土下座
森の中を少女は走る。
足場の悪い獣道を踏みしめ、行く手をふさぐ藪をかき分け、枝葉をくぐり抜け、息を切らしながら歯を食い縛って。
身に纏うドレスは走る過程で無惨に破け、元の気品溢れるシルエットは失われていた。きめの細かい白い肌は切り傷や擦り傷で赤くなり、長い髪は土ぼこりにまみれて黄金の輝きがくすんでいた。
それでも少女は逃げる。
後ろを振り向けば、迫り来る巨大な影がある。
足を止めれば追いつかれる。
追いつかれれば殺される。
腰から下がっている護身用の剣では傷一つ負わせることはできなかった。
もはや少女には何の抵抗力もない。
取れる選択肢はひたすら逃げること。
森の外に出るか、追ってくる者が諦めるまで。
しかし――無情にも、その時がやってくることはなかった。
逃げ続けうちに溜まった疲労が、少女の足をもつれさせた。
勢いはそのままに少女は転ぶ。
痛みに顔を歪ませながら顔を上げると、今まで後方にいた巨大な魔物が上に覆い被さってきた。
もう逃げられない。
無慈悲にも叩きつけられた事実が示すは、死。
少女は唇を噛みしめ、目を閉じる。
次に来るであろう痛みが、せめて長く続かないことを祈って――。
***
世界を震撼させる“英雄の反乱”が起こってから、五年の歳月が流れた。
エルナ王国南部に広がる森――アイオン森林。
狂暴な魔物が闊歩するこの森の奥地で、“大罪人”エリオ・ルーングレイスは歩いていた。
慣れた足取りで向かう先にあるのは、ツルに巻かれた高さ二メートルはあろう大きな岩石。エリオは〈飛行〉の魔法で身体を浮かび上がらせてその上に乗り、腰かけた。
樹冠の隙間から覗く青い空を見上げ、木々の匂いを肺の奥まで取り込む。朝方の涼しい空気が森の湿気を程よく含んで清涼感のある風を吹かせ、さざめく葉の音が鳴り響いた後に、時が止まったかのような静寂が訪れる。
陽の当たる世界に留まることをやめ、鬱蒼とした森の中で過ごすエリオにとって、この森林浴は心安らぐ時間だった。
できることなら、このまま何時間でも自然の癒しに浸っていたい。
しかし、それが不可能だということは、エリオ自身がよく知っていた。
「――今日は早えな。まだ数分しか経ってないってのに」
静寂の中では雑音がよく響く。何かの足音と、藪を揺らす音が同時に聞こえた。
安らぎの時間も、騒音が入ればそうではなくなる。
もう少し長く静かな時間を堪能していたかった。エリオは舌打ちをすると、足音がした方向を向く。
(でかいのが一匹……魔界狼か)
音の大きさや響き方で向かってくる魔物の種類を予測する。
魔界狼は“魔絶戦争”時代に魔王軍の尖兵として魔界より放たれ、そのまま人間界に定着した魔界の魔物の一種である。
(……いや、でかい音に隠れてもう一つ足音が……。これは……まさか!?)
――人間。
そう、人間の足音だ。
アイオン森林には魔界狼のような魔界の魔物が数多く定住している。それらは人間界の魔物と比べて狂暴かつ強大なものばかりで、歴戦の冒険者ですら森にはむやみに近寄ろうとしない。そんな森の中で人間の足音など滅多に聞けるものではないので、すぐに異常な事態だと感知できた。
(どこの馬鹿だ!?こんな物騒な森に入ってくる奴は!)
エリオが見ている方向から藪の揺れが近づいてくる。
そして、何かが飛び出してきた。
「あうっ……!」
少女である。見た目から推測するに十五歳程度だろうか。
ボロボロだが位の高そうなドレスを身に纏った可憐な少女が、黄金の長い髪を激しく揺らしながら地面を転がった。
少女は身体を奮わせながら顔を上げる。それと同時に飛び出してきたのは人間の三倍以上はあろう大きさの〈魔界狼〉だった。
魔界狼は少女の上に覆い被さるように四つん這いになる。
血のように赤い眼は倒れた少女に向けられ、鉄の鎧をも貫通する牙が並んだ口が開いた。
「あ……あぁ……!」
少女は目をつぶる。
圧倒的な体格差をはね除けるなど、非力な少女にできるはずもない。
もはや、少女に待ち受けているのは死だけだ。
――この場にかつて“英雄”と呼ばれた男がいなければ、の話だが。
「〈三連雷撃鎖〉」
三本の鎖が魔界狼に巻き付き、強烈な電撃を流し込む。
「グギャウゥゥッ!」
弾けるような音と光が共に魔界狼の身体をほとばしる。
だが、それだけでは屈強な魔界の魔物を仕留めきる事はできない。エリオは岩から飛び降り、手のひらに集中させていた魔力を握りつぶす。
〈断罪の千本槍〉
弾けた魔力は無数の光の槍となり魔界狼の身体を貫いた。
「ギャァァアアア!!」
おぞましい叫びをあげ、魔界狼の身体が傾く。
そのまま倒れられては少女が下敷きになってしまうと気づいたエリオは前に踏み込み、魔界狼の顔に向かって至近距離で魔法を放った。
「ぶっ飛べ!」
〈火炎爆破〉
激しい爆発が魔界狼を吹き飛ばす。そして木に叩きつけられた魔界狼は、舞い散る木葉を全身に浴びながら倒れた。
エリオは魔物が完全に絶命したことを確認してから、未だ目をつぶって震えている少女に近寄る。
「……おい」
「うひゃぁああ!?」
全身をびくんとはね上げながら悲鳴をあげた少女は、飛び上がるように立ち上がった。
「だ、誰ですのあなたは!?魔物は!?魔物はどうなったんですの!?一体何がどうなったんですのォ!?」
「ギャアギャアわめくな。いったん落ち着け。魔物は……ほら、あそこだ」
エリオが指差した方向を向いた少女は、さっきまで自分を襲っていた魔物が巨大な肉塊に成り果てている事に目を剥く。
「あんな大きな魔物をいとも容易く……!あ、あなたは一体何者――」
少女は再びエリオの方を向き――息を呑んだ。
「深い赤髪に、同じ色の瞳……その出で立ち……まさか……まさかあなたは、エリオ・ルーングレイス!?」
(あークソッ、気づかれたか。面倒くせぇ……)
エリオは誰もが見れば恐怖する“大罪人”だ。顔を見られれば正体がバレてしまうほど、悪い意味で超がつく有名人である。
声をかける前に何らかの変装をしておくべきだったと後悔したが、もう遅い。
(どうする?ちょいと記憶をいじることくらいならできるが……それから外に放り投げとけばいいか……?)
などと思考しているうちに、エリオはある事に違和感を覚えた。
それは少女の、エリオを見る眼である。
王城を焼き、国に反乱した“大罪人”に向けられる大衆の眼には、決まって同じ感情が含まれていた。
恐怖、失望、軽蔑。
それ以外の感情を忘れてしまいそうになるほど、エリオは数えきれない負の感情を向けられてきた。
しかし、どういう訳だろう。
エリオが助けたこの少女は違う。
ボロボロながらも育ちの良さそうなこの少女は――
一人で魔物彷徨く森の中に入り込んでいたこの少女は――
「これは……チャンスではありませんこと!?」
――“大罪人”を目の当たりにして、何故か眼を輝かせながらガッツポーズをしていた。
「エリオ・ルーングレイスさん!“大罪人”であるあなたに、お願いしたい事がございますわ!」
「お、おぉ……?」
妙にパワフルな勢いに押されてエリオがたじろいでいると、少女は素早く膝をつき――綺麗な姿勢で土下座した。
「わたくしを、誘拐してくださいまし!」
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