第5話 弟の健やかな幸せを願う
今の我が家は、定期的に来てくれていたお手伝いさんが夏休み中のため、食事の準備はすべて私がしないといけない。
ひよりとファミレスで散々飲み食い喋ったのち、私はスーパーに寄って適当に食材を買って家に帰った。昼すぎのことだ。蝉の鳴き声は山の麓に置き去りにされ、屋敷に辿り着いたころにはしんと静かになっていた。砂利を踏みながら自転車を押し、その音さえも大きく響く。私が帰ってきたことに気付いた弟の清明が、待ちきれないとばかりに玄関へ走ってきた。
「姉ちゃん、ご飯! 腹減った!」
「自分で作ればいいでしょ、もー」
「俺、家庭科の成績一だもん」
「威張ってどうすんの」
「何たって調理実習で俺が作った卵焼き食った友達がゲロ吐いたことあるし」
「最悪じゃん」
こんな弟を置いて結婚のため家を出ていかなければならないのか、と思うとやるせない気持ちになる。この不安を取り除くためにも、月神には私のいなくなった仁淀家をしっかり支援してもらわなくてはならない。
夏休み中の男子小学生というのは、タンクトップと短パンで生活をする生き物だ。そういえば最近弟のTシャツを洗濯していないと思ったら、暑いからと上はタンクトップだけ着るようになっていた。今もその格好である。それで人前には出るなとしっかり言い聞かせておかなくてはならない、と私は頭の中にある家を出る前にやることのリストに付け加えるが、昨日は昨日で友達と森に入るからと長袖と長ズボン着用だった。妙なところでしっかりしている、生前の父と仁淀の領内をよく散策していたから、野山の歩き方は教え込まれているようだ。
頼りになるのかならないのか、私は弟の将来を案じながら、台所で唐揚げを作る。昨日の夜から調味料に漬け込まれていた鶏肉はしっかり下味が付いていて、衣をつけて揚げるだけだ。遅めの昼食が食卓に並ぶころ、弟は自分のスマホを居間の充電器に挿してやってきた。
「ご飯だよ、セイちゃん」
「……唐揚げ?」
「えっ、何か気に入らない?」
「いやスッゲー食いたかったけどさ、こんなに食う?」
こんなに、と弟が指差した先には、食卓の上の山盛り唐揚げの大皿がある。
私は箸を渡し、さっさと席に着いた。もう二人暮らしとなったのだから、ちょっと作りすぎた気がしないでもないが、素直にそれを認めると思い出してしまうから誤魔化した。
「夜も食べればいいよ。育ち盛りなんだから食べられるでしょ」
「姉ちゃんの胃袋、ときどきひよ姉基準になるからなぁ」
「ラーメンを六杯も平らげる女子高校生基準にはならないよ」
ぶつくさ言いながらも、弟はさっそく箸を唐揚げへと運ぶ。嫌いではないのだ、男子小学生ならハンバーグとカレーと唐揚げは鉄板だろう。喜びつつも、ちょっぴり反抗期の気配が見え隠れするようになってきた弟は、しおらしくしていた両親の死去という異常事態から、少しは平常に戻りつつあるらしかった。
これなら、私の嫁入り話のことも告げていいだろう。どのみち早くしなければならなかったのだから、いい機会だ。
「あのね、セイちゃん。私、千千都にいる次の竜王に嫁ぐことになった。もう少ししたら、仁淀から離れるの。だから、これから仁淀の家はセイちゃんが守っていかなきゃだめだよ」
しばし、弟は私の言葉を理解できなかったようだ。無理もない、いきなり現実離れした話を聞かされて、小学六年生がすぐに分かったらびっくりだ。
口に入れていた唐揚げを飲み込んで、それから弟は確かめるように尋ねてきた。
「え? 姉ちゃん、お嫁に行くの?」
頭上の円形電灯の光がばちん、と一瞬跳ねた。もう古い家だから、ときどきそんなこともある。
弟は、嫁ぐという単語は真っ先に乏しい知識の中で理解できたことらしい。この話のもっとも重要なところだ。私は正直に頷く。
「うん」
「聞いてないんだけど」
「今言った」
「そうじゃなくて!」
「私だって行きたくないよ。でも、私が嫁げば仁淀の家は何とかしてくれるらしくてさ。中央から後見人が来て、セイちゃんを大人になるまで助けてくれるよ。私なんかよりも、ずっと頼りになるはずだよ」
弟は、父から家を継ぐのはお前だ、と教わっているはずだ。上位貴族たちは男女の別なく家を継ぐそうだが、世俗に近い下位貴族はそうはいかない。市井には男尊女卑の気風はまだ残っているし、家を存続していくためには、やはり力が強く行動力のある男性のほうが適任だった。私はそれに異論を挟むつもりはない、弟が嫌なら私が継ぐが、そうでないなら任せたいと思っている。
だから、仁淀家を継いで維持していくことは、弟も心構えはできているはずだ。本当はもっと選択肢を与えてあげたかった、でもそうもいかない。あまりにも、私たちには時間がなく、決断を迫られていた。
私は姉として、家なんかよりも弟を守らなくてはならない。家が弟のためになるのなら利用する、そのために私の嫁入りが使えるのなら使ってやる。
それを弟に懇切丁寧に聞かせるつもりはない。自分のせいで姉の人生が決まってしまった、と思わせるのは嫌だ。できるだけ、今はその話題を避けて、上手くこれからの話をしなくては。
私の望むとおりではないが、弟は自分なりに考えて、状況を把握しようとしていた。私はできるだけ答えようと、隠しごとはしないようにと努めた。
「父さんと母さんが死んだから?」
「んー……そればっかり、ってわけでもなさそう」
「どういうこと?」
「お妃選びって、その前から進んでたっぽいのよ。だから、父さんと母さんが死ななくても、この話は来てたと思う」
「そうなのか」
「今思えば、予定してた千千都旅行の話も、その一環だったのかもね。今まで家族旅行なんて行かなかったくせに、突然、島の外へ旅行に連れてってくれるって言うから、不思議には思ってたけど」
あくまでそれは推測にすぎない。父と母はもういなくなり、千千都旅行の真の目的は千千都に行けば知ることができるかもしれないが、今となってはそれは重要ではない。ただ、もし父と母が、すでに宮城から私を次の竜王へ嫁入りさせる話を打診されていて、私が選ばれたその理由を知っていたのだとしたら、早く教えておいてくれればよかったのに、と悔やむ。
私でさえ、なぜ選ばれたのか分からないのだ。弟もその点は不安だろう。弟だってミズチは知っていても、竜は知らない。竜王なんてテレビの向こうの話だ。突如その壁を乗り越えてやってきたおとぎ話のような存在との接点が生まれても、どうにも弟も受け入れがたいはずだから、できるだけそのもやもやを晴らしてあげたい、とは姉として思う。
もっとも、それは私も知りたい。どうしても、千千都へ行く前に知っておきたかった。
「まあ、嫁に行ったってセイちゃんに会えなくなるってわけでもないし、この話は受けるよ。そしたらさ、父さんも母さんも安心するでしょ」
明らかに、弟は納得と抵抗の狭間で迷っていた。受け入れたくない、だが現実は子供のわがままを聞いてはくれない。
せめて、姉を困らせまいとしたのかもしれない。弟は真剣に、私を心配してくれた。
「嫌だったら逃げていいからな」
「逃げられたらね」
「竜ってがおーって、おっきくて、山にいるやつだろ? それと結婚って、想像つかないんだけど」
「うん、本当に何するんだろうね? どう考えたって結婚って、形だけっぽいのにさ」
そう、そもそも結婚して何をするのだろう。体躯も種族も違うのに、竜と人間が一緒に暮らせるなんて、私は思えなかった。
話し終えた弟は、今日は珍しく食器の後片付けを手伝ってから、スマホを拾って自分の部屋に帰った。あとで様子を見にいくと、真面目に宿題を片付けようとしていて、その幼い健気さが——とても愛おしかった。