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この国の新年には、太陽が上がる時刻に鐘が鳴らされる。それと同時に王宮では国王が聖杯にワインを注ぎ、聖職者が聖杯から小さなグラスにワインを注ぎ、王族がそれを飲み干していく。その手順を忘れないように書き記した小さな帳面をチェックしていく。
待合室にはまだ誰も来ていない。本来ならば夫婦揃って行動すべきところだが、早々に支度を終えたマリアは迎えにきた宰相と共にやってきた。もう誰もが第二王子夫妻が揃って行動するとは思ってもいない。
夜明けにはまだ時間があるが、待合室は煌々と明かりが灯されている。
騒がしい気配が近づいてくる。きっと第一王子夫妻だろう。帳面を閉じ、スカート部分に仕込まれたポケットにしまうと同時に扉が開いた。
「あ!あたしたちが一番だと思ったのにー」
立ち上がって挨拶でもしようかと思ったが、マリアを見た第一王子妃の顔を見て座り直した。
「なんで⁉ねえ!なんであんたがティアラを着けてるの⁉」
「それは母上のものの筈だ!」
詰め寄って来る二人に対して宰相がマリアの前に立つ。
「答えよ!なぜお前がそれを身に着けているんだ!」
「妃殿下の代わりに私が答えます。このパリュールは第二王子殿下が初夜の贈り物を何も用意していないとの事で、国王陛下がお詫びの意味も含めてお贈りしたものです」
第一王子妃テレサはずるいっ!と声を上げた。
「あたしはなんにももらってないのに!」
「間違えないでいただきたい、マリア様はれっきとした隣国カールスバーグの王女殿下。わざわざこの国に嫁いで下さったのですから」
「しかし母上のご遺品を」
「シュヴァーベン王室のお品であり、亡くなった王妃様の個人資産ではありません。王室のお品は国王陛下がお決めになる事。もっとも個人資産であったとしても王妃様にとってマリア様は義理の親子、身に着けてもおかしくありません」
「では、テレサだって!」
「挨拶一つ、満足に出来ない、公務に出せない妃に貴重な王室のお品を使わせる事は出来ません。そう、国王陛下が仰った筈です」
「あたし出来るもん!それにあたしの方がかわいいから絶対に似合うし」
マリアは声を上げて笑った。
「ああおかしいこと」
「何がおかしい」
「夜会などではいつもご一緒の方々以外と親しく会話出来る方がいないのに、国外の方にご挨拶なんて出来ないでしょう?あなたのその自信はどこからくるのかしら?」
「それはあたし、みんなから嫌われてのけものにされてるだけだもん」
「ええ、そうでしょうね。誰だって婚約者のいる殿方に言い寄るような人と親しくなんてしたくないもの」
「ひどいっ!あんたなんて夫に愛されてないくせに!」
わああ、と途端に泣き出すテレサを第一王子は抱きしめる。
「さっきから黙って聞いていれば、お前、テレサに向かって」
「その、お前ってなんですの?いつからわたくしの祖国、カールスバーグはシュヴァーベンの格下の国になりましたか?」
マリアは立ち上がり、第一王子ヘッセンの前に立つ。
「わたくしは側室腹とはいえ、きちんと認められた王女、あなた方に見くびられるような存在ではない筈です」
普段大人しいマリアがこのように楯突くとは思っても見なかったのだろう、ヘッセンは口をパクパクさせている。言葉にしたいが、出来ないのだろう。
「不愉快だわ。我が国の大使を通じて、カールスバーグに報告します」
カールスバーグが抗議するとはあまり思わないが、こういうのはハッタリが重要だ。
「なっ、なっ」
シャロンはこの男の婚約者だった。大きなトラブルにならないようずっと側でフォローしていたのだろう。シャロンだけじゃない。国が選んだ学友達もだ。誰かがフォローして当たり前の環境だったから、今も、誰かがマリアを諌めてくれる、マリアが謝罪し、ティアラをテレサに譲るべきだと叱ってくれると思っている。思わせぶりにヘッセンは宰相に視線をやるが、宰相はマリアの斜め後ろに控え、素知らぬ顔をしている。当然だ、この男はマリアがどのような覚悟でこの国に嫁いできたか、よく知っている。
「何事だ、騒々しい」
マリアの夫がやってきた。建前上の夫と、子供の父親という立場になる夫だ。
「父上!聞いて下さい!」
「宰相、陛下にご報告を」
ほぼ同時に口を開いた。しかしヘッセンが二声目を上げる前に宰相が口を開く。それを聞きながら、観察する。第二王子ヒンゲンもまた、マリアが身に着けているティアラが気になるようだ。
報告を聞き終えた国王フェッセンは「見苦しい」と言った。
見苦しいのはマリアだと思いこんでいるヘッセンはパッと表情が明るくなった。
「そうでしょう、かわいそうなテレサを虐めて、泣かせたんです」
「見苦しいのはそなただ、ヘッセン。祭事に参加しなくともよい、下がれ」
「父上!」
「まあ、当然でしょう。あなたの奥様、お化粧が無惨な事になってますわ、その格好のまま、神の前に立つのですか?」
グズグズとまだ泣いているテレサは、涙だけでなく、鼻水も垂らしている。そんな彼女を抱き寄せたヘッセンの衣装もまた、化粧がこびりついている。
「そ、そんな」
「時間だ」
第一王子夫妻は国王に付き従っていた近衛騎士達に部屋から追い出され、代わりに王弟一家、王妹一家が入室してくる。マリアのティアラに驚く王族はいない。知らなかったのは王子達だけだ。もう情報の共有すらされていないのだ。
他の王族たちと一緒に杯を受けながらマリアは決意した。
あの第一王子夫妻、王家から追い出してやる、と。
第一王子の妃という立場をシャロンから盗んだ女は、何も理解しようとせずティアラも同じように盗ろうとした。
第一王子はどれだけ恵まれていたのか理解していない。尽くされて当たり前だったから、これからも誰もが尽くして当たり前だと思っているのだろう。
長い一日を終え、湯に浸かりながら髪を洗ってもらう。早朝から始まった儀式に合わせて、身支度をしていたから、もうくたくたに疲れていた。そんな中、湯に浸かるのは億劫だが、一人で風呂に入っていた時と違い、今は何もかも人任せで、しかも自分でやるより丁寧だから、心地よい。すっかりこの生活にも慣れた。
「あの女、一体どれだけの男と寝ているのかしら?」
「はい?いかがされました?」
思わず考えている事を口に出してしまう。
いっそ、この侍女たちに探ってもらおうか、こういう情報は侍女たちの方が早く、正確だ。
「第一王子妃の事よ。夫以外にも肌を許していそうだと思って」
「何かございましたか?妃殿下はあまりご興味なさそうでしたのに」
「そうね。あの二人も第二王子もその愛人も興味はないわ。だってそうでしょう?十年後にはもうこの王宮にいられなくなる人だもの」
はっきりとは誰も言わないが、マリアが子供を産み、無事、成長すればいらなくなる人材だ。
「基本、何もしないつもりだったけど、気が変わったのよ。第一王子妃に言われたの。ティアラを頂いたわたくしがずるいとか、自分の方が似合ってるとか。不愉快だったわ」
ティアラを所持するだけなら、金銭さえ折り合いがつけばいい。しかし公式に頭に載せるとなると、話が違ってくる。あれは国の為に生き、万が一の事があれば、国の為に死ぬ覚悟がある女に許されたものだとマリアは考えている。
マリアはこの婚姻が決まるまでは、どこかの貴族の後妻になるものだと思っていた。重要視されない生まれと、平凡な見た目故に。もしかしたら粗末な生活になるかもしれないが、ティアラとは無関係の責任も何もない暮らしだ。
だからこそ思う。贅沢な暮らしを許されるようになったのだから、それに見合うだけの国への奉仕と責任を持たなければならない、と。
夫に顧みられず、この国にも捨ておかれるなら、奉仕の気持ちなどもてないが、贅沢をさせてもらっているし、装飾品はあのパリュールだけでなく、新年にとエメラルドのイヤリングも与えられたし、ドレスもかなりの枚数を仕立ててもらっている。
ティアラが容姿に似合うかどうかなんてあまり意味がない。国の為に生きる覚悟に対して見合うかどうかだ。
婚約者のいる男を盗んだ女が、同じ気分でティアラをも盗ろうだなんて、マリアには許せなかった。
「え、あの女、妃殿下にもティアラをねだったんですか?」
「そうよ」
侍女も尊敬の気持ちがないのだろう。自国の妃をあの女呼ばわりだ。
「ありえないわ」
深く溜め息を吐いたのはキュリー夫人だ。
「妃殿下、ではあの者を王家から追い出す気に?」
「そうよ、ほら、あの取り巻き達、やけに距離感がおかしくないかしら?仮にも自国の王子の妻よ?髪やドレスの裾に触れるのも信じられないのに、ダンス以外にも腰に手をやるだなんて」
「ええ、男女の関係があってもおかしくないですよ!」
女官や侍女は元々貴族の出身だ。身なりを整え、教養を身に付ける事と同じように、同世代と競い合い、時には同じ目的の為に徒党を組み、時には追い落としあう。マリアも似たような育ちだ。王妃腹と有力貴族出身の側室を母に持つ王女達はマリアの存在などなかったように振る舞う。が、似たような身分の側室の娘達は、少しでも自分達母子の待遇の為、足を引っ張り合った。その頃の事を思うと今の生活は恵まれている。経済力があり、だいぶ気心の知れてきた女官侍女がいて、宰相の直属の部下も、近衛騎士の上層部だって、マリアに親切だ。
「知りたいわ。あの第一王子妃の周辺の事」
にんまりと笑う侍女、好奇心に目を輝かせている侍女、そして憂鬱そうな女官。
「忘れておりましたわ。妃殿下、退屈されておいでですね?」
いいえ、と否定すべきだったが不愉快な気持ちと同じ位退屈を感じていた。二人の王子の婚約破棄、それに伴ういくつかの結婚や左遷。さぞ様々な企みごとが渦巻いているだろうと思っていたが、大人しいものだった。若い淑女を牽引してきた二人は王城から去り、その後釜に居座った女は評判悪く浮いている。第一王子夫妻の取り巻きの男たちは皆、婚約者持ちだが、何年も婚姻の日取りを先延べしている状態。その婚約者達も何も行動にうつそうとせず、不甲斐ない。社交界デビューしたての若者たちは、目立つとろくでもない事に巻き込まれると大人しくしている。社交界は今ひとつ華やかさに欠けていた。
「少しね。だって皆様、よくして下さるばかりで、ありがたいけど、ちょっと物足りないの」
「不愉快な事は事実でしょうけど、だからといって、この国の王子妃ですよ?醜聞に塗れてもよろしいので?」
「あら。駄目だったら諦めるわ」
しかしまだ子供を産んでおらず色々と評判の悪い妃だ。マリアの企みごと程度、見逃されるだろう。
「失礼します。妃殿下、陛下が今宵、いらっしゃいます」
侍女が一人浴室に入って報告した。
「え、今夜?」
「あら、大変、急ぎましょう」
まだ湯に浸かっていて、髪を洗ってもらっていたところだ。大急ぎで残りの工程を済ませ、浴室を出た。寝間着は夜伽がある時用のレースがたくさん使われているものが出される。
髪の水分を拭ってもらいながら、浮腫んだ足のマッサージをしてもらう。これも結婚によって覚えた贅沢の一つだ。以前ならば自分で揉んでいたが、今は香りの良い専用の油を塗り込みながらのマッサージだ。
「なにか騒がしいわね」
「様子を見てきます」
男の声がした。廊下から離れているのに聞こえるとは、かなり大きな声を出しているという事だ。
ここは第二王子に与えられた離宮だ。第二王子とは生活空間も離れている。国王と鉢合わせするのは、確率的に低い筈だったが。
声が段々と大きくなり、キュリー夫人の制止する声も聞こえてきた。
いつぞやのように扉が音を立てて開いた。
「ティアラはどこだ!」
第二王子ヒンゲンだった。
「何事ですか、こんな夜中に」
「ティアラをよこせ!」
マリアの前に侍女が並び、壁になる。それを強引に通ろうと侍女を押しのけたが、勢いが付きすぎたのか、侍女と共に床に転がった。侍女は自力で起き上がったが、ヒンゲンは起きなかった。
「大丈夫?ひねったりしていない?」
「ええ、大丈夫です」
「生きているのかしら?それ」
「生きてます。あの鼾が」
「気の所為かお酒の匂いが」
「呆れた」
夜明け前からの祭事の為、かなり前より起きていた。寝不足の上、酒を呑み、気が大きくなってマリアの部屋に来たのは良いが、転んでそのまま寝てしまうとは、危機管理がなってないと言うべきか、平和な育ちだと感心すべきか。
そこへ男が一人やってきた。
「何があった」
鉢合わせしなくてよかった、と誰もが思っただろう。
「ティアラをよこせと騒いで転んで寝てます」
簡単すぎる説明だがそれ以上に言うべき事がない。
「……愚かな、廊下に放り捨てろ」
「お待ちになって。ええ、もしかしたら好機かもしれません」
マリアは夫以外の男の子供を産むが、夫には自分の子供だと思わせた方が何かと楽だ。
「好機?」
「行為があったと思わせるのです。単純そうな人ですから、案外あっさりと騙されてくれるのでは?」
ヒンゲンに近寄ってみると、起きる気配はない。よく眠っているようだ。
「衣服を乱して、わたくしが泣き真似しましょう。そうね、出来れば子種を出した形跡でもあればよいかしら?」
キュリー夫人の方を見ると心得たとばかりに頷く。数人でヒンゲンをベッドに移し、衣服を脱がした。キュリー夫人の動きはよく見えないが、何をしているか大体の事は分かる。侍女達は興味津々に覗き込んでいる。
「若いあなた達が見てよいものではありませんよ」
注意するが誰も動こうとしない。普段ならきちんと指示に従うのに。
「やはりそなたの侍女だな。そなたの悪影響を受けている」
「ま、ひどい」
フェッセンもマリアに対して遠慮というものがない。
やがて小さく感嘆の声が上がった。
「夫人、お疲れ様です」
侍女の差し出した布巾で手を拭い、キュリー夫人は「お酒を召されているので、無理かと思いましたけど」と言った。
マリアは自分の寝間着を見た。結構高そうなものだが、乱暴されたと思わせる為だ。引き裂こうとしたが破れず、フェッセンが代わりに破いてくれる。釦がいくつか飛び、侍女が拾い上げ、ヒンゲンの脱ぎ散らかした衣服のポケットに突っ込んだ。
「うふ、洗濯係、驚くでしょうね」
「じゃあ、レースもどうかしら?」
侍女の一人がマリアに失礼します、と声かけてレースをちぎった。
「妃殿下の口紅もつけましょうか?」
「ええ、やりすぎじゃない?今、お化粧していらっしゃらないし」
「そんなの気づかないと思います」
「そういえばあの愛人、いっつも左の首筋に口づけの痕、自慢げに見せびらかしてますよね」
「そうそう、自慢のお胸と一緒に」
楽しげな侍女達にキュリー夫人は頭痛でも感じたようだ。気持ちは分かる。何故、侍女達はこんなにも悪知恵が働くのか。
結局のところ、ヒンゲンは何の疑いもなく、自分が酒に酔い、そのままマリアに乱暴を働いた、と思ったようだ。目覚めて状況に気づくと悲鳴をあげた。その声で、閉じられた帳がキュリー夫人によって開けられ、再度、悲鳴を上げた。慌ただしく衣服を身につけ、誰にも言うなよ!と叫んで出ていった。
「泣き真似する間もありませんでしたね」
「ええ、こんなにうまくいくとは」
水を含ませた海綿をキュリー夫人に渡しながらベッドから降りる。
「どうかしら?もし身籠っていたら、自分の子ではない、と騒ぐに違いありませんから」
「ええ、そうですね、産み月の多少のずれはよくある事です」
もしごまかせないようならば、今回のように酒でも薬でも盛ればいい。
正直なところ、別にヒンゲンに自分の子供だと思わせなくとも困りはしない。都合よく眠り込んでいたから利用させてもらっただけ。