第二章
あの日から数日が経って、ようやく明日から夏休みに入るということで教室はスマホ片手に遊ぶ予定を考えている人で溢れていた。けれどそういう時は騒がしいはずなのに、僕の耳は順調に機能しなくなっているようだ。
「い・お・り・くん!」
彼女を除いて―。
「ぐぇっ…!」
後ろからいきなり抱き着かれ、カエルがつぶされたような声が出た。相手が誰かなんて見なくても分かる。僕にこんなことをしてくるのも、未だに声が鮮明に聞こえるのも、彼女だけだ。
「藤沢…。いきなり飛びついてくるのやめてくれる?」
後ろを見ながら言うと、からからと楽しげに笑う藤沢がいた。
「いや〜、伊織くんの反応が面白いからやめられない!」
無言で軽くにらんだが、けらけら笑う藤沢には全く効果はなかった。
「それより!一緒帰ろ?」
かわいく小首をかしげて笑ってくる彼女に不覚にも、少し嬉しく感じてしまう自分がいて恥ずかしくなり目をそらす。
「いいよ」
けれど、口から出たのは素直な返事だった。
学校の外に出ると肌を焼くような日差しと、暑すぎるような風に肌を撫でられた。
すでに見慣れた、灰色に囲まれた景色。慣れたとはいえ、見えないことに少なからず戸惑いはある。
「夏休みどっか行こー!」
「やだ」
藤沢の提案に即答で拒否したからか、心底不機嫌そうな顔をした。
「どうして?夏は高校生の青春だよ?アオハルだよ?楽しまなきゃ損でしょ?」
「僕は暑さに弱いんだよ…」
「あ…も、もしかして青が見えないから…?」
僕の答えと同時に、ずれたことを聞いてくる藤沢に苦笑した。確かに去年の夏も灰色をよく見ていた。それもあってあまり外には出たくなかったことを思い出した。それより、今年は今まで以上に灰色を見かけそうだ。
「え!?違うの?なんだぁ、よかった〜。だったらさ、どっかショッピングモールとか行こうよ!室内だから暑くないし」
買い物好きなんだよね。と続ける藤沢にそんなに僕と遊びたいものなのか?と不思議に思う。だが、藤沢の弾けんばかりの笑顔を見たらそんな考えはどこかに行った。
「まぁ、そんなのもいいのかもしれないね。もし暇だったら一緒に行こうか」
どこかに出かけよう。という提案に賛成した自分に少し驚いたけれど、彼女の人柄あってのものだなとも思ったりした。
「やった!いこいこ!!…そういえば、最近蝉がますますうるさくなってきたね」
彼女の何気ない、普通ならそうだね。で終わるような一言に背筋が冷えた感覚があった。今年は蝉が少ないのだと思っていたがそれは全くの勘違いで、僕の耳が蝉の声を聞き取れなくなっていたんだ。それもそうだ。思い出してみれば、母さんの声だって聞こえにくくなっていたじゃないか。気が付けば焦りで呼吸が乱れた。
「伊織くん?大丈夫?」
藤沢の声が聞こえた。耳元で話されてるわけではないのに、近くで聞こえる。なんでだ?待て、まずは落ち着け、僕。答えなきゃ藤沢に余計怪しまれる。このことがバレたら本当に面倒だ。
「あ、あぁうん。ごめん、えっと…そうだね」
「…っあ!そうだ、いつ行こうか?買い物」
僕の様子がおかしかったからか、彼女はわざとらしく話題を変えた。その気遣いがありがたい。けれど僕は殆ど上の空で受け答えをしていた気がする。いくら耳を澄ませても蝉の声は殆ど聞こえない。気がつけば近所の公園辺りまで藤沢と歩いてきたことに気がついた。
「そういえば藤沢、家ってこのあたりなの?」
前に公園で話したときはその場で別れたというか、僕が先に帰ったから、家がどっちの方かなんて全く知らない。僕は家に向かって帰っているが、彼女も同じ方向に帰っている。
「んー?私の家はね〜」
わざとらしく語尾を伸ばす藤沢を見つめていると、僕の家の前についた。
驚いたことに彼女は僕の家の隣の家の門扉に手をかけていた。
あ、そういえばちょっと前に隣に引っ越してきた子が同い年の女の子だって、母さん言ってたな。
「ここだよ!」
「あ、そうなんだ」
「反応薄いなぁ。まあいいけど」
そんなことを思い出したから、僕はあまり驚かなかった。だがそれがつまらなかったのか、少しだけ不満げな表情を浮かべて、頬を膨らませていた。
「あ。とにかく、買い物する日はまた連絡するね!結局下校中に決まらなかったし!」
制服のスカートをくるりと翻しながら、またね!と手を振り、いつの間にかいつものはじけるような笑顔で家の中に入っていった。
自然と手を振っていた事に気が付き、驚いて自身の手を凝視した。
…なんでだろう?彼女の明るい笑顔に引っ張られたのかな。
僕は家に入るまで自分の口許が緩んでることに気が付かなかった。
帰ってすぐに母さんにいろいろ体調や色、耳のことを聞かれたが、答えるのがどことなく面倒で適当に返事をして、自分の部屋に戻った。
薄暗い部屋を見て、朝から灰色の空を見るのが億劫でカーテンを閉めたままなのに気づく。僅かな苛立ちに任せて勢いよく開けた。
「へっ…!?」
「ーー!」
窓の向こうで藤沢が満面の笑みでこちらに手を振っていた。さっきまで感じていた僅かな苛立ちは、驚きでどこかに消えた。窓を閉めているので声はほとんど聞こえなかったから慌てて窓を開けると、暑い風が室内に入ってきたから思わず顔をしかめた。
「なんで?」
「やっぱり隣の部屋だった!」
僕の質問に全く聞く耳を持つことなく喜びをあらわにする彼女に、しかめた顔をそのままにしてしまう。そんな僕のことを見ても嫌そうな顔をせず、むしろ更に嬉しそうに笑った。
「これならいつでもお話しできるね。えへへ、うれしいな」
ここまで嬉しそうに笑われると裏があるように思えてしまうが、逆に藤沢に裏があるのかも疑問だ。
藤沢の提案で僕らは軽く雑談を始めた。風がそれなりに涼しくなったころ。来週の水曜日に二人の予定が合ったので、そこで電車に乗って少し離れたところにあるショッピングモールに行こうという話になった。近くに浜辺もあるらしい。
「買い物デートだよ!」
何て言う彼女の言葉はさりげなく流しておいた。そろそろ僕の家では夕食の時間が近づいていたので、そのことを彼女に伝え、
「じゃあまた来週の水曜に」
とだけ言い窓を閉めようとしたが、藤沢は意味深な言葉を残していった。
「私、いつも毎朝7:30くらいにカーテン開けてるんだ。じゃあ、また明日ね!大好きだよ!」
僕はその日、夢を見た。懐かしい姉さんの夢。あの日と変わらない、柔らかい笑顔で。その夢は、とても幸せで、気を抜けば姉さんとの約束を破りたくなる。でも実際は姉さんが怒るのが分かっているし、今は藤沢もいる。だからそんなことできるわけないけど―。
夢から醒め、ぼんやりとした意識の中、静かに目を開ければ見慣れた天井だった。ベッドから抜け出て、小さくため息をついた。最近姉さんの夢をよく見る気がする。
なんでだろう…。
最近あった変化を思い出してみれば、藤沢の存在だった。…藤沢は姉さんによく似てるな。
そんなことを思い、少し寂しくなった。けれどその寂しさは、7:00に設定していたスマホのアラームによるバイブの振動で散らされた。
「あ、やばっ」
僕の家では毎日朝食の時間が決まっていて、少しでも遅れると心配されてしまうため、慌てて階段を降りた。
「母さん、おはよう」
「あら、伊織おはよう」
母さんに軽く挨拶をして、すでに用意されていた朝食を食べた。
朝食を食べ、時計を見ると7:25だった。ふと昨日のことを思い出した。
『私、いつも毎朝7:30くらいにカーテン開けてるんだ』
僕は自室に戻ると何も考えないで、いつもはあまり開けないカーテンを開けた。すると、ベランダの手すりに頬杖をついた藤沢がいた。だから、無言でカーテンを閉めた。
さて、今日は何をしようかな?
さっき見たものは見なかったことにして、今日何をして過ごすかを考え始めた。
「ーー!!ーー!」
だが、窓の向こうから怒るような声が聞こえ、さすがにこれ以上無視することはできないので仕方なくカーテンを開け、窓を開けた。
「なに?」
「なんで無視するの―?!」
朝から元気な藤沢は、どうやらご立腹のようだ。まぁ、原因は僕なんだろうけど。
「朝はあんまり好きじゃないんだ。騒がしいのも。だいたい、外に顔を出せば、青色も緑も灰色で…」
そこまで言って僕は、慌てて口を覆った。心臓がどくどくと脈打つ音が聞こえるほど僕は焦った。そっと藤沢の目を見ると不思議そうに首をかしげながら驚いたように目を見開いていた。
だから朝は嫌なんだ。まともに頭は働かないから余計なことを口にする。
「ごめん、なんでもない。もう、ここじゃ話さない」
「あ、待って」
藤沢の焦ったような声を無視して窓を、カーテンを閉めて布団にもぐりこんだ。一応藤沢から連絡が来ても無視ができるように、スマホの電源も切った。
藤沢といると思ったことを何も考えずに言ってしまう。今までは特に気にすることがなかったが、今回ばかりはだめだ。確実に怪しまれた。藤沢はきっと僕が見えない色は青色だけだと思っていたはずだ。
また、まただ。また僕が自分で言う必要のないことをバラした。僕がこんなんじゃ、姉さんとの約束なんて守れやしない。
僕は小さくため息をついた。小さく息を吸って、大きく息を吐いた。
僕はだいぶ動揺していたようで、少し頭が冷えた気がする。あとで藤沢に謝らないと。直接会う勇気を僕は持ち合わせていないため、スマホの電源を入れた。
そこには大量の通知が…。なんてことはなく。一件も連絡が来ていなくて少し安心した。緑色のアイコンだったSNSはもうすでに灰色で小さくため息をついてアプリを開いた。
藤沢の連絡先を探していたが、やけに灰色が多い気がする。青とか緑系統のアイコンの人多かったっけ?
それに対して深く考えることはなく、藤沢のアイコンを見つけた。
【さっきはごめん。来週の水曜はちゃんと行けるから安心して】
自分の語彙のなさに少し情けなくなった。けれど返信はすぐに来て、文面からでも読み取れるほど嬉しそうだった。
「はぁ…」
特に気にした様子もなさそうで安心した。ついでで僕は何も考えることなく、最近の習慣になりつつある十二色相環の画像を出した。突然色が見えなくなることがあると分かったため、少しでも早く以上に気がつけるようにするために。
「…?」
こんな灰色まみれだったっけ。青、緑系統のほうが多かったのかな?
最初は驚きと動揺で深刻に考えることをせず、呑気に考えたがすぐにそれが違うことを理解した。
今度は紫が見えなくなってる。そのことに僕は緑が見えなくなったときと同じように、そのことに絶望し、恐怖した。けれど、以前のように喜ぶことはしなかった。
そのことに僕は少し安堵した。
変わらず投稿は不定期になってしまいますが、少しでも続きを楽しみにしていただけると嬉しいです。気軽にいいねやブクマ、感想などを送っていただけたら幸いです。




