれるあらゆる生命と魔法の源――それを行使して【魔女】は魔法を放つ。複雑な魔法の術式を、詠唱によって編み上げていく。
「汝が力の及ぶところ、氷像となりて砕けざるはなし」
炎の怪物が咆哮する。【魔女】の尋常ならざる魔力に反応したのだ。
【魔女】の足元から、放射線状に氷が拡がっていく。炎の怪物のために灼熱のようだった洞窟内が突如として氷室に変じたかのように思われた。凍てつく空気が岩肌を白く染め上げていく。薄岩が砕け、乾いた音を立てた。
「炎熱の大地に氷塊の墓標を降らせ」
【魔女】の瞳が冷たく輝く。
炎の怪物は怯えの色を見せた。だがそれも一瞬のこと。生存本能に従って怪物は跳躍する。己の命をおびやかすこの【魔女】を滅さなければならない。全存在を懸けた一撃。それは正確に【魔女】の首を狙う。だがそれを渾身の力を込めて騎士が薙ぎ払う。怪物の攻撃は逸れ、大地に巨大な亀裂を作った。風圧で【魔女】の長く蒼い髪が舞った。
「いまだミリザ!」
騎士が叫ぶ。
「いと触れ難き氷の魔女。汝の御名において命ずる――アルカ・ミリアスタ!」
極限まで収束された氷の魔力が怪物を貫く。
世界は白く輝き、そのあとには巨大な氷像が出現していた。炎の怪物が、燃え盛る炎の揺らぎを残したまま、時が止まったかのように凍りついている。氷の結晶が周囲を舞い、それは氷像を冷たく輝かせた。
「いっちょあがりってとこか」
騎士はため息をつきながら、その場に座り込む。激闘による疲労のために衰弱しているかのように見えたが、瘦身は以前からのことだった。手にした剣――ナイフのような小刀を洞窟の氷の張った床に突き刺し、短髪をかきあげる。その顔に刻まれた無数の細かい傷跡が、歴戦の過去を物語る。
「いいかげん【盾】を指名してくれ、ミリザよ。いくらなんでもおれひとりじゃあ身体がもたん」
ミリザと呼ばれた【魔女】は、ふふ、と静かに笑った。清流のごとき蒼く長い髪を揺らす。その瞳は氷のように鋭く彼女の秀麗な顔に穿たれているが、そこに宿る光は不思議と温かだった。
「そうもいかない。私にとって【盾】の選定は一大事――それは母の遺言でもあるの」
「赤毛の少年がおまえさんの生涯の【盾】になるってか。だがな、それが本当かどうかはわからんぜ。いくら≪未来視の魔女≫の言葉だとしても、当時子供だったおまえさんに、どこまで本気で言ったんだか」
「かもしれない。でも私にできるのは信じることだけ」
その言葉の意味に、騎士は口をつぐむ。
不揃いな短髪をボリボリとかきむしる。
やがて独り言のように呟く。
「まあ……しゃあねえな」
ミリザは微笑む。
「苦労をかけるわね、スパーダ」
「いいってことよ」
照れ隠しのためか、スパーダはミリザから目をそらし、先ほど討伐した炎の怪物アグニの氷像に視線を移した。
「しっかし……とうとうここまで来ちまったか。炎罪天のアグニを討伐したことで、おまえさんの【第六魔女】への昇格は確実だ。まさか【盾】を指名しないままに≪六芒星の魔女≫の仲間入りを果たすとはな」
「別に過去に例がないわけじゃない。そんなことは自慢にもならないわ」
「おまえさんはまだ先を見てるんだろうな」
「【第六魔女】なんて通過点に過ぎない」
「やれやれ。これからが思いやられるな。おれはもうおっさんなんだぜ」
ぼやくスパーダの口元には無精ひげがまばらに散っていた。
最近そこに白いものが混じるようになったのが悩みであるらしい。
「次の任務では少し楽をさせてあげられるかもしれない」
「ほう、いい話か」
「テレサから【盾】の見習いを任務に連れて行くように言われている。なんでも小さな村の調査任務らしいわ」
「なるほどな。だったらまあ、おれも久しぶりに羽を伸ばさせてもらうとするか」
「休暇に行くわけじゃないのよ」
「わかってるって。見習いのやつをしっかりしごいてやるよ」
スパーダは立ち上がり、歩き出す。
「ほら、早く帰って祝杯といこうぜ」
「まったく、現金なんだから」
ミリザは呆れたように呟く。
スパーダのあとを追おうとしたが、振り返り、アグニの氷像を見上げる。
「あなたは強かったわ」
薄氷の勝利だった。少しでも歯車が狂えば、倒れていたのは私だったかもしれない。この結果はたんに幸運によるもの。天秤がどちらに傾くか――ただそれだけのことだった。やはり【盾】なしでこれからの戦いを生き抜くことは困難なのかもしれない。【魔女】には【盾】が必要なのだ。
「どこにいるのかしら――」
ミリザは呟き、天を仰ぐ。視線の先には薄暗い洞窟の天井があるばかりだが、彼女はその遥か先を見通そうとしていた。それは彼女の未来。そうあるべき、たったひとつの未来の姿。
『赤毛の少年があなたの生涯の【盾】になる』
それが尊敬する母から託された、ただひとつの言葉。
それは≪未来視の魔女≫と呼ばれた母ミリアムの予言であり、遺言でもあった。