水竜
泉まで続くこの場所はケイル村周辺の草原のように見晴らしはよくないものの、決してアイオン森林のような深い森の中というわけではないのに、毒で淀んだ空気によって鬱蒼とした雰囲気が作り出されていた。
そんな中、アルフィナたちは毒の霧を割くように進んでいく。
一つ間違いが起これば即座に死に直結する。そんな緊張感が足取りを重くし、嫌な汗をにじませる。
もっとも、そんな緊張しているのはアルフィナだけなのだろうが。
先を行くエリオとルインは散歩でもするように揚々と進んでいる。
この違いは、ただの領主家の娘だったアルフィナと魔絶戦争の戦火のど真ん中にいた二人の、修羅場をくぐり抜けた経験の差からくる実力の違いによるものだ。アルフィナと二人とでは、何かが起こった際に対処できる問題の数に差がありすぎる。
何が起こっても大丈夫。エリオとルインの堂々とした在り方はその自信の表れだ。
アルフィナはそんな二人に着いていくのがやっとである。戦いの最中で必死になっているならばともかく、静かに死が隣接しているこの状況で堂々と振る舞える自信は、今のアルフィナにはない。
「――お、着いたぞ」
アルフィナは急に立ち止まったエリオの背中にぶつかりそうになりつつ、正面を見ると、そこには泉が広がっていた。
「大きな泉……まるで湖ですわね。ここが水竜の住処で間違いないのかしら」
アルフィナは泉の縁で屈み、水面を眺める。その奥は紫色に濁っていて、とてもではないが生き物が住める環境には見えなかった。
「……きっと清涼感があって、幻想的で……綺麗な場所だったのでしょうね」
こんなことになってしまう前の景色はこうだったであろう想像を膨らませ、アルフィナは「一目見てみたかった」と呟く。
その後にもう一度水面に意識を戻すと、水中で何かが光ったのが見えた。
「……ん?何かしら?」
アルフィナは注視するために身を乗り出した。
「離れろ!アルフィナ!!」
「え――」
エリオの叫び声が聞こえたのと、凄まじい力で身体が後ろに引っ張られたのはほぼ同時だった。
風景が瞬間的に無数の線に変わり、一瞬の浮遊感の後にお尻から地面に激突して短い悲鳴をあげたてから、ようやくアルフィナは自分がルインに後ろへ放り投げられたのだと理解する。
その直後にそれは起こった。
――ザバァァァン!
突然、噴水のように泉の水が噴き上がったのである。
「へわぁ!!?」
「チィ!」
毒で汚染された泉の水が拡散し、雨のように降り注ぐも、エリオが咄嗟に効果範囲を広げた〈球体砦壁〉に包まれるように守られて事なきを得る。
「な、何が起こったんですの!?」
泉の水が飛び散り終え、〈球体砦壁〉によって展開している魔法壁の外を見ると、さっきまで何もなかった泉の上に何かが浮かんでいるのが見えた。
濃い霧に包まれたそれの全貌は見えないが、辛うじて輪郭をなぞることはできる。
それはまさに首長竜。ヒレのような形状をした四つの脚に短く太い尻尾、流線形の胴体から細く長い首が延び、その先端の顔にある二つの瞳が不気味に輝いていた。
「どうやら泉の主のおでましみたいだよ」
「これが、幻獣水竜……!」
首の長さだけでも五メートルは越えるであろう。その巨体もさることながら、高い場所から見下ろされる眼光からもただならぬ威圧感を感じる。この肌に刺さるような敵意は、これまでケイル村を襲った魔物や魔族に向けられていたものだろう。
霧に覆われながらも圧倒的な存在感を示している目の前の竜が、かつて村人たちが敬愛していた幻獣の姿とは掛け離れているということは、元の水竜を見たことがないアルフィナにも容易に想像できた。
「オオォォォォォォ!」
水竜は吠える。空気が震え、その瞳の中にある危険な輝きが一層強くなる。それに呼応するかのように水竜を覆う毒霧がこちらに吹き流されるように襲いかかってきた。
毒霧は展開済みの〈球体砦壁〉に弾かれたが、それによって周囲の霧の濃度が一気に増加し、〈球体砦壁〉の外側が濃霧で埋め尽くされて何も見えなくなってしまう。
「面倒なことしやがって!アルフィナ!この中から出るんじゃねえぞ!」
「し、承知しました……わぁぁ!?」
突然ズドンッ、と凄まじい衝撃が走り、アルフィナの語尾が震える。
よく見えないが、水竜が身体のどこかを打ち付けてきたのだ。
「グォ……オオオオォォォォォ!!」
(……あら?)
濃霧の中から再び轟く水竜の咆哮。
姿が見えないからこそだろうか、先程よりも鮮明に聞こえたような気がした。
そして、アルフィナはどことなく違和感を覚える。
これはまるで――
「ひぁ!?」
考える暇もなく再び重たい衝撃が〈球体砦壁〉に叩きつけられ、アルフィナは上ずった声を漏らす。
「エ、エリオさん!これ、大丈夫なんですの!?」
「うろたえんな!この程度の衝撃、何百回来ようが壊れやしねえ!」
そう言い切るエリオは頼もしいの一言に尽きた。
「だが、こうも視界が遮られると流石に動きづれえな……。ルイン、この霧をどうにかできねえか!?」
「うん、分かった!」
――――ザクッ!
かすかに聞こえたその音が何なのか、一瞬アルフィナには分からなかった。それからルインの腕から滴り落ちる血と、それによって赤く染まっていく地面を見て、ようやく理解が追い付く。
――ルインが自分の剣で左腕を貫いたのだと。
「ひぇええ!?」
「おっと、ごめん。血、飛ばなかった?」
ルインはまるで何も起こっていないかのように、血まみれの左腕のことなど気にする様子なくアルフィナの方を見る。
「ば、馬鹿野郎!せめて何か一言言ってからやれよ!相変わらず心臓に悪ぃな!」
「アルフィナはともかく、エリオはそろそろ慣れなよ。もう何回も見てるんだから」
「慣れるか!俺たちはお前と違って腕を刺されりゃ痛いし腹を貫かれりゃ死ぬんだよ!そんな痛々しいもんをいきなり目の前で見せつけられるこっちの身にもなってみろ!」
「まぁまぁ、その辺は粋なブラックジョークとでも思ってさ。あ、それともブラッドジョークって言った方が――」
「――やかましい!いいから何か手があんならさっさとやれ!」
ルインは「人使いが荒いんだから」と口を尖らせながら【苦痛の血紅】を発動させる。
地面に広がった血溜まりの中から深紅の剣が引き抜かれた。剣身だけでもルインより大きく、刃幅が広い両刃剣だ。
引き抜かれたそばから両刃剣は〈球体砦壁〉をすり抜け、そのすぐ上に浮かび上がる。
その後も次々と両刃剣が生み出されては浮かんでいき、合計で六本の剣が〈球体砦壁〉のすぐ上に浮かんだ。それらは柄頭同士を付け、剣先を外側に向けて並んでいく。
(……何をする気ですの?)
ルインはいつの間にか血も傷も綺麗さっぱり消えていた左腕を上げて人差し指を伸ばすと、くるり回す動作をする。すると、並んだ六本の両刃剣が回転を始めた。
その瞬間、アルフィナは理解する。
これはプロペラだ。六本の両刃剣がそれぞれプロペラの羽の役割を担い、風を巻き起こすつもりなのだ。
回転の勢いが増していき、やがて剣の輪郭すら判別できなくなるほどになると、アルフィナの考え通り――旋風が巻き起こった。
大木をしならせる程の強風は視界を遮る濃霧を吹き飛ばしていき、その中にいる水竜の姿を露にしていく。
「……!?」
アルフィナは驚きのあまり口元を覆う。
全身を覆う白い鱗はほのかに青い光を反射し、滑らかな曲線を描くそのシルエットは真珠のように気品があり、気高さを感じさせる。
こんなことなる前、かつてこの幻獣を見たものたちは、その美しさに見惚れたことだろう。
神々しく水上を浮かぶ姿はまさに聖獣と呼ぶに相応しかったに違いない。
しかし、今やその姿は見るも無惨だった。
ようやく全貌が見えた今の水竜は、胴体も、首も、ヒレのような脚も、身体のあらゆる箇所に紫の痣が浮かび、今にも全身を染め上げられようとしていた。
まるで仮面のように顔の半分も痣に覆われ、瞳は濁り、口の端から泡を吹いている。明らかに正常は見えなかった。
「オオオオォォォォォ……ッ!」
吹き荒れる風の中、水竜は狂ったように吠える。
その姿を見たアルフィナは察した。
水竜もまた――ケイル村で見た毒に冒された村人たちと同じなのだと。
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