第22話 迷宮に仏
香宮殿と呼ばれているフロアから降りる非常用階段を発見した私は、なるべく下を見ないように降りた。何せ地上数百メートルである、突風が吹けば非力な私は吹き飛ばされる。手すりにしがみついて、やっとの思いで非常階段の底まで降りたが、まだまだ高さはある、先は長そうだった。
しょうがないので入り込んだフロアは、照明が落とされて板張りの廊下が続いていることしか分からない。非常灯を見つけて、それを頼りに壁に手を当てながら、私は進んでいく。
照明代わりにスマホが使えないことがこんなに不便だとは、私はすっかり現代っ子で、不便を経験していないのだと痛感した。GPSなどで追跡されるおそれがあるため電源を切っているし、パープルゴールドのスマホは置いてきた。あとは勘で何とか下へ降りて、外に出るしかない。バッグの持ち手を肩にかけ、ぎゅっと握って一歩一歩慎重に歩くのだが——。
「迷った」
私はどうやら、迷路攻略が下手くそらしい。壁に手をついていたのにゴールへ辿り着かないレベルだ。
そもそも、現在地が分からない。階段を見つけて降りたが、三階分しかなかったし、進んだもののすぐに別の階段がいくつもあった。勘で選んで降りようとするが、いつの間にか気付く。
暗さと怖さのあまり、どこに向かっているか、降りているのか昇っているのかも判断できなくなっていたのだ。
スマホを使いたい、そんな思いを首を振って振り払い、私は壁に背をつけて座り込む。
「いや広すぎだって……もう迷宮じゃんこれ……」
そういえば、と月神に忠告されていたことを思い出した。香宮殿から出ないように、その理由は私を監禁しているわけではないのだ、と。
「りつか様、くれぐれも宮城の他のフロアを歩かれませんよう。入ること自体はかまいませんが、どこも構造が複雑すぎて、まだまだ探査が終わっていない箇所が大半で、危険です。丹青様より、せめて遭難者が再び出ないためにも正確な地図を作るようにとご命令を受けておりますが、数年以上かかるかと」
その言葉に、物騒な単語があることを、私は今、とても実感している。
「再び? 遭難者、やっぱいたの? マジで?」
いそうである。外が見える壁のない場所は風があって危ないし、中には鳶職でもないと通れそうにない道もいくつかあった。中は中で、たとえ電気が明々と点いていたとしてもこれは迷う。それくらい、無秩序に道が、部屋が作られていた。非常灯、ほとんど意味がない。
歩いていたら遭難者の死体を踏んだりしないだろうな、と私は戦々恐々、すでに脱走してきたことを後悔しそうなほど足が震えている。
いや、私は間違っていない。家と弟の保護と引き換えに私の身柄をゲットして匂いを嗅ごうとする変態の嫁など、どれほど権威があろうと金があろうと願い下げだ。
私は、昨日の丹青を顔を思い出すだけでむかむかしてくる。蒸気した顔で、はにかんで言うことが「嗅がせてもらっても?」だ。馬鹿なのか、あの竜は。そんなことに欲情しないでほしいし、そんな原始的な要因で嫁にしないでほしい。というか普通に失礼だ。私は風呂にちゃんと入っているから臭くない。失礼だ。
私が鼻息荒く立ち上がって出発しようとする、そのときだった。
「おい、そこで何をしている」
「ひゃい!?」
声をかけられ、驚きのあまり口から内臓が出そうだった。
明かりが点けられる。廊下はLED電灯で照らされ、一気にその輪郭を露わにした。
木の柱が、生きている木そのものだった。枝に葉があり、隣には普通に襖と鴨居がある。板張りの廊下には、ところどころ木製の標識があった。さらに驚くべきことに、ぱっと見ただけでも、あちこちがちぐはぐなのだ。増改築を繰り返し、元あったであろう部分を残して、どんどんと新しい部分が付け足されていたものだから、何もかもがまっすぐではない。廊下も階段も部屋の入り口も、すべて普通の建物とは異なり、配置が歪んでいた。
私は声をかけてきた人物へと、振り向く。そこにいたのは、黒を基調とした着物と羽織の男性だった。五十路くらいだろうか、顔も体も骨格が大きく、武道を修めているのだろうと思ってしまう。
男性は、私を咎めるために声をかけたのではないらしく、顔に似合わず優しい声をしていた。
「ここは式部省だ。女官が入るところではないが、おおかた迷ったのだろう?」
「は、はい、そうです。迷って死ぬかと思いました、広すぎますよここ」
女官に間違えられた。でも都合がいい、それで通そう。
私は決して名乗るまい、と決意を新たにする。宮城にいる人間には、絶対止められるからだ。元いた香宮殿に戻され、もう外に出られなくなる。
すると、男性は大きく口を開けて笑った。
「はっはっは、よくあることだ。おいで、案内しよう。下に行くのか?」
「えっと、下です。外に」
男性に手招きされて、私はついていく。男性は勝手知ったる場所、とばかりに迷いなく歩いていく。
この男性、ごつい顔の割には、朗らかでおしゃべりだった。前を歩きながら、ずっと親しげに私へ話しかけてくる。
「お前も辞めさせられたクチか? 災難だったな」
「は、はあ……皆さんもいなくなられて」
「これから実家に帰るのか?」
「はい、帰ります。もういられませんし」
「そうか。榛名卿の鶴の一声で香宮殿にいた連中は全員解雇だし、新しい一妃は上位貴族がお守りをして囲おうとするし、やっていられんだろう」
うんうん、と男性はしみじみとそう愚痴を吐く。
「ここだけの話、上位貴族の一部は宮城への影響力をさらに強めようと、一妃の世話を焼いて竜王陛下へ恩を売ろうとしているとか。思いつきの政治で飯と寝床と服が用意できるなら、何のために慣習があったと」
まったく、と男性は嘆き、憤慨していた。どうやら、本気で私がここに勤めていたが辞めることになった女官だと思っているらしい。
しかし——そうか、官吏にはそういう受け止められ方をしているのか、と私はちょっと悲しくなった。しらつゆは世話をしてくれた、婚礼で恥をかかないように手を回してくれて、ご飯も身の回りのこともやってくれた。とても貴族のやることではないし、それ自体に文句の一つも言わなかった。かんろもそうだ、たとえ丹青のためであっても、私を思わなかったわけではなく、悪いようにはしなかった。
それは、私を思えばこそで、その代わり誰かが割を食ったのだろう。解雇された女官たち、官吏たちは、理不尽だと怒ったことだろう。それが新しい竜王丹青と一妃私のできるだけ快適な生活を作るためだからと、納得できるわけがない。長年勤めた職場を辞めさせられたあと、彼ら彼女らはどこへ行くのか。
私のせい、だけではないにしても、外から見ればそんなことは関係ない。新しい竜王が即位したからそうなった、そういう理解で終わってしまうだろう。
——いいや、もう関係はない。私は帰るのだ。妃なんて、辞めるのだ。
私が自分を奮起させようと胸を張ったところで、男性の大きな手のひらが背中を思いっきり叩いた。
「そう落ち込むな!」
「あいた!」
「すまんすまん、お前の実家はどこだ?」
「青竜州です」
「それはまた遠くだな……その若さからして、まだやってきて間もないだろうに」
なんか私の身の上について勝手な想像をされている、と思うが、我慢だ。同情されて申し訳ない気がする。
しかし、どうにも寒い。暖房なんてこの広さでは意味がないだろう。案の定、私はくしゃみを連発した。体が震え、ずびずびと鼻水をすする。
男性が自分の着物の袖から懐紙を取り、私へ差し出した。私は急いで受け取り、音がしないよう鼻を噛む。
「温かい茶でも飲んでいくか? 夏でも外壁がないと風が寒かっただろう」
「うぅ、鼻水が……すみません、一杯だけください」
「大丈夫だ、宮城に配属された官吏や警備の新入りが、毎年しょっちゅう各階で迷子になって保護されている。運が悪いと彷徨いすぎて断食状態になっていたり、低体温症になっているやつも見かけるほどだ。いつものことだから気にするな」
もうそれは完全に遭難レベルだが、慣習とは恐ろしいもので、誰もそれをおかしいとは思わなくなっているのだろう。私も何かの手違いでそうなっていてもおかしくなかった、そう考えると真顔になる。
私は男性へと頭を下げた。
「あのう、ありがとうございます。お名前を伺っても?」
男性はきょとん、として、それから朗らかに笑って名乗った。
「筑摩万修だ。式部省で官吏をやっている」
ほら、こっちだ、と私を誘って、万修は近くにあった襖を開けて、手招きした。
どこかで聞いた苗字だったが、私は今、それどころではない。寒さから逃れようと、急いで万修のあとを追った。




