第3話 薄氷の上で因習を嫌う
月神の声は、あいにくと真面目そのものだった。
冗談の話ではない。それは分かってしまったし、薄々と私はその意味を理解してしまっていた。
それでも、尋ねる。私の理解が間違っていますように、と白々しくも問う。
「妃? それってつまり、えーと……?」
顔を上げた月神は、堅苦しく話す。
「順を追ってお話ししましょう。世代交代に伴い、現在、竜王の位は空位であることはご承知かと思われますが、竜の長老たちによる話し合いの結果、次の竜王となる方が内定しております」
私もじいさんも、月神の説明を黙って聞いていた。何せ、竜王が云々、という話は、所詮は千千都の宮城、という仁淀の川からずっと離れたところの話だ。島さえ違う。十十廻国の辺境にある仁淀の領地である川は、五つある大きな島のうちもっとも東の青竜州の東端、はっきり言ってど田舎だ。千千都のある黄竜本州から一番遠く、一番小さな島である。そこにおいて十十廻国の中央の話題など、滅多に口に上らない。もちろん、青竜州でも川を管理する下位貴族ではなく、山を管理する上位貴族なら多少は関係あるだろうが、それだけだ。
つまりは、現代のおとぎ話のように、私とじいさんの耳には聞こえていた。いや、竜の王の妃になるなんておとぎ話のようなものだが、まさか自分の身に降りかかるなんて生まれてこのかた思ってもみなかった。そのくらい、縁遠い話だった。
「十十廻国は、竜と竜に仕える人間の国です。若い竜が国の中心となる王となり、我々人間は貴族を筆頭として竜王を支える。そのために、貴族は竜の住む霊峰、眷属であるミズチの住む清流をそれぞれ管理している、というわけです」
「はい、仁淀家は青竜州仁淀の水系の川を守る家、それは父から教わりました。ただ、近隣のミズチには友人知人は多いですけど、竜を直接見たことはなくて」
ミズチは竜に似た生き物で、人間よりもはるか昔から竜に仕えてきた存在だ。現在では人間の生活様式に則って暮らし、竜よりよっぽど親しく共存している。私の通う高校の生徒も、半分は人間に化けたミズチだ。多くは人間の体にひらひらの鰭と鱗のついた尻尾、という出で立ちで、尻尾は彼らのステータスを表すらしく、隠すことはない。
一方で、竜となると話は異なる。竜はほとんど人目に触れず、天高く空を飛び、険しい山の頂に住まう。彼らに直接お目通り叶うのは一部の上位貴族の人間と眷属のミズチだけで、最近だとたまにテレビの向こうに映ってはいる。国を挙げてのお祝いの行事に参列する様子を私も観たことがあるが、やはりおとぎ話だ。ぷかぷか空に浮いている巨体、それだけで現実味がなくて、ちゃんとテレビに映っているのに、実在すら疑わしかった。
その竜と、私は結婚しなくてはならないのか。やはり、どこか空虚な、実感を伴わない話にしか聞こえない。
だが、月神は至極厳粛に、私を理で説得しようとしていた。
「竜たちに守られる我々は、長である若い竜王を支えなくてはなりません。そして、竜と人との繋がりを象徴する婚姻によって、互いを身内とすることで、その関係は強固なものとなる。何千年と続いてきた伝統であり、竜王の配偶者に選ばれることはこの国の人間の誉れでもあります。たとえ平民であろうと、選ばれたのなら貴族に列せられるほどには」
それは違うだろう、と言いたかったが、私は我慢した。
この百年、世界は変わった。そのくらい、歴史の授業で習う。国の外では大きな戦争が何度も起こり、十十廻国は昔のような外国との関係の一切を途絶することはできなくなった。そのときの立ち回りのおかげで機械全般の技術が発達し、この国は最先端の科学技術を持つことができたが、そうなっては社会は昔と同じ、というわけにはいかない。十十廻国の人々の見て聞いて知る世界は格段に広がり、インターネットの出現で全世界という場に躍り出る。そうなったときに知るのだ、自分たちの国は特別でも何でもなく、外国には象を祀りその背に暮らす国、無数の猫が協議して成り立つ国、鳥と世界樹に依存する国、それらと変わらず、そしてそれらと共存できないならば、競わなければならない、と。
竜に嫁げば誉れ、だなんて価値観はもう古い。百年は古い。これから先もこの国が竜によって守られる保証に結婚を使う、だなんて考えがもう鳥肌が立つほど凝り固まった考えだ。どうしてそんな話に私が従わなければならないのか、と現代に生きる若者である私は思うわけだ。
それは私が貴族だから従わなければならないことなのではなく、とっくに時代が違うのだ。貴族や平民や身分の違いでどうこう、と口うるさく言うのは、貴族や年寄りだけだ。一般市民の誰もそんなことを気にしちゃいない。貧乏な貴族も、裕福な平民も、一からのし上がった成金も、平穏に生きる一般家庭も、上下の別なんてもうないのだ。
なのに、誰も変えようとしていない。この国でも上から数えたほうが早い頭脳明晰な人々が集まってなお、前例に則って古き価値観、考えをよしとしている。この国も世界も変わっているのに、その慣習も儀礼も何も変えようとしていない。
それが、私には耐えられなかった。ため息が出そうだ。だが、ここで私が何を言っても、経験不足の若者の勘違い、で済まされると分かっていた。じいさんも月神も、私をすっかり論破し、罵倒し、言うことを聞かせようとするだろう。そうなったとき、私には誰一人味方がいない。
父と母が生きていればまた違っただろうが——今ここで、私の結婚に反対してくれる味方は、いないのだ。
月神はそれを、どれほど分かっているのだろう。強面の裏にどれほど緻密に計算して、私に断らせないように策を巡らせているのか、私には察することもできない。
月神は再度、頭を下げた。
「りつか様。十十廻国のため、一ヶ月後に第二十六代竜王となられる霽空丹青様の『最初の妃』たる一妃として、どうか宮城へおいでください。」
逃げられないとしても、ここではいそうですか、分かりました、などと言ってはいけない。
家と弟を守るための言質を取る。劣勢で負けて要求を呑まされるとしても、負け方というものがある。私は頭を必死に巡らせ、こう言った。
「でも……私は、長子として仁淀家を守らないと。両親が亡くなり、弟もまだ十二歳です。家の維持も弟の教育も、親族に任せきりというわけにはいきません。それに、仁淀は荒れる川も多く、父母は川に住むミズチたちとの関係維持にとても神経を使っていました。面識ある私ならともかく、幼い弟や親族がいたとしても、ミズチたちがこれからも従ってくれるかどうか」
半分は嘘だ。確かに仁淀には台風のたび荒れる川が多い、しかしミズチたちは自分たちの住処を守るために、仁淀の家と協力してきた。住居や集落、橋、道の確保、治水工事、ダムの建設、陸に上がるミズチの就学や就業支援。でもそれらは、私の父と母が尽力したからこそできたことだ。おそらく、協力があっても私は維持が精一杯だろうし、自分たちの命がかかっていることだからぽっと出の親族を信用するほどミズチたちも甘くはない。
それは川上のじいさんも知っているはずだ。何とかする公算があるのか、それとも楽観的に見ているのかは分かりようがないが、仁淀家を乗っ取るということは、そういうことなのだから。
川上のじいさんが何かを言う前に、月神は私を引き込むためだろう、支援を申し出てきた。
「ご安心を。弟君には、宮城から責任を持って有能な後見人をお付けいたします。家はもちろんのこと、弟君を成人までしっかりとご支援いたしましょう。何せ、一妃の実家とあらば、その体裁を保つべきは明白。丹青様も義理の弟君を心配なさるでしょうから」
——うん、それなら、口約束にはならないだろう。あとで確約の書面でも作ってもらおう。
ただし、この場で答えは出さない。反対するであろう川上のじいさんに、発言権を与えないためだ。
「では、少し考えさせてください。今、仁淀の家は私が何でも差配できるわけではありません。仁淀家の一員である弟とも話をしなくてはなりませんので」
「承知いたしました。私は仁淀には一週間ほど滞在しますので、些細なことでも何かあればこちらにご連絡ください。すぐに駆けつけます」
月神は、私へ名刺を差し出してきた。どうやら尽くせば私が要求を呑むと算段をつけたのだろう、私へできることをしよう、という態度になった。
こうなれば、田舎のジジイに中央の官吏を追い払う力はない。家の今後について口出しする機会を失ったまま、川上のじいさんは不機嫌そうに帰っていった。
私は月神を屋敷の門の外まで見送り、もう夕暮れとなった空を見上げる。
何とかなった。私は安堵して、それから夕飯の支度をすることにした。