第9話 新しいスマホ、古い記憶
それから一週間もしないうちに、月神が仁淀の屋敷にやってきた。その手には、新品のスマホが入った箱を携えていた。
「こちらが専用のスマホです。急ぎ発注した、市販品を改修した特注の品ですので、操作の違いはありませんが、セキュリティ上の理由で丹青様との連絡専用となります。このスマホを使っての他の方との連絡はお控えください」
玄関先で私は箱を受け取り、怒られやしないか冷や冷やしながら話を進める。
「ありがとうございます、月神さん」
「いえ、お待たせして申し訳ございません。丹青様もあなたと話をしたいとおっしゃっておられたと聞いています。まずは明後日の宮城行きまで、どうぞお楽しみください」
月神は別段嫌そうな雰囲気もなく、怒っているわけでもなかった。それが仕事だと言わんばかりだし、まだ他にも仕事があるらしくさっさと帰っていった。何をしているのかまでは分からないが、忙しいらしい。
私は自分の部屋に戻って、さっそく箱を開けてみる。新品のスマホというのは、見るだけでテンションが上がる。パープルゴールドの最新機種のスマホは、以前ネット広告で見ていいなと思っていた最上位機種だった。たった一人と連絡を取るためだけに用意するのは、オーバースペックというか、もったいなさすぎる代物だ。
起動して、初期設定を済ませて、プリインストールされているアプリを確認して、いくつか必要なアプリを入れて——とやっていたら、一つ、見たことのないアプリがあった。幾何学的な紫の花模様に、『り』と大きく文字が入っているアイコンだ。その下にはアプリの名前がある。
私はそれを起動して、最初のページの説明を読んでみた。
「えーと……専用チャットアプリ『りゅうたん』って……えっ、意味分かんないけど名前かわいい」
つまりメッセのようなもので、竜王と連絡を取るためだけに、わざわざ突貫で用意してくれたアプリなのだろう。ものすごい権力とお金の無駄遣いだ、と思わなくもなかったが、プライベートで竜王と連絡を取るためにはそういうことをしなければならないほどなのだ、とも思えて申し訳なくなった。
アプリにはチャット機能、メール機能、ファイル共有機能などなど色々あるようだった。使いこなすのはまた今度にして、すでにメールフォルダに入っている一通のメールを私は見つけた。
当然だが、このスマホにメールを送ってくるのは一人しかいない。だが——。
「んん?」
私は、目を疑った。
信じられなくて、すぐに元のスマホのメッセでひよりを呼んだ。大至急来て、今すぐ来て、大変だ、とメッセを送ったら、すぐに行くと返事が返ってきた。
ひよりがやってくるまでの一時間、私は虚無の顔をして過ごしていた。そうでなければ耐えられなかっただろう、そしてインターホンが鳴ったら即座に玄関へすっ飛んでいく。
ひよりを玄関から一番近い居間に通して、私は額を突き合わせて事情を話す。と言っても、竜王との連絡専用スマホと専用アプリをもらった、というだけのことなのだが、ひよりは真剣に聞いてくれた。
「それ、マジで竜王に繋がってるの?」
「うん。多分」
私の手には、パープルゴールドのスマホが握られている。画面はりゅうたんのメールフォルダ、まだ読めていないメールのタイトルだけが表示されている。
そのタイトルが、私にとっては重大すぎる文言だったのだ。私はひよりに見せようとする。
「でもさひより、このタイトルって……うーん」
「待って待って、他人が見たらいけなくない?」
「そうかもしんないけどさ、これだよ?」
私はひよりへスマホの画面を見せる。
たった一文、タイトルのそれを、ひよりの視線がなぞる。
『あのころの僕を知る君へ』
顔を上げたひよりは、何か言いたげだった。その気持ちは分かる、私だって同じことを考えている。それは、私が言い出さなければならないことだ。
「やっぱさ、昔、どっかで会ってたみたいなんだよね。なのに全然記憶になくてさ、それが何て言うか、罪悪感あるっていうか、本文読めてないから返事できてない」
未だ、そのメールは未読の文字が付いている。タイトルだけですでに内容が推測できてしまっていて、そして私は相手がどうしてそんなことを書いたのかが分かってしまっている。なのに、私は、彼のことを憶えていない。一度でも会っていなければそのメールのタイトルが書かれるわけがないのだ、会ったことがあるはずなのだ、だが、私はそれがどうしても思い出せない。
次代の竜王丹青が、妃に選ぶほどの理由となることのはずなのに、私にはさっぱりだ。そんな調子では、相手の思いの重さに、私は応えられない。重すぎる。
ひよりはちゃんと、それを察してくれた。
「昔、お忍びで仁淀に来てたのかもね」
「多分そういうことだと思う」
「で、人間そっくりに化けてたからりつかも周りも気付かなかった」
「うんうん」
「ありえるわー。そこでりつかに会って好きになって、今やっと」
「うわー、私がひどい女みたいじゃん」
みたいも何も、ひどいのだ。何せ、相手をその気にさせておきながら、相手のことをすっかり忘れているのだから。
ただ、まだ他の可能性も残っている。
私は縋るように、その可能性を口にする。
「もしさ、人違いだったら?」
さすがにこれは、ひよりも呆れていた。
「それは……ちょっと考えすぎでしょ」
「でもそうだとしたら、早いうちに誤解を解いとけば」
「待って待ってりつか、あっちも調査くらいはしてると思うよ。妃にわざわざ選ぶくらいだから」
「だから、それが記憶違いだったらどうすんの」
追い詰められた私は、むしろそうであってほしい、とさえ思っていた。
それはあまりにも不誠実だろうと思っても、私の記憶に丹青という竜と出会ったことは残っていない。綺麗さっぱり、思い当たる節がないのだ。それならばむしろ、間違いだったと早く分かってくれたほうが、互いに傷が浅くて済む。妃に選ぶほどの美しい記憶を汚してしまって申し訳ない、で済むのは、今のうちだ。
しかし、ひよりはもっともな言葉で私を制する。
「不安なのは分かるけど、本人に聞くか、本文読む以外、なくない?」
私は即答した。
「やだ」
「やだかー」
ひよりは読むように強制はしてこなかった。押し付ければ押し付けるほど私が頑なになると分かっているからだろう、さすがは幼馴染だ。よく知っている。
そこへ、弟の清明があくびしながらやってきた。ひよりを見つけて、眠そうな目が少し覚醒した。
「ひよ姉じゃん、来てたんだ」
「お、セイちゃん起きた? これからさ、たまに来ることになるからさー」
「何かあったらひよりを頼るんだよ。大人に頼れないことだってあるだろうし」
「分かってるって」
私の幼馴染となれば、弟も幼馴染のようなものだ。年が少し離れていることもあって、ひよりは弟の清明をまるで自分の本当の弟のように可愛がっている。弟をこの屋敷に一人残していくのは不安だが、仁淀の家の事情も何もかも熟知しているひよりが見に来てくれるなら少しは安心できる。
そこではたと私は気付く。
私もひよりも弟も、小さいころから皆一緒に遊んでいた。なら、地元民ではなくても、遊んだ相手のことを弟も憶えているのではないか。
「セイちゃん。昔、よそから来た子と遊んだことあるよね」
「うん、そりゃたまに旅行とか帰省してくるやつとかいるし」
「竜っていなかった?」
「りつか、そんな分かりやすくいるわけ」
「いたよ」
するり、と弟はさも当然のように言う。
「あれ、姉ちゃん、自分が仲良くなったって言ってたじゃん。そいつ、竜だったよ」
衝撃の発言に、私はひよりと顔を見合わせ、それから弟に詰め寄った。
「ど、どんな子だった?」
「えーと……あんまり外見は特徴なかったから憶えてない」
「セイちゃん、思い出して! 一生のお願い!」
「姉ちゃんそれ五回目だよ」
「いいから!」
今まで私が口にした一生のお願いの回数を律儀に数えている弟は、ちょっと鬱陶しそうにしていたが、何とか思い出してくれた。
ただ、だからと言って手がかりになるわけではない。
「人間の姿は憶えてないけど、白い竜だったよ。赤と黒っぽい青の斑模様が入ったやつ」
私はひよりとともにため息を吐いた。
そんなのと会っていたら、憶えているはずだ。憶えていないということは、私はその相手を竜と認識していなくて、竜の姿も知らないのだ。
結局、私は丸一日、メール本文を読めずに睨めっこしていた。
次回は11/8の05:00です。また見てゴリラ。