第21話 脱走を企てる
私は私物をバッグに片付けていた。そう、実家に帰るためである。
「ないわー。マジでないわー。キモすぎ」
ポケットのスマホにイヤホンを差し込んで、私はひよりに電話していた。あまり外部と連絡しないように、と言われていたが、かまうものか。もうここにいる人たちに縛られはしない、私は帰るのだ、とマジギレしている。
ことの次第を話すと、呆れることもなく、笑うこともなく、ひよりは真面目に聞いてくれた。
「それで帰るって言ったわけ?」
「うん。帰る」
「いやいや、そんな簡単にさ、スピード離婚ってレベルじゃなくない?」
「今なら高校に復学できるっしょ。帰る」
「まあまあまあ、えーと、周りの人はなんて?」
「なだめられるばっかりで誰も同情してくれない」
「あーあ」
「そんなに竜王が偉いってわけ? バッカじゃないの! 匂いフェチの変態に誰が嫁ぐかっての! ふざけんな!」
「それ聞かれてたらヤバいねウケる」
「ねー! むしろ聞いてればいいのに!」
そもそもだ、ここにいる誰もが、丹青が私の帽子を持ってくるよう指示を出したことを止めなかったのだ。竜王である丹青が第一、常識は二の次、私はそのまた次の次、そんな扱いをされて、腹が立たないわけがない。
元々、家のために結婚を承諾したのだし、今更反故にされたってもういい。私は弟の清明とどこかに引っ越して、家財道具と家を売って、働く。仁淀の家がなくなって、屋敷も人手に渡ると考えれば確かに嫌ではあるが、生きていくためならしょうがない。
こんなところで変態に手篭めにされるより、ずっとマシだ。
荷物を最低限詰め込んだバッグを持って、私は立ち上がる。
「さて、どこから逃げよう」
仁淀に帰り、弟を連れ出さなければ。私はその一心で、香宮殿から出た。
りつかの脱走をまだ知らないしらつゆは、宮城の執務室にいた。上位貴族には代々継承される宮城での役目がそれぞれあり、金剛家の職掌は図書寮のトップである図書頭だ。十十廻国が持つ蔵書、宝物すべてを管理し、国史を綴る研究機関である図書寮は、当然ながら無学の人間が在籍することを許される場所ではない。しらつゆも例に漏れず、必要な学問分野は片っ端から修めているほどだ。
とはいえ、トップが直接研究をするわけでもなし、繁忙期もなくただただ日々維持されていくだけの部署でもある。優秀なしらつゆの能力があれば忙しさに追われることはないため、りつかの世話をする余裕はあった。
ただ——先日からりつかが実家に帰る、と言い出したことに関しては、さすがに優秀なしらつゆも頭を抱えていた。
宮城中腹にある、しらつゆの執務室には、来客がいた。十六畳の畳の間にある火鉢に煙管の中身を出して、新しいタバコの葉を詰めている。
榛名始雷、四十路の伊達男だ。髪を後ろに流し、髭を整え、宮城では珍しい洋風然、しかもフォーマルとカジュアルの中間くらいの装いをしている。宮城に参内しながらもジャケットにパンツスタイルが許されるのは、榛名家の当主だからだ。
その始雷は、しらつゆから報告を受けて、ふむ、と考える素振りをした。
「前代未聞だな」
「ええそうです、前代未聞です」
「しかし、嫌うのも無理はない。うちの娘もそういうことに敏感な年頃だからな、よく分かる」
しらつゆは驚く。始雷が家庭の事情を語るのは、滅多にないことだ。
「意外ですね。榛名様がそのような冗談をおっしゃるとは」
「冗談に聞こえるか?」
「違うのですか」
驚くしらつゆに、始雷は皮肉げに笑いかける。
「しらつゆ、お前は敬愛する父親に嫌悪感など覚えなかっただろうから分かるまいが……十五、六の娘は、大体父親を嫌うものだ。匂いさえ嫌う。そこにいるだけで腹が立つそうだ」
それを聞いたしらつゆは、己の認識が間違っていた、と認めた。
皮肉げではなく、自嘲だったのだ。年頃の娘から嫌われた張本人だから、りつかの気持ちが分かるのだろう。
「まあ、だからと行って一妃がその責務を放り出していいというわけではない」
「そうですね。何とか説得をしましょう」
「私から丹青様に一言、申し上げておこう。言っていいことと悪いことがある、と」
これもまた、しらつゆにとっては意外なことだ。
今回の件、人間目線で見れば、丹青の無知によるマナー違反が原因と見ることができる。しかし、丹青は竜で、しかもこの国を統べる竜王だ。そちらに責任がある、とはなかなかに言えない。人間社会においては、何かあっても竜だからと免責されることは多く、ましてやここは宮城だ。竜を責める人間はいないに等しい。
しかし、始雷は竜王丹青へ忠告をする、その方針を取った。竜を崇める上位貴族らしからぬ振る舞いに、しらつゆはその意図を探ろうとする。
「竜は主に匂いで同族や人間を判別しますから……それも、人間には感知できない領域の、固有の生命力に近いところの匂いです。りつかにもそのことを伝えたいのですが、ありえないの一点張りで、聞く耳を持ちません」
「ここまで宮城において竜と人間の認識や感覚の違いが問題になったことなどないだろうな」
「大体は竜に合わせますからね」
「それが、年頃の一妃は気に入らないのではないか? 何かと反発する年頃だからな」
始雷はまた笑った。今度は愉快げだ。
りつかの肩を持つ、というよりも——これからを見越せば、ということだろうか。
ならば、としらつゆは天井の空気清浄機へ向けて紫煙を吐き出す始雷へ、案を出す。
「では、丹青様にいくらか申し上げて、思考のすり合わせを」
「しらつゆ、お前のやるべきことはそれではない。ここは燼星公に任せてみろ」
「燼星公に? なぜでしょう?」
「年の功に甘えても、バチは当たらないだろう。それに」
始雷のことは、上位貴族の誰も、その人生をよく知らない。
そもそもが榛名家自体、そうそう表に出てくる家ではない。官制上では警察庁の上位に位置する弾正台と呼ばれる国内治安維持組織を統治し、弾正尹として権力を握るが、何をしているのか、と尋ねられれば始雷は冗談混じりにこう言うだろう。
「国の基盤を揺るがせる悪を始末することこそ、我々の役目であり、それは表に出る必要は何一つない。無論、宮城とて聖域ではない。我々の正義の印を持つ手はどこまででも伸びるさ」
その権力でもって宮城の人事に干渉することも可能であることを、古参の女官や官僚たちを一掃したことで証明した始雷は、やましいことのある人間にとっては天敵のようなものだろう。
そのような人間を、誰もよく知らない。今まで歩んできた人生も、何を好むかも、誰と交流しているのかも、明らかにはなっていない。噂にすらならないほど恐れられ、当主である始雷以外の榛名家の人間は、同じ上位貴族であっても名前さえ分からない。
その始雷が、こうまで言うのだ。
「宮城にいる上位貴族や竜は、誰もあの一妃の心を、過去を理解できまい。お前はそれを考えるべきだ」
始雷の一言一句を、しらつゆは呑み込む。
速やかに、しらつゆはスマホを手に取った。




