第六章
ふたりとも何も言わずにわたあめを食べていて、空に灰色の光が増え始めたことや、人の姿が多くなり始めたのに、気が付き別の屋台を回っていこうと提案した。何も言わずに手を伸ばすと嬉しそうに握ってくれた。
僕の手より小さなそれに、心臓が変な音を立てた。ただ、それに気づかないふりをして、藤沢の食べたいと言ったものを、買いに一緒に歩く。
人の多さの割に、この場所の音が聞こえないのが惜しいと感じた。
僕がこんな病気になっていなかったら、藤沢と正真正銘同じ時間を共有することができたと思うのに…。今はただ、
横にいるだけだ。
それがどれだけ虚しいことかは、僕以外に姉さんにしかわからないだろう。
少し感傷的になっていると、ぐいと手を引っ張られ危うく転びそうになった。
「大丈夫?」
心配そうにこちらの顔を覗き込む藤沢の顔の位置が、低いことに気づき、自分が知らず識らずのうちに下を向いていたことに気がつく。
慌てて弾かれるように顔をあげると、目の前が一瞬彩られていた。―ような気がして、一瞬呆然とした。
数度瞬きをすると、いつもの灰色の世界で気のせいだと知り、少しため息をついた。
「ほんとに大丈夫?体調悪い?」
藤沢が不安気に眉を下げているのを見て、無理やり口角を引き上げた。
「あぁ、いや。大丈夫…ごめんね」
やはり僕の作り笑いは不自然だからか、未だに眉を下げていた。だが気にしないことにしたらしく、僕と目を合わせるのを止めてカラフルであろう灰色の屋台に歩いていった。
それぞれが自分の食べたいものを買い、花火が見やすそうな開けた公園を見つけた。
「そろそろ始まるみたいだよ」
藤沢の声に反応して、顔をあげると、空はもうすでに真っ黒に染まっていた。さっきまでは少し灰色が混ざっていたが、今はそれが入る隙もないほどだった。
横を見ると、瞳を輝かせ空を見上げる無垢な表情をした少女を見つけた。その輝いた瞳が見つめる先は、ところどころ白かったり灰色かったりして、光っていた。まるで少女の瞳はその輝きを吸い込んでいるかのようで、少しの間魅入った。
しかし、それは本当に瞬く間のことで、少女の空の輝きを吸い込んだ瞳が僕の光を灯さない灰色の瞳を覗いていたからだ。
ぼんやりとその瞳の奥を見つめると、目を輝かせた少年が映っていた。最初は誰かわからなかった。けれど、少しずつ思考が僕の行動に追いついてきた。
瞳に映った少年は、輝きを失ったと思っていた―
僕だ。
僕はそのことにものすごい衝撃を受けた。けれど、すぐに納得した。
僕は今まで灰色の毎日だった。色鮮やかな日々とは対照的な日々だった。でも、そんなこと考えていたのは、僕が自分を嫌っていただけだった。今は藤沢が隣にいてくれるから、少しだけ、前を向くことができる。
それがどれだけ大切なことか理解してる灰色の僕には、どれほど支えになるか。
ずっと前に瞳の輝きを失った僕が、それを取り戻している理由なんて容易にわかる。
そんなことを僕が考えている間にも、目の前の少女と―藤沢と見つめ合っていた。ふと、彼女の瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚え、顔を近づけた。
「ひっ、おり…」
唇に湿った空気があたったが、気にせず、間近の唇に重ねた。
「っ…」
藤沢のまつげがわずかに震え、わずかにそのまぶたも震えた。
「わっ…!?」
突然藤沢に胸を押され、数度瞬きをしながら、薄暗くてよく見えないが、赤くなった彼女の顔を見つめた。
少し目を伏せたまま藤沢は何も言わず、僕の方から目を逸らして空を見始めた。
そんな彼女に、なんで僕を見てくれなくなったのかと、少しムッとしたが、空を見れば理由はすぐに分かった。
「すごい」
「きれい…だね」
殆どの色が見えなくなった僕にも、それは綺麗だった。
真っ黒な空に打ち上がった、真っ白な光の花は、美しくも残酷に、僕が色の見えない世界で生きているということを見せつけた。
ただ、ただ虚しさが胸にこみ上げた。僕は悲しくなった。
藤沢と同じ場所にいるのに。藤沢の隣りにいるのに。藤沢と同じものを見ているはずなのに――
藤沢と同じ景色が見れないなんて。同じ感動を味わえないなんて。
少し、涙が出てきそうで、鼻がツンとしたけど、奥歯を噛んで目をつむって、我慢した。
落ち着いてきて、隣に置かれていた僕より小さな手を握った。すると、藤沢が少し驚いたようにこちらを見たが、嬉しそうに頬を緩ませた。
顔をすぐに空に向けてしまったが、今はしょうがない。ただ、虚しさはこみ上げるけれど、たしかに僕は今幸せなのだ。
また、幸せと思えたことに、更に不思議なほど、幸せと感じる。
真っ黒な空に、今度は赤い光の花が開いた。
赤い花は溶けるようにサッと白い花に変化した。
その色の変化を実際に見ることができれば、もっと綺麗なんだろうなぁ。なんて呑気に何も考えずに思った。
――だってそんなはずがない。
今日は本当に調子がいいと思っているんだ。一瞬だけでも、色が戻って見えたんだ。だから、大丈夫だろうと思った。なんで?そうだ、そういえばなんで僕は色が戻ったように見えた?
『い、伊織!?私、私…今色が戻ったように見えたの!すごい!久しぶりに、伊織の顔がちゃんと見れた!この病気も、治るかもしれないね!』
心底嬉しそうに泣きながら、治るかもしれないと言った姉さんは―――。
霞んで消えかけた記憶がなぜか、今になってはっきりと輪郭を持つ。その記憶が、僕を締め付け始めた。
今日は気温が高いはずなのに、急に寒くなり始めた。息がしにくくなり始める。目の前も靄がかかったように、見えにくくなり始めた。
「…い、りくん…?、おりくん!?ねぇ、伊織くん!?大丈夫?!」
突然肩を強く揺さぶられた。
「っ…!?」
靄がかかった視界がはっきりとし始め、そこに藤沢の姿を見つけ、安心してため息をついた。安心して、視界が今度はにじんできたが、藤沢の着た灰色の浴衣を見て、涙がこぼれた。
「え!?ちょっと、どうしたの?ホントに…」
何かを察したのかもしれない。藤沢の顔がひきつっている。
「ははっ。はははっ…あっははは!」
何が面白いんだろう。なんでこんなに笑えてるんだろう。でも本当は面白いなんて一ミリたりとも思っていない。だって、こんな乾いた笑い方をしているんだから。
笑っている僕の気持ちを伝えるように、涙が溢れて止まらない。
僕が笑い声を出すたび、藤沢は肩をびくりと震わせた。僕も今笑いたくなんてないよ。この状況が、笑えるものなんかでないのもわかってる。実際に恐怖を感じている。
でも、なんでだろう。よくわからないけど、勝手に笑っちゃうんだよ。
その時僕は気が付いた。
あぁ、狂い始めた。
死にたくないのに、『死』が近づいてきてこわくなって、壊れ始めた。
もう視界の端に映る、白い光の花のことなんて僕ら二人とも覚えていないだろう。だって、今はそんなことを覚えている余裕はない。ただ覚えているのは、死に対する恐怖。
「伊織くん…!伊織くん!だいじょ、うぶ。私が…い、るから」
藤沢は、こんな時にでも優しい。少しでもこの狂った僕を何とかしようと、その場しのぎの言葉だけれど、優しく歪んだ笑顔を浮かべてくれる。その笑顔は、皮肉にも綺麗で、優しかった。
それが、その綺麗さと優しさが―
今の僕には耐えられなかった。
「うるさい!!」
「…っ!?」
「うるさいんだよ!そんな…!そんな表面上の言葉ばかりで気が済むわけがないだろ!!そんな無責任な、大丈夫なんて、必要ない!うるさい!!」
僕は目を瞑って勢いよく首を左右に振った。まぶたの隙間から涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「藤沢がいるからって、何が変わるんだよ!君一人いたところで、僕が死ぬことは何も…!未来は、何も変わらない!!」
さっきから寒気が止まらなくて、自分を守るように、自分を抱きしめるように、腕をつかんだ。恐怖も交じって、腕に爪を立てているのになぜか痛くなかった。涙もなぜか止まっていた。
「それは…!」
「違わないだろ?事実じゃないか…。ははっ。だって、僕はもう、本当にあと数日ぐらいに死ぬかもしれないんだし…」
「…っ!?」
驚いたように目を見開いた藤沢が、眉をひそめた。いきなりこいつはどうしたのだろう、と言いたげな目で僕の顔を見ていた。
「僕の視界に一瞬だけ、色がついたんだ」
「えっ、だったら!」
藤沢は嬉しそうに顔を上げた。きっと、あのときの姉さんと同じ勘違いをしてるのだろう。けれど僕はそれを否定するように、眉間にシワを寄せて首を振った。
「姉さんも僕と同じ状況になった事があるんだ。ねぇ、ここまで言えばわかるだろ?!こうなって少し経った頃に、姉さんは…死んだんだよ」
だから僕は…。苛立ちのままそう続けようとしたが、驚いてその先を紡げなかった。
「藤沢…?」
「ゃ、だ」
小さく頼りない声が、直接耳に触れた。背中に、声と同じく頼りない腕が回されている。それが不思議なほど暖かくて、さっきまで嵐のように荒れていた心が少し和らいだのがわかる。
ぎゅっと、藤沢が回した腕に力を込めた。そこからじんわりと熱が広がって、心を解した。
「前も言ったけど…本当は、怖いんだ。まだ僕は死にたくない…。だって、藤沢とまだ…一緒にいたい。手をつなぎたい。抱きしめたいし、キスだってしたい。でも、もうすぐそんなことができなくなる未来が来る。それが、嫌だ。藤沢と一時も離れたくない」
自分でも恥ずかしいことを言ってる自覚があるが、今喋っているのは僕であって僕じゃない。素直になりきれない僕の、素直な部分が今、代わりに全部話してくれている。
壊れ物に触るように、僕は藤沢の背中にそっと腕を回した。僕は何回自分に情けないな、と感じるのだろう。持ち上げた腕は重くて、ぷるぷると震えた。
「こんなこと言っちゃいけないのはわかってる。わかってるけど、言わせてよ」
藤沢が何を言いたいのかわからないが、言わせるべきだと思い小さくうなずいた。
「まだ…いかないで。まだ伊織くんは死なないでほしいの。こんなの我儘だし、叶わないのはわかってるけど、まだ、私は伊織くんといたい…」
何も言えなかった。ただ、僕は藤沢を抱きしめる腕に少し力を込めることしかできなかった。力を込めた腕の中で藤沢が僅かに身じろいで、少し体を離した。
「ごめんね。ごめんなさい。無責任なことばかり言って。もう、私は大丈夫」
あのときとは違い、藤沢は強くなった気がする。瞳を潤ませながら、まっすぐにこちらを見つめてくる。
それに引き換え僕はどうだろう。僕を心配してくれた藤沢に、意味のない八つ当たりをして、怒鳴って勝手に泣いて…。
僕も藤沢よりも強くならなくちゃ。近づいてくる未来は無情でも、今を生きていればきっと何とかなるだろう。根拠なんてないけれど、藤沢がいれば不思議なほど元気づけられるんだから。大丈夫。
いつも藤沢が言ってくれる言葉、一つ一つが無駄なんてことは全くない。むしろ無駄だと一瞬でも思った僕が馬鹿げてると思うほどだ。
「僕も…ごめん。さっきの僕のほうが、何かを言ったところで何も変わらないのにね」
ぽつり、小さくつぶやくと藤沢が嬉しそうに、しぼんでいた表情に色がつくように微笑んだ。
いや、実際に一瞬だけ色がついていた。
藤沢の顔しか見ていなかったから、彼女の頬が赤く染まっていたこと以外分からなくて、少し残念に感じた。
藤沢の髪の色だという青色は、どんなにきれいな色なのだろう。生まれてから一度も見たことのない色。正確には水色なのだけれど、ほとんど見たことがない。だから、この神様が与えてくれた少しの慈悲を有効活用できたらいいなって。
いつの間にか僕らの間には、ピリピリとした空気ではなく、ふとした瞬間に笑い出せてしまいそうなほど柔らかな空気になっていた。
「伊織くん。私ね、沙織さんみたいにはなれないけど、ずっと伊織くんが私に嫌気がさすまで、一緒にいてあげられるから」
少し表情を暗くして、けれど空気はそのままで藤沢が真面目につぶやく。
「伊織くんは未来は変わらないって言ったけどさ、自信があるってわけじゃないんだけどね。私がいれば、伊織くんの未来の結果は変わらなくても、過程は十分に変えられるよ。きっと」
ね?と照れたように笑う彼女は本当に、僕の心の黒い部分もすべて照らす太陽のようだ。
そっと目を閉じて、藤沢の体を再び抱き寄せた。彼女を抱きしめて一つ、僕は新たに決意した。
死に対する恐怖は僕の心にしっかりと根づいて残っている。けれど、だからこそ、藤沢と一緒にいられる残り少ない貴重な残り時間を、一生懸命に生きよう。
姉さんとの約束も守れるように。そして、ちゃんと誇れるように。
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