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【番外編9】西村秀智と『静原の呪い』21

 結婚式を終えた夜。

 前夜同様外国人連中に捕まっていたが母に呼び出された。そのまま母に風呂に突っ込まれる。

「なんだよ」

「いいから(みそぎ)をして。終わったらこれを着てね」


 母の台詞に眉が寄る。『(みそぎ)』? なにが起こるんだ?

 

 よくわからないが言われたとおり身を清める。用意されていたのは白の単衣(ひとえ)。なにが起こるのかと思いながらも大人しく身につける。歯を磨き口もしっかりとゆすぐ。

 そうして言われていたとおり茶室に向かった。



 母の指示どおり、屋内からでなく露地(ろじ)を通って躙口(にじりぐち)へ。夜目が利くので明かりなしでも問題なく進む。閉じてある板戸を軽くノックすると内側から開いた。

 三十年以上使っていなくても幼少期に叩き込まれたことを身体が覚えていた。すっと躙口(にじりぐち)から室内に入る。顔を上げ――眉が寄った。


 茶室の中央には布団。その下にはなにかの陣が描かれた布が敷いてあった。床柱の前に燭台が置かれ、灯された和蝋燭が唯一の光源となっていた。


 躙口(にじりぐち)に父が、茶道口の前に母が座り、床の間の前にマコが座る。俺と同じ白の単衣姿。


 決意を込めた表情のマコに『何かある』とすぐにわかった。


 父は俺が茶室に入るとすぐに躙口(にじりぐち)を閉じ、母の横に並んで座った。

 無言で説明を求める俺に母が口を開いた。


「結婚おめでとう」

「………ありがとう」


 今更なにを言い出したのかと思いながらも応えた。


「本日仏前式で、ふたりは『夫婦の契り』を交わしました」「御仏に『夫婦』と成ることを承認されました」「それにより結び付きがより強くなりました」


 母は淡々と語る。和蝋燭の炎が影を揺らす。


「今宵、ふたりの『生命(いのち)(うつわ)』を結び付け、寿命を分け合う術を執り行います」


「……………は?」


 意味がわからない。『生命の(うつわ)』?『寿命を分け合う』? なんのことだ??


「危険はないわ」「私と玄さんもしてるけど、これまで問題は起こっていないわ」

「は??」

「ヒデさんとまこちゃんでは霊力量に差があるけど、術を行使するヒデさんのほうが多いぶんには問題ないはずです」

「は???」


「まこちゃんの希望は『置いて()かれたくない』『一緒に生きたい』『(のこ)されることなく一緒に死にたい』ということだったけど」

「厳密には『一緒』になるかどうかは、そのときになってみないとわからないの」

「同時に死ねるか、一日差二日差になるか、一月二月差があるか、あるいは一年差が出る可能性もあるわ」


「なんの話だよ」

 無理矢理話を止めると「今説明したでしょう」と母は馬鹿にしたように返してくる。


「まこちゃんが望んだの」

「『あなたと一緒に生きたい』『遺されたくない』『一緒に死にたい』と」

「男冥利に尽きるわね」


 あっけらかんと母は言う。が、俺は捨て置けない。バッとマコに顔を向けた。

『どういうことだ』無言の問いにマコはただ俺の視線を受け止めるだけで黙っていた。その表情(かお)に覚悟が宿っていた。


「元々は『呪い』を受けた私を救おうとしたお父さん――あなたの祖父が調べて再構築した術式なの」


 母は幼い頃、妖魔に『呪い』をかけられ「二十歳まで生きられない」運命(さだめ)となった。どうにか『呪い』を解けないか、せめて少しでも延命できないかと、当時祖父は死に物狂いで文献を調べた。あちこちに頭を下げ秘匿されていた術式まで教わり、愛娘(まなむすめ)を救おうとした。

 結果としてそれらの術式は愛娘を救うことには使われなかったが、蓄積された情報はそれなりに役立った。


 そんな祖父が集め調べ研究し再構築した術式のひとつが『対象者二名の「生命の(うつわ)」を結び付け寿命を分け合う術』。


「おじいちゃんは自分の生命を私に分け与えようとして色々検討したんですって」

「けど、おじいちゃんをもってしても『親子』では術式が成立しなかった」

「『夫婦の契り』を交わした結び付きの強い男女でないと『生命の(うつわ)』を結び付けられなかった」

「私達が結婚するときに『こんな術式を調べてたんだ』って教えてくれたから、『丁度いい』って被験体になったの」

「うまく結びついたわ」

「ただ、実際術を行使してみてから改良点に気付いたから、私達はぴったり同時に生命を終えるかどうかはわからない」

「この術式はおじいちゃんと私が五十年以上かけて再検討したものだから。比較的近い時期にふたりの生命を終えられると思うわ」


「はい」と差し出された奉書を受け取り、パタパタと開き見る。なかなかに手強そうではあるが、やってやれないことはなさそう。

 それでもジトリと母をにらみつける。すぐさま父がムッとする。が、当の母は平気な顔。


「………俺達の年齢差わかってて言ってんの?」

「わかってるからまこちゃんがこんな希望を出したんでしょ」


 ケロリと答える母。何を言っても無駄だと判断し、マコをにらみつける。


「わかってるのかマコ」

「きみの寿命を俺が奪うことになるんだぞ」


 そんなの許せない。マコの寿命を奪うなんて。マコを傷つけるものは許さない。たとえ俺自身でも。


「普通に考えたらそうだけど」

 マコでなく母が口を開いた。

「『普通の未来』が必ず訪れると、あなたは言い切れるの?」


 黙って母に視線を移せば、母はいつもの調子で諭してきた。


「まこちゃんの寿命が自分より長いと、何故断言できるの?」

「―――」

「たとえば事故。たとえば病気。そういうことがまこちゃんの生命を奪うことがないと、どうして言い切れるの?」


 その言葉に―――ゾワリと、皮膚が粟立った。


 一年前。マコがどんどん体調を悪くしていた。そうだ。あの時に考えた。マコがいなくなる可能性を。あのときの恐怖が一瞬で思い返され、ザッと血の気が引いた。

「『そのとき』、あなたは生きていられる?」


 ―――生きていられない。

 マコのいない『世界』など意味がない。マコが俺のすべて。マコさえ無事ならそれでいい。


 言葉が出なくなった俺に、母は淡々と話を続けた。


「『生命の(うつわ)』を結び付けておけば、最悪の場合にまこちゃんを救える可能性があります」


 母の言葉にハッと思考が切り替わる。マコを助ける。俺の寿命を分け与える。――可能だと、即座に理解した。


「どうせあなたたちはどちらかを喪ったら生きていられない」

「なら、『生命の(うつわ)』を結び付け、寿命を分け合ったっていいでしょ?」


 言われれば納得しかない。

 俺のほうが歳上だから先に逝くとばかり思い込んでいたが、寿命なんて数値化できるものでも可視化できるものでもない。現時点で俺とマコにどのくらいの時間が残されているか知る(すべ)はない。もしかしたらマコのほうが先に逝く可能性だってないとは言えない。それならば。

 少しでもマコの助けになる可能性があるならば。


「……………マコは」

「いいのか?」


 俺の問いかけに、マコは黙ってうなずいた。大きく、力強く。その目に強い決意が宿っている。俺を救うと。俺と少しでも長く共に在りたいと。


 強い強い愛情を感じ、身体の芯から震える。歓喜が全身を駆ける。

 俺の感情なんか精神系能力者の母にかかったら見え透いたもの。だからだろう。俺の意見を聞かず、母は話を進めた。


「ではこれより『生命の(うつわ)』を結び付け寿命を分け合う術式のための儀式に移行します」

「術式についてはヒデさん、展開してね」


「できるわね?」

 念押しに黙ってうなずいた。


 母は黙ってうなずき、そばに置いていた灯明皿(とうみょうざら)を手に立ち上がった。

 油の入った皿を手に、伸びる灯芯(とうしん)を床柱の前に置いた和蝋燭の炎に近づけ火を灯す。それを茶室の角に置いた。

 同じことを三度繰り返し、茶室の四隅に灯明皿が置かれた。

 父が茶道口の扉を開ける。一歩下がり茶道口の向こう側に立った両親。母が呪をつぶやき、結界を展開。灯明皿の炎が一瞬ゆらぎつながり四角を描く。


「―――この茶室自体にも結界を展開しておきます」「じゃあね」


 母が軽くそれだけ言ったあと、茶道口の扉は閉まった。



 シンと静まる室内。和蝋燭と灯明皿の灯芯の燃える音だけが聞こえる。

 奉書に記してあった術式も手順も覚えた。念の為頭の中でさらう。―――大丈夫。


「マコ」


 マコが先程から一言も喋らないのは術式に必要だから。口も開かず、ただじっとしていたマコを呼び寄せる。

 母から「俺の指示に従え」とでも言われているんだろう。マコは立ち上がり、俺の手招きに応じて目の前に来た。


 この術式に必要なのは、本人同士の同意と承認、神仏など高位の存在による承認、そのうえで霊力を循環させながら肉体的に繋がること。


 霊力とはすなわち生命エネルギー。それを溜める『(うつわ)』の大きさはひとそれぞれ。その『(うつわ)』の底をつなぐ。

 イメージとしては、違う大きさの容器を同じ高さに並べ、底を(くだ)でつなぎ液体を注ぐ。容器の大きさによって液体の体積は異なっても、高さは同じになる。

 体積が霊力量、高さが余命の長さ。底をつないでいるから高さは同じになる。つまりは同じ余命になる。


「―――本当にいいのか?」

 俺の目をまっすぐに見つめ、マコはうなずく。

「母さんはああ言ってたが、まず間違いなく俺がマコの寿命を奪うことになるぞ」


 そう言ったのに、マコは誇らしげに微笑んだ。目を細めうなずくその様子に『それこそが自分の望みだ』と言っているのがわかった。

 そんなにも俺のことを愛してくれていることに、またしても痺れた。感極まる。ああ。もう。


「―――愛してる」

「絶対に置いて逝くな」

「俺も、置いて逝かない」


 俺の決意に、マコは微笑みうなずいた。瞳がうるんでいく様子に目が離せない。どれほど俺を愛してくれているのか、どれほど俺を求めてくれているのか伝わってくる。


 ―――きっと(はた)から見れば俺達の愛情の在り方は「おかしい」と言われるんだろう。『狂愛』『愛執』そんなふうにラベリングされるのだろう。だか、それがどうした。他人がなにを言っても関係ない。俺とマコが通じ合っていればそれで十分。俺とマコが良ければそれが正義。たとえ他人からは狂って見えようが、異常だと言われようが関係ない。


 俺は『とらわれて』いるのだから。

『静原の呪い』に。

 愛する俺の唯一に。



   ◇ ◇ ◇



 一年以上ぶりに身体を重ねたこともあり、術式以上にマコをむさぼり求めてしまった。

 翌朝起こしに来た母に正座させられガッツリ説教された。


「術に必要だからといって、ここまですることはなかったでしょう」

「生理予定日を計算して大丈夫な日にしといてよかったわ」

「後先考えないんだから」

「前回の反省をもう忘れて」

「同じ過ちをしでかすひとを『馬鹿』というんですよこの馬鹿」


 馬鹿馬鹿(なじ)られ霊力と威圧で首を絞められ正論で殴られる。

「どうせこのお説教も三歩歩けば忘れるんでしょう」「ホント馬鹿」

 馬鹿馬鹿言うな。

「馬鹿に馬鹿と言ってなにが悪いんです」

「思考を読むな」

「読まれるほうが未熟なんです」


「ホントにこの馬鹿は……」

 こめかみを押さえる母。そんな母により俺達の『生命の(うつわ)』は無事繋がっていると保証された。

 目に見えるものではないが、なんとなくこれまでと違う感じがする。それが『繋がった』ということなんだろう。


 これまでよりも強くマコの存在を感じる。マコの霊力が循環する感覚はこれまでもあったが、よりスムーズに流れる感じがする。ふたりの霊力が溶けてひとつになっていると。


 マコは俺程霊力操作に親しんでいないが、それでも自分の変化に気付くものがあるらしい。

「身体のナカにヒデさんがいる気がする」「ヒデさんとひとつになってる気がする」「落ち着く」「安心する」「うれしい」

 そんなかわいいことを言っていた。


 だからだろう。母によって浄化と回復をかけられ風呂に入れられさっぱりしたマコは、これまでとはたたずまいが変わっていた。かろうじて残っていた幼さが消え、落ち着いた大人の女性に変化していた。いつもどこかにあった不安定さや焦りが消えていた。自信のある、芯を持った人間に成った。


 ウチの連中にはマコの変化とその原因がわかったらしい。

「よかったな」「おめでとう」と言祝ぎを贈っていた。


「これならマコの護りはなくても大丈夫じゃないか?」

「だな。これだけ強者(ヒデ)の気配をただよわせてたら、低級だけでなく中級も近寄らないだろう」

 俺も同感。


 俺達の意見にマコは驚いていた。

「マコのナカのヒデの気配が『妖魔避け』になるんだよ」

「マコの霊力量は変わってないみたいだけど、気配が変わったから」

「ホラよくマンガとかであるだろ? 後ろにオーラっていうか影みたいなのがゾワワーッて立ち上がってるの。あんな感じにヒデの気配がマコを護ってる」

 最後の定兼の説明でマコは納得した。「ずっとヒデさんが護ってくれてるなんて、うれしい」なんてかわいいことをかわいい顔で言うから死ぬかと思った。


「まあとにかく」

 伊佐治がでっかい手でマコの頭をわしわしと撫でる。

「よかったな」

「うん。ありがとう」


「けど無理はするなよ? あと馬鹿を調子に乗らせたらダメだぞ?」「しっかり手綱を握って、マコが馬鹿を転がすんだ」

 伊佐治まで馬鹿馬鹿言う。


「どうせ俺は馬鹿だよ」

 つい文句を言えば同じようにわしわしと頭を撫でてくれた。


「だから俺達がついてるんじゃないか」

「おまえが馬鹿だから放っとけないんだよ」

「おまえはそういうやつだって俺達はわかってるから。おまえは今のままでいいよ」


 温かな言葉に、()ねていたのが一気に機嫌よくなった。我ながらチョロい。

 チョロい自分が恥ずかしく照れくさく、ジトリと伊佐治をにらみつけた。

 俺の気持ちなんかお見通しとばかりに伊佐治はニンマリと笑う。


「これからはマコに転がされな」

「俺が『転がされる』の前提かよ」

「当たり前だろ」


「わはは」と笑う連中。マコまで笑っている。軽やかな空気がうれしくて、最後は俺まで笑っていた。



 いつもこうだ。ウチの連中は俺が生まれる前からずっとそばにいてくれて、ずっと面倒見てくれた。長命なヤツばかりだから外見も体力面も全然変わらなくて、いつまで経っても、五十年以上経って俺がオッサンになった今だって、連中は俺の世話役で守り役で、俺は連中に庇護される存在。そんな関係が心地よい。安心できる。俺がここまで自分勝手に我が道を行くことができたのもウチの連中が後ろで支えてくれていたから。どんな困難も、どんなにヘコんだときも、連中がいたから乗り越えられた。

 きっとこれからも色々あるだろう。けれど不安も心配も俺にはない。俺にはウチの連中がついていてくれているから。絶対的な味方がいるから。


 そこにマコも加わった。昨夜の術式で遺して逝くことも遺されることもなくなった。俺におそれるものはなくなった。

 これからも研究に邁進しよう。マコを護り共に生きよう。ウチの連中と楽しく過ごそう。



 縁側に出る。眼下の寺の境内に『奥様の桜』が見えた。満開の枝垂れ桜は俺達の未来を祝福するかのようにやわらかく揺れていた。



   ◇ ◇ ◇



 研究所一行滞在三日目。

「せっかく寺に泊まっているから」と、希望者は朝のお勤めに参加。久十郎がついて仏教や宗派の説明や親父の法話を通訳。お勤めのあとは写経をした。らしい。


 前夜も呑んだくれ潰れたオッサン達は布団の海に沈んでいた。どうにか起こし風呂に入れ、全員で朝食。あさりの味噌汁には呑んだくれだけでなく女性達も喜んだ。


 事前のアンナによる希望調査で、この日は数グループに分かれての行動。あるグループは観光へ。あるグループは買い物へ。観劇や伝統工芸体験へ行ったヤツらもいれば在京の知り合いと懇親を深めに個人行動するヤツも。それぞれに警備担当者がついている。


 俺とマコはマット一家に同行。何故か刀剣巡り。事前にアンナから依頼され同行してくれた定兼が生き生きと解説してくれ、マットの息子達と彼女達がキラキラと聞き入っていた。


 数か所目は北野天満宮。まずは本殿に参拝。

「ここは学問の神様が祀ってあるんだよ」そう紹介されたマットが熱心に祈りを捧げていた。

 梅の名所として有名だが、梅はもう終わり。桜には少し早い。そんなある意味残念な時期に来てしまったが、そうとは知らない外国人には関係ないらしい。


「ボクは研究者だから」「今日まで学問にたずさわれたことに感謝をささげたんだ」「可能であれば、これからも学問に邁進できるようお願いした」

 言われれば納得。こういうところがこいつのすごいところで尊敬すべきところだ。改めて俺達も祈りを捧げた。


 アンナが作った『行きたいところリスト』の順に移動していたが「ちょっと休みたい」という奥さんの希望で俺達はベンチで休憩することにした。

 同行していた警備担当者達がサッと動き、奥さんを安全な場所へと誘導。そこに俺達も腰を下ろした。案内してくれた警備担当者達はそのまま少し離れた場所で護衛に立ってくれる。

 刀剣見学の若者達にもひとりついている。まあ定兼がいるから大丈夫だろう。


「疲れたね」「なんであいつらあんなに刀見たがるんだ?」なんて話をしていて、マットが「ところで」と口を開いた。


「ふたりは今後どうするの?」

「研究所にはいつ戻ってくるの?」


 ―――その話がしたくてわざと休憩したのだと察した。


 所長や他のヤツらからも聞かれた。「今後どうするのか」と。そのたびに「トモがもう少し大きくなるまで考えられない」と答えてきた。

 ウチの研究室のヤツらは「早く帰ってきてください」とからんできたし、所長も「マコトくんの採用試験、いつでも受け付けるよ」と言っていた。


 現在のマコはどこにも所属していない。強いて言えば専業主婦。家事育児に従事しているという扱い。けれど実態はいつも数学のことを考えているし、メモや論文を書いてはマットに見せていた。言わばフリーの数学者。

 その内容はマットを持ってしても「一流」と判断されるものだという。だからこそ、誰もが「惜しい」と言う。「研究所で本腰を入れて研究すべきだ」と。


「電話やオンラインでもやりとりはできるけど」

「やっぱり顔を見て目の前でやりとりしたいな」

「通信を通すとセキュリティ面で心配なこともあるし」


 マットの言うことはもっともだ。マコにも腑に落ちるところがあるらしい。目線が下がり迷いが浮かんでいる。


「それに、ちょっとイヤな話も聞いたんだ」


 どうもどこかの馬鹿がマコを狙っているらしい。


「研究所にいればセキュリティ面でも安心だろ?」


 世界的研究者と呼ばれるような優秀な人間を狙うヤツはどこにでもいる。会社や研究所、個人や宗教団体、果ては国の機関まで。そういうのから身を守るためにも家族をはじめとした身近な者を守るためにも力のある組織に所属し守ってもらうのもよくある話。俺の所属している研究所もセキュリティがしっかりしている。

 ひとによっては敢えて一つ所に留まらず世界中放浪している。居場所を確定しないことで刺客の狙いを逸らすため。


 そういう、優秀な人間を狙う連中にとって、今のマコはまさしくぶら下げられた餌。どこにも所属しておらず、平和ボケした国の普通の民家に滞在している。実際には親父や俺を先頭にヒトならざるモノも含めた実力者ががっちり護っているんだが、そんなことは普通の人間にはわからない。だからこそマコを狙う馬鹿が出ると。


「マコトのその才能は『天からの贈り物(ギフト)』だとボクは思っている」

「だからこそ、その才能を活かし世に還元すべきだとボクは思う」

「今の環境でも研究はできるだろうけど、アメリカに戻ったほうがより数学に集中できると思うよ」


「トモのこともあって決めかねてるんだろうけど」


 マット達は『霊力』や『能力者』について知らないから単なる育児環境や教育環境のことだけを言っているのだろう。だがマコの表情からトモのことがマコにとって一番ネックになっているとわかったらしい。


「マコト自身を活かすことも考えてみて欲しい」


 マットの真摯な言葉にマコは黙り込んでしまった。

 沈黙が広がる。サワリと風が木立を揺らした。


「ヒデだってアメリカに戻ったほうがより研究に専念できるだろう?」

「……………そりゃ、まあ」


 答える俺にマコの迷いが深まった。

 思い詰めた表情のマコに、マットは肩の荷を軽くするかのようにポンポンとマコの肩を叩いた。


「まあ、新年度までまだ数か月ある」

「今すぐに決めなくてもいいよ」


「ただ、考えてみて欲しい」

「ヒデとよく話し合って欲しい」


「きみたちが帰ってきてくれるのを待ってるよ」

「強制はできないけど」


 そう言って微笑み、マットは立ち上がった。

「さあ。若い子達はどうしてるかな」「シャーリー、疲れはどうだい?」

「もう大丈夫よ」「ありがとう」


「さあ、行こうか」

 さっきまでの話なんてなかったかのように明るい調子で歩き出したマットのあとをマコとふたりついて行く。難しい顔をするマコの頭をポンポンと叩く。と、悩み迷いまくった目を向けてきた。

「また帰って話し合おう」そっと耳打ちするとうなずくマコ。


 ひとつ解決すれば新たな問題が浮上する。

 研究も人生も案外似たようなもんなのかもな。

 そんなことを思いながらマコと並び歩き続けた。

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