『元』4号室(1764字)
小林春馬はびっしょり汗をかいていた。季節は5月、別段暑いからではない。築50年の木造ボロアパート、その2階の5号室。その隣の部屋から、聞くもおぞましい女の声が聞こえてきたからだ。
「出て行け……出て行け……」
春馬は別段臆病ではない。むしろがさつだった。ごみ捨ての決まりは守らず、近隣住民と絶えずトラブルを起こす。そんなちょっとしたクズだった。だがその春馬でも、恨めしげで怨念のこもった女の声には、心底震え上がってしまった。まるで異界の住人に見えざる手で心臓をつかまれたかのようだ。恐ろしい。単純に恐怖した。
もちろんこれが単なる4号室住人のものなら、春馬はいつもどおり怒鳴り込むだけである。うるせえこの野郎と、威嚇して大人しくさせるだけだ。だが違う。いないのだ。
4号室には、誰も住んではいないのだ。
アパート管理人の木畠は、かつて4号室に入っていた女性が首吊り自殺をしたことで、この部屋を閉鎖してしまった。もとより「死」を暗示する番号である。木畠はまるで女の地縛霊が出てこないようにとばかり、ドアも、窓も、すべて閉鎖してしまった。分厚い板を取り付けて決して外れないよう釘を打ち込むなど、念の入れようは執念じみていた。こうして『元』4号室は無人の空間となったのだ。
その4号室から、「出て行け」との女の声が響いてくる……
春馬は部屋にいられず外出し、ネットカフェで一夜を過ごした。寝不足で帰り、直下の1号室――木畠管理人の家に怒鳴り込む。木畠は老人で腰が曲がっていたが、大柄な春馬にも物怖じせず対抗した。女の声など聞こえるはずがあるまい、あそこは閉鎖された空間で誰も入ってはこれないのだから。木畠の正論の前に春馬はどうすることもできず、未払いの家賃を催促されてほうほうのていで退散した。
こうなったら証拠集めだ。春馬はパチンコで軽くなった財布からなけなしのお金をはたき、電気店でICレコーダーを購入した。女の声を録音しさえすれば、あの頑固老人もこちらの話を信じるだろう。そう踏んだからだ。
それにしても汗がまとわりついて気持ち悪い。このアパートは風呂のついた広い1号室と2号室が1階にあり、2階は風呂なしの部屋が4つ並ぶ。1号室の真上が3・4号室、2号室の真上が5・6号室だった。春馬は収入不足と乱費の多さから家賃の安い2階の狭い部屋を借りていたのだ。おかげで汗を流すには近所のコインシャワーを使わねばならなかった。
いや、今は汗などどうでもいい。女の声を録音するのが先決だ。見事成し遂げ、木畠のじじいに聞かせて納得させるんだ。うまくいけば払っていない家賃の免除を取り付けられるかもしれない。
かくして夜が来て、春馬は女の声を待った。重苦しい静寂の中、時計の針は午前1時を回る。誰も彼もが寝静まっている時刻だ。
そのとき、来た。
「出て行け……出て行け……」
春馬はICレコーダーを作動させた。よし、上手くいっている。春馬は深甚たる恐怖にとらわれながらも、音量バーの増減で、この声が自分の幻聴ではないと確信できた。
と、そのときだ。隣の『元』4号室の空間から、「ぎゃあっ!」との声が聞こえたのだ。今の声は、まさか……! 春馬は急いで外に飛び出し、とある部屋のドアを猛烈に叩いた……
翌日、1号室の管理人木畠の死体が、彼の部屋で発見された。春馬は警察官に事情を説明し、中を見せてもらう。1号室は天井の右半分が取り外しできるようになっていた。木畠が2階――4号室の空間に届く脚立の上から転落し、首の骨を折って死んだという話は、どうやら本当らしかった。ラジカセと、女の声で「出て行け……」と繰り返し録音されたカセットテープも同時に発見されたという。
そう、木畠は3号室や5号室に入居した客が、家賃を支払わなかったり悪質な行為を繰り返したりしたとき、追い出すための仕掛けを発動させていたのだ。すなわち、脚立の上にのぼり、ラジカセで女の声を流す、という仕掛けを。
管理人の後任は春馬へのお詫びとして、今までの未払い家賃を求めないこととした。春馬は一挙に悩みの種が吹き飛んだと、意気揚々と毎日を過ごした。
だが、ある日。今度は聞き覚えのある老人の声が、『元』4号室から聞こえてきた。
「出て行け……出て行け……」
春馬が逃げるように引っ越しをしたのは、その二日後のことだったという。




