第27話 竜は手間がかかる
シックな暖色のLED灯の下、食卓に料理が並ぶ。熱々のエビチリ、鯛のお吸い物、白いご飯に玉露の冷たいお茶。いちいち器が花を模した桃色の磁器だったり、蒔絵の漆塗りの椀だったりと一目で高価だと分かる逸品ばかりで触ることも躊躇させられる。お茶のガラスコップなど、細かい幾何学模様の切子だ。これ一つでスマホくらい買えるのではないだろうか。
それはさておき、美味しそうな匂いに逆らえず、私は我先にと箸を手に取る。
「いっただっきまーす」
鯛のお吸い物を一口、浮いた三つ葉も柚子の皮も、上品なものだ。
そして、何より鯛の出汁がしっかりと出ていて、醤油も含めた塩加減が絶妙だった。
「えっ……美味しすぎ……!」
「だろうな」
こともなげに始雷は頷く。自分の料理の腕に、自信満々である。
「でもこれ、しらつゆとかんろおばさんの料理より美味しい」
「お前、霧島のババアをおばさん呼ばわりか」
「いや始雷さんのほうがひどいこと言ってますからね? ババアって!」
「ババアなのは間違いないだろう。口うるさいお節介ババアだ」
始雷は意外にも話しやすく、俗な面もあった。四十路のおじさんと話が合うとは、私も思ってもみなかった。
しかし、食卓の一角、丹青は黙ったままだ。箸を持とうともしていないし、俯いている。
そこへ、始雷が磨りガラスの青い徳利を持ち、お猪口よりも大きなショットグラスを渡す。
「丹青様、どうぞ」
唯々諾々と丹青はグラスを受け取り、注がれた清酒を口に運ぶ。くいっと一気に飲み干し、食卓にグラスを置こうとしたところで、また始雷に清酒を注がれた。今度はちょっと間を置いてから、やはり呷る。
「美味いですか」
そう問われた丹青は、俯いたままつぶやいた。
「竜の姿に戻りたい……」
「ここではやめてください。家が壊れます」
「でも、私は変化も下手で」
「ここで泣き言を言うようなら、追い出しますよ」
始雷は竜にも厳しい。丁寧語を使っていても、その言葉が強制力を伴っていることが分かる。丹青はグラスを持ったまましょんぼりしていた。実は酔っているのではないだろうか。私はエビチリが感動的に美味しいことで、丹青のことは割とどうでもよくなっていた。
空になった徳利を片付け、始雷は私へ向き直る。
「さて、りつか。これからどうする」
これから、つまり自分の未来の予想図は用意できているか、と問われたのだろう。
私は、万修に言われたとおり、けじめをつけ、責任を果たさなければならない。その思いの丈を吐き出す。
「家に帰ります。でもその前に、関係を清算します」
「ほう、どうやってだ?」
「私は結婚なんかしていなかった、婚礼の席にいたのは別人だった、っていう話を合わせてもらうためにできることを、考えます」
傍から聞けば、支離滅裂な、と思われてしまうだろう。しかし、それ以外に道はない。すでに婚礼の儀式は済ませた、丹青は結婚していることになっている。ならば、私以外と結婚しているのだ、と発表すればいい。実は、まだ私の名前は外に出ていないのだ。しらつゆ曰く、一妃の名前は安全上の理由から、滅多なことでは公表されない。情報公開が進んできた現代でも、公式発表は今年中にはないとさえ言われた。
今ならまだ、他人と入れ替わって対処できる。私はそう踏んでいた。
始雷もそれは否定しない。
「まあ、婚礼は竜たちのためにあったものだ。人間にはお前の顔も名前も知らせていない。それに、同衾もしていない、それどころか盃を酌み交わしてもいない男女だ。やろうと思えば、それもできるだろう」
「だめだ」
いきなり、丹青は鋭く言葉を発する。私は驚くが、同時にむっとする。
「竜たちは誤魔化せない。すでに君の匂いは憶えているだろう、別人ではだめだ」
「それはあんたの事情でしょ」
「だめだ。君は」
私と目を合わせることもなく、丹青は情けなく弱音を吐く。
「私が人間なら、自分で君を迎えに行けたのに」
私は即座に首を横に振ってやった。
「いや、匂いフェチが治らないかぎり断るけど」
俯いていた丹青が思いっきり頭を食卓にぶつけた。けっこう派手な音がしたが、起き上がってこない。
しかし、始雷が様子を見かねてか、フォローに入った。正確には、説明をきちんとした、というものだろう。
「りつか。竜にとって匂いとは、体臭のことではない。魂の感覚だ」
「たましい?」
そうだ、と始雷は肯定する。
人間は肉体と魂で構成されている、と古から宗教は説く。大体の宗教は同じことを言っているから、宗教的視点からすれば世界的にそういう認識が一般的なのだろう。しかし、現代っ子の私は、非科学的と断じてしまう。
ところが、始雷はごく真面目に——そもそも科学で解明できそうにない特殊能力を持つ竜などという生き物がいる時点で、魂というものの存在を否定すべきではないのかもしれない——十十廻国の竜王について語る。
「竜王に求められる資質は、ただ若く賢いだけではない。人間の魂を敏感に感じ取れる能力を持つ者こそが、人の上に立てる。竜としての能力がどれほど強大でも、人に寄り添えない者はこの国の王とはなれない、というわけだ」
すなわち、と始雷は丹青を見て、こう言った。
「魂を感じ取る、ということは、感情の揺れ動きどころか、心までも読めるということだ。その能力が特に強い竜王は、一歩間違えれば魂そのものに干渉し、人間の魂のあり方を根本から変えることもできてしまう。そうやって生まれた種族が、ミズチだ」
え、と私は声を漏らした。ミズチ? なぜ今、その話にミズチが出てくる?
私は思わず丹青を見た。本当か、と聞きたかったが、丹青は口を真一文字に結んでいた。そのあまりにも強張った顔が、始雷の言葉を裏付けている。
「大昔、竜は、戦争に負けた人間たちを自らの眷属とした。ミズチとは、強靭で、従順で、魂を弄られた元人間だ。空を竜、地を人間が住処とするならミズチは水を住処とする。そのために肉体も改造され、人間であったころの記憶も歴史も、とうに失われている。ただの力の強弱だけではなく、それを思い知っているから、この国の人間もまた本当の意味で竜から逃れることはできていない」
言葉が出ない。
友達のひよりの先祖が、元は人間だった。竜に魂というものを変えられて、ミズチにさせられた。
竜がそんなことを? にわかには信じられない。しかし、一方で竜ならばそれが可能なのだろう、とも思う。
気候さえ操り、翼もなく空を飛び、人間の夢に現れ、とてつもない長寿。高い知能と高いプライド、人間やミズチに崇められ、畏れられてきた頑強な生き物。
竜にとっては、人間など本来、塵芥にも等しいだろう。この国は、竜と塵芥でできている。竜の一息で舞い散り、失われていくことを恐れて、どうにか大人しく生きていてほしいと塵芥は願う。竜にとってはどうでもいいことだろうに、憐憫か愛玩か、竜たちはその願いを聞いている。
そこまで考えて、あれ、と私は首を傾げる。なら、一妃とは何だろう。人間が差し出した献上品だったら分かるが、竜にとってその価値はあるのか。竜と人間の良好な関係を象徴する証のようなもの、と思ってきたが、違うのではないか?
気に入らない人間は魂も肉体も弄ってしまう竜たちは、なぜ人間と関わろうとするのだろう?
まさか丹青も、とちらりと見たが、丹青は重々しく、弁明する。
「そんなこと、もうしない。禁止するための勅令も、出そうとしている」
「ここでそんな機密情報を明かさないでください」
始雷、一言で丹青を黙らせた。確かに布告前の勅令の内容なんて機密情報だろう、丹青は自覚が足りない。脇が甘い。
またしょんぼりした丹青は放っておいて、始雷は話をまとめる。
「分かるか? 竜が人間の匂いを気に入るということは、その魂を気に入るということ。美醜も賢愚も広狭も関係なく、その人間の本質だけを見ている、ということだ」
それはまあ分からなくもない。
なぜなら、丹青は私を見ていないからだ。私という人間を見ていない、と何となく違和感があったが、魂の話を聞いて得心がいった。私の魂だけを、丹青は見ていたのだ。それ以外など本当に、それこそ塵芥のようなものだろう。
ああ、納得した。だから私は、丹青がそれほど好きではないのだ。
それをどう伝えよう。いや、伝える必要はあるのか。
私は、丹青へ機会を与えるべきか?
私という人間に興味のない竜へ、私を愛するというのならすべてを見ろと言うことは、あまりにも傲慢で、馬鹿にされる行為ではないのか?
美しい顔に惹かれることも、頭の良さに惹かれることも、魂に惹かれることも、私にとっては同じようにしか思えない。それは私ではないのだ、私の一部ではあるが、私そのものではない。
どれだけ高尚に言おうと、本質など、一部でしかないのだ。そこだけしか好きではない、と言われて、いい気分になるだろうか。私はならない。
なんだか面倒くさくなってきた。もう帰っていいだろうか、私がそんなふうに投げやりになりつつある最中、丹青は口を開く。
「君の匂いは、夏の清流のような匂いだ。清らかで、生命力に溢れて、涼を与えてくれる。でも」
うわ言のようだが、丹青は何とか喋ろうとしていた。私も始雷も、消えそうな声を捉えようと、耳を傾ける。
「宮城で会った君は、台風のあとの濁流のようなものを、抱えていた。すぐに分かった、君は不幸に見舞われて、怒りと恨みと、悲しみの混じった感情を上手く消化できていないんだ、と。どれだけ表面上は笑っていても、君は幸せではない。幸せにするにはどうしたらいいか、考えて」
考えてどうした、私は続きを聞こうとしていた。
しかし丹青はすでに目を閉じて、体が船を漕ぎ始めている。言い切れるかどうか、ちょっとはらはらする。言え、言ってしまえ、と応援したくなるほどだ。
とろんとした声になりつつも、丹青は頑張る。
「考えた末に、もっと近くで匂いを嗅ぎたくて、君を理解しようと思って」
いや、だからそれをやめてほしいのだ。
私がつっこもうとしたときには、すでに丹青は首をかくんと落としていた。
私は始雷と目を合わせる。
「酔っ払って寝たんですか、これ」
「手伝え。運ぶぞ」
「はあ」
始雷が丹青の体を引っ張り、私は先回りして、与えられた客用寝室のドアを開け、ベッドを整える。
始雷の手でぽいっと放られてベッドに沈んだ丹青は、すっかり眠ってしまっていた。寝息を立てて、動かなくなっている。
手間のかかる竜だ。布団を被せて、私は始雷とともに寝室から出ていった。




