欠落
欠落
ー 『ミロのヴィーナス』は、両腕が欠損した彫刻である。
それが逆に、見たものに無限の腕の形を想像させることができるとして、高く評価されていると言う…。
チャイムが鳴り、現代文の授業が終わった。
夏美は、はぁっと深くため息をついた。
やはりトップ校だけあって、内容も難しいし、授業スピードも早い。
もともと得意な科目ではないから、余計に頭に入ってこない。
特に 今やっている『ミロのヴィーナス』は、夏美の最も苦手とする芸術論に関する評論だ。
このままでは期末試験が心配だ。
夏美は教科書を机の中にしまい、タブレットの電源を落とした。
このタブレットは、入学前の説明会で全ての授業が電子ノートを使用すると聞き、慌てて購入したものだ。
高額なので、大切に使っている。
「夏美ちゃん、購買行かない?」
春子が笑顔でやってきた。
春子とは入学式で知り合い、友だちになった。
体育館がどこか分からず、さまよっていたところ、声をかけてくれたのが春子だった。
初めて春子を見た時、夏美は、
(この世に、こんなに綺麗な女の子がいるのか。)
と息を飲んだ。
それほど、春子は美しかったのだ。
肩から流れ落ちるロングヘアは、大きな瞳と同じくどこまでも艶やかに黒かった。
ほっそりとした華奢な体から、すらりと長い足が伸びていた。
耳心地の良い高い声は、小鳥のさえずりのようだった。
性格が良く、誰にでも優しい。
その上に頭が良く、運動も得意ときている。
たちまちのうちに、春子はクラス、いや学校中の人気者になった。
校内を歩けば、みんなが春子を見た。
たまたま入学式に知り合ったと言うだけなのに、こうして夏美は仲良くしてもらっている。
自分なんかが隣にいていいのかと初めは気後れしていた。
しかし、春子の隣にいるだけで、必然的に夏美にも視線が向けられる。
注目されるということは、いわば禁断の快感だった。
加えて、春子と一緒にいれば、自然と多くの友人が出来た。
(中学みたいな目に遭うのは、もう嫌よ…。)
夏美は、志望校が違うというだけで、グループの子たちから仲間はずれにされた経験がある。
(受験勉強を勝ち抜いた甲斐があったわ…。)
春子の引き立て役でも何でも構わない。
このきらびやかな舞台から降板したくなかった。
購買に行く途中、佐々木さんが廊下のゴミ箱の前で立っていた。
佐々木さんはクラスの女子たちからいじめられている。また筆箱やお弁当を捨てられたんだろうか。
「かわいそう。」
「え。」
夏美が聞き返すと、春子は、
「でも、悪意のない悪は許すべきだと思うから。」
と続けて呟いた。
佐々木さんは、ゴミ箱からタブレットを拾い上げた。
ジュースやお菓子のクズやらがついて、汚れてしまっている。
夏美と同じく、入学に合わせて買った新品だろうに。
夏美は過去を思い出し、胸がきゅっと苦しくなった。
少し間違えたら、夏美だって佐々木さんの立場だったかもしれないと考えたら、足が震えた。
春子と友だちでいる限り、まずいじめられることはないだろうが。
春子は立ち止まることなく、購買の方へ歩いていってしまう。
「ど、どういうこと? 佐々木さんはいじめられても仕方ないってこと?」
夏美は春子を追いかけながら、声を絞り出した。
「そう。それに、許してあげなきゃ。」
階段をおりながら、春子は答えた。細い指がするすると手すりを滑る。
「やっている側は、自分たちがやっていることの意味を理解していないのよね。
だから、許してあげなきゃ。」
夏美は愕然とした。
「そんな。いじめてる子たちは、ひどいことしてるって、わかってると思うよ?」
「わかってないよ。あの子の苦しみが、一生消えないなんて、わかってない。
犯した罪の『本当の重さ』なんて、死んでもわからないものよ。」
「春子…?」
「そのうち、飽きてやめると思うよ。」
購買には、たくさんの生徒たちがいて、押し合い圧し合いしていた。
「いじめてる子たちも、かわいそう。
自分らの罪もわからないまま、きっといつか、地獄に落ちるのよ。」
春子は2つクリームパンを買い、微笑みながら1つを夏美に差し出した。
中庭で食べよ、と言いながら、春子は再び歩き出した。
ベンチに座る。
周りに木などの作る影が無く、日に照らされたベンチはまるでスポットライトの当たるステージのようだった。
まだ6月なのに夏を思わせるような強い日差しが、じわじわと夏美の太ももを焼いた。
「この世界は、誰がかわいそうか、かわいそうでないか、競い合うゲームみたいなもの。」
ぱくっ。
春子がひとくちパンを食べる。
「でもきっと、シナリオは初めからある。
佐々木さんは『かわいそう』だし。
いじめる子たちも、『かわいそう』な役。」
春子の形の良い唇から、そんな恐ろしい言葉が投下されるとは。
夏美は額に嫌な汗をかいた。
「みんなそう。夏美ちゃんも、きっと、心当たりあるでしょ?」
急に夏美は、春子が自分の思惑を知っている気がした。
春子といることで優越感や安心を抱いている自分を、見透かされている気がした。
春子といれば決していじめられないと思っていることも、勘づかれている気がした。
クリームパンからカスタードクリームの甘い匂いが立ち上る。
夏美は袋を持ちながら、クリームが暑さに溶けて、じりじりとだれていくのを感じた。
『ミロのヴィーナス』は、両腕の欠損によって、返って究極の美を得たらしい。
では、私たちは、何を失うことで何を得るのだろうか。
または、何をどう努力しても…自己の何かを欠落させたとしても、手に入れられないものがあるというのか。
ふと、日に少しだけ、雲がかかった。
おそるおそる隣を見ると、春子の伏せた長いまつ毛が、彼女の白い頬にうっすらと、しかし確かに影を落としていた。