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第九章

大変遅くなりましたことをここにお詫び申し上げます。

「ぃぉ…」

 藤沢がためらう様に、口を開きすぐにとじた。

 抱きしめる体制のまま、僕は藤沢の肩口に顔をうずめた。藤沢の服に僕の涙がしみてしまったが、気にしたそぶりは見せず、背中に回していた手を首に回してさらに強く抱きしめてくれた。

 まだ、現実を理解する勇気と話す気力を持ち合わせることができない。

 藤沢も僕の肩口に顔をうずめた。じんわりとそこから熱が伝わった。僕が取り乱したことで藤沢を泣かせてしまったことに気づき、余計に涙が出てきた。

「藤沢、ごめんね、僕が…こんなだから心配かけて」

 幼子のように、拙い言葉しか出てこない自分に嫌気が差す。少しでも気を抜いたら、声を上げて泣き出しそうで、思わず唇を噛んだ。

 今まで僕が見つめていた遠くにあったはずの死が、目前まで迫っている。

 よく分からなかった。でも、直感でそう感じた。

「僕はもう、死ぬ…?」

 おもわず口から考えていたことがこぼれた。藤沢が顔をあげて、驚いたように目を見開いた。静かに透明な線が頬を伝った。

 僕はまた、自分のことじゃないように落ち着いている。

「藤沢、ごめん。よく聞いて」

 不安げに小さく頷いた藤沢を見て、僕は、自分が気づいたことを一つずつ話す決意をした。

「僕は、もう君の声が聞こえにくくなって、る。なんでかわかんないけど。で、なんとなく。ホントはそんなことないと思いたい、けど、もしかしたら。姉さんも同じだったのかもしれな、い」

 どういうこと?と言いたげに首を傾げた。

「姉さんが、死ぬ前、僕の言ったことを何度か聞き返してきたことがあったんだ。だから、僕の言ったことが聞こえてなかったのかも」

 姉さんが眠る直前、僕にたくさん言葉をくれたのを思い出した。それと一緒に、約束も思い出す。

 藤沢が表情を消す。それと同時に抱きしめた腕の力を緩めた。それに気づいた藤沢も、腕の力を緩めた。そっとくっついていた体を離し、お互いの顔を見つめた。

 小さく藤沢の唇が動いた。空気がわずかに揺れたのがわかったが、その言葉を聞き取ることはできなくて、さっき感じた恐怖がさらに増した気がした。

「…っ!」

 いきなり藤沢が僕の頬を掴んで引き寄せた。唇に柔らかい感触。ぶわっ、と顔に熱が集まっていくのがわかり、藤沢の顔をまともに見ることができなくて目をそらした。けれど、そっと頬に手が当てられ、顔を背けることができなくなる。

「藤沢…?」

 思わず聞くが、彼女は何も言わずに僕の目を見つめ続けるだけだ。ぐっ、と顔を寄せられ心臓が音を立てた。

「すき」

 一瞬、心臓が止まったのかと思った。間近で聞こえた藤沢の声に、驚いたのもそうだが、内容に一番驚いて、息が止まった。

 僕は、もう、彼女の声が、言葉を聞くことができない。ほんの少しだけ進んだ未来には、僕はいないから。もうその未来で藤沢と、言葉を交わせないことに気が付き、高揚した気分が一気に下がっていくのがわかった。そして、一つの考えにたどり着く。

「藤沢…、ううん。…夏澄、好きだよ。ちょー好き。めっちゃ好き。もう、訳わかんなくなるくらい大好き」

 ずっと、呼んでみたいと思っていた名前。彼女の名前は口にするだけで、じんわりと幸せを感じる魔法が込められている。

 頬に添えられた手が、じわじわと熱を持っていくのに気が付き、こちらも少し恥ずかしくなってきた。

 けれど、ここで恥ずかしがっていられない。

「ほんとだよ。嘘なんかじゃないし、誤魔化してるわけでもない。本当に大好きだよ、夏澄。愛し…。んっ!?」

 突然夏澄が僕の口をふさいで、ベッドに押し倒した。

「言わないで」

「?」

 声?

「言わないで…!お願いだから、『愛してる』だけは言わないで!」

 灰色じゃな…い?

「私が…もう、我慢できなくなっちゃうから。伊織くんがいなくなることに耐えられなくなっちゃう、から」

 僕の頬に涙を落とす夏澄に、戸惑いを隠せなかった。夏澄の言葉に驚いたのもそうだが、色が見える?

「あ」

「まだ、まだ一緒にいたいの…!」

 夏澄の髪が、青い…?

 夏澄の言葉に耳を傾けてはいるが、僕はそれを聞いて喜ぶほどの余裕がなかった。けれどそれは焦りからではなく、言い表せぬ幸福を感じたからだ。

 なんだか皮肉だ。死にたくないのに、もうすぐ死にそうな今を喜んでる。夏澄と同じように僕だって、僕だってまだ一緒にいたい。だから、今この状態が…ずっと、ずっと続いてほしい。

「僕も…一緒にいたい」

 思わずそう言うと、夏澄は驚いたように目を見開いた。

「え、聞こえて…?」

「うん。夏澄…僕、今、また君の声が聴こえるし、君の髪の色が、青色が見える。姉さんの最後と同じ…で」

 声が震えないように努力したが、結局声は震えて無理やり絞り出したようになった。

「まだ、僕は死にたくない…。君と、夏澄と一緒にいたい!でも、なんで?どうして…この、こんな病気になっちゃったの…?」

 これこそ、幼子のように駄々をこねるようなことしか言えなかった。

「……」

「やだ、嫌だ。まだ、もっと、夏澄と一緒にいたい。死にたくない」

 情けない。

 そんなこと心のなかではわかっているのに、ぼろぼろ弱音がこぼれていく。ただ、心に浮かんだことがそのまま言葉になっていく。

「夏澄。かすみ…好きだよ。大好き、本当に、本当に…大好き」

 嗚咽混じりでほとんど何言ってるのか分からなかったかもしれない。でもこれは勝手に溢れた言葉じゃないから、聞こえていてほしいと願うのは変だろうか。

「伊織くん…、私も、伊織くんのこと好き。大好き!だから、もうちょっと、だけ」

 する、と伸びてきた夏澄の手が、僕の耳を撫でた。

 思わずびくりと反応すると、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔をよく見ると、頬が赤く色づいている。少し視線を上に向けると、黒の中に青が混ざった髪色がきれいで見惚れた。少し視線を動かすだけで、色々な情報が交差するのがきれいで、一心に視線を彷徨わせた。 艶やかな唇に視線が向いたのと同時に、引き込まれた。

 思わず、というか夏澄も同じことを考えていたようで、柔らかく唇が重なる。

 何度目かの甘い感触に、未だ慣れない。でも、慣れたくない。それを口実に…また、なんて。

「大好きだよ。かすみ」

 唇を離し、そのかわりに額をくっつける。彼女の名前の音を忘れないように、ゆっくりと口にした。

「伊織くん、私も…大好き」

 幸せを噛みしめるように、絶望を感じないように、嬉しそうに笑って、悲しそうに涙をこぼした。

 額を付けたまま、夏澄の目を見つめる。

 茶色のきれいな瞳だ。

 じっと見つめているからか、だんだんと視界がぼやける。

「…?」

「伊織くん?」

「なん、かすごくねむい…」

 突然ぼんやりした視界に、戸惑いを隠せない。まぶたがすごく重くて。眠い。

「全然眠くないのに、ねむくて、」

「…大丈夫だよ。今日の伊織くんちょっと疲れてるんだよ。ね。だから、ゆっくり寝ていい、よ。っ…」

 何かに気づいたような夏澄は一瞬驚いたような空気をまとったが、すぐにいつものように微笑んで、嗚咽を漏らした。

 眠気のせいで、夏澄の涙を拭ってあげたかったけれど、動く気になれなかった。

「僕、まだ寝たくないよ。まだ、夏澄といたいもん。だからまだ寝ないの」

 自分でも幼稚園生のような喋り方になっているのが分かるが、思ったことがそのまま口に出てきてしまうから、黙ることも叶わない。

「うん、うん。でも…大丈夫だよ。伊織くん。今日はもう寝ちゃっても、また…明日、あえっ、るから。だから、もう、今日は寝ていいよ」

 真意を読み取れぬ笑顔で頭を撫でてくる夏澄の姿が、逆に僕を不安にさせた。でも、眠気に抗えなくて、まぶたが落ちていく。

「―」

 声も掠れた。でもこれだけは言いたい。だからもうちょっと。

「かす、み」

 視界から色が溶け始める。それに驚きはしたが、なんとなく察していたらしい。動揺はせず、夏澄の瞳を見つめた。灰色になっても、きれいな瞳だ。

「かすみ、大好きだよ。それと、その髪の色…すごくきれいだね」

 僕の声は夏澄にやっと届くくらい小さかったけど、ちゃんと聞こえてくれたみたいだ。

「ありが、とう…!」

 泣きながらでも、驚いて嬉しそうに笑った。

「おやすみ、伊織くん」

「おやすみ、またあし、たね。夏澄」

 眠気が押し下げたまぶたが閉じる前、ずっと見たかった光の反射で美しく青く輝く、きれいな黒を見た。


 ずっと灰色の世界で過ごしていた僕の最後の夏に差した、きれいな澄んだ色。その色は、僕の灰色だった世界を虹色に染め上げてくれた。

 ずっと、この虹色の世界が続くよう、何度も願った。

 だから、きっとまた明日、も。


「伊織」

 姉さんの声が、聞こえた気がした。

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