第四十七話 フジの励まし ツヅキの話
俺は、彼女を。
諦めないと、いけない。
頭ではそう理解している。
そうすべきだと。それが彼女のためだと。
それでも涙があとからあとから落ちる。
ココロが『嫌だ』と叫ぶ。
どうしたらいいのか、どうすべきなのか。
わからない。
何もかもわからない。
ココロがぐちゃぐちゃになっている。
頭もうまく動かない。
痛い。苦しい。くやしい。かなしい。
「トモ」
めずらしく強いツヅキの声。
指導役の声に、沈みこんでいた意識が少し外を向く。
「トモ。吐け」
指導役の声で命じるツヅキ。
入社したての頃の力関係がムクリと顔を出してきて、のろりと頭を上げた。
「何があったのか。何を言われたのか。
吐け。吐き出せ。溜め込むな」
『溜め込むな』
その言葉は何故か俺のココロを打った。
涙がボロボロ流れ出てきた。
それでも言葉を出せない俺に、ツヅキが指導役の声のまま聞いてくる。
「彼女に会ったのか?」
『言え』と言外に命じてくる指導役。
「……………会った」
かろうじて、返答できた。
「何があった?」
「……………」
「何を言われた?」
指導役は逃してくれない。
厳しい声で「トモ」と呼びかけてくる。
『言え』と命じてくる。
だから、仕方なく、仕方なく、口を、開いた。
「……………『もう』、」
「『もう』?」
「……………『もう、会わない』、って」
「「―――」」
「……………『さようなら』、って」
ひっく、ひっくと詰まりながらそれだけ言ったらまた涙があふれた。
口にしたことで改めて彼女と別れなければならないと突きつけられた。
「ゔうぅぅぅ」と嗚咽が漏れる。情けない。
こんな情けない男だから彼女のそばにいられないんだ。
こんな弱っちい男だから彼女の負担になるんだ。
「――もっと詳しく説明しろ。
なんで彼女はお前との別れを言い出した? 何があった?」
指導役は厳しい声で責め立てる。
だから、情けないと理解していても、白状するしかなかった。
どうにか頭を上げると、童地蔵が目に入った。
机の上の定位置からじっと俺を見つめていた。
『大丈夫』
そう言って見守ってくれているようで、また涙か落ちた。
『大丈夫』
童地蔵がそう言ってくれるから。
背中をなでてくれるから。
それに励まされるように、震える口を開いた。
「俺が、弱いから」
「弱いから、なんだ」
ツヅキもフジもなにも言わない。
ただ黙って話を聞いてくれている。
「彼女の負担に、なる」
「彼女の、そばに、いられ、ない」
そう。俺が弱いから。
俺が弱いから、彼女は俺まで背負ってしまう。
俺が弱いから、彼女に信じてもらえない。
どれだけ必死で訴えても。
どれだけ『好き』と言っても。
彼女は信じてくれない。
俺が気を遣って、同情や親切心でそんなことを言ったと思っている。
「『自分が俺のそばにいたら俺が不幸になる』って。
だから『もう会わない』って」
「『好き』って言ったけど。
『そばにいたい』って言ったけど。
全然信じてくれなくて。
同情やなぐさめでそう言ってるって思ってて」
「俺、彼女を、彼女のココロを、動かせなかった。
信じてもらえなかった」
「俺が、弱いから」
「『彼女のそばにいても大丈夫』って、言い切るだけの、実力がないから」
「信じてもらえるだけの、強さが、ないから」
自分の吐き出した言葉が刃になって俺を斬り裂く。
顔を覆って涙を、嗚咽をこらえようとするけれど、あとからあとからあふれて止まらない。
情けない。こんなだから彼女に信じてもらえないんだ。
わかっていても止まらない。
「ゔうぅぅぅ」と嗚咽がもれた。
「『諦めろ』って、言われた」
ひとつ吐き出したら、他もポロリとこぼれた。
『吐き出せ』『溜め込むな』
さっきのツヅキの言葉に甘えるように、ポロポロと胸の中にあった言葉を吐き出した。
「『これ以上はお前が苦しいだけだ』って」
「『お前達二人がいることはどちらの利にもならない』って」
「俺では、今の俺の実力では、彼女の隣にいられない」
「彼女の負担が増えるだけだと」
「これ以上彼女に負わせるなと」
ツヅキはなにも言わない。
フジもなにも言わない。
何の反応もないのに、ふたりが俺の話を聞いてくれているとわかる。
俺のこの痛みを受け止めてくれているとわかる。
ありがたくてまた涙が流れた。
ありがたくてまた甘えて言葉を吐き出した。
「彼女を守りたいのに。
俺は、俺の存在は、彼女の負担にしかならない」
「そんなの、望んでないのに。
俺が彼女を守りたいのに。
彼女の背負っているものを少しでも軽くしたいのに」
「俺は、彼女の、――邪魔、でしか、ない」
俺自身の吐き出した言葉が俺を痛めつける。
それに耐えるように、ぎゅっと固く目を閉じる。拳を額に押し付ける。
「俺は、そんな俺が、――許せない」
こんな自分、いらない。
彼女の邪魔でしかないなら。
彼女の役に立てないなら。
こんな自分、いらない!
ドッと涙があふれ出た。
「ぐうぅ」と嗚咽を飲み込んだ。つもり。
なのに、あとからあとから嗚咽は喉の奥から勝手に這い出てくる。
「無理だって、言われた。
彼女の責務の手助けができるレベルになるのはそう簡単なことじゃないと。
今の俺では到底無理だと」
「彼女の邪魔はしたくない。
彼女の重荷になりたくない。
彼女を苦しめるものに、なりたくない」
「俺の存在が、彼女を苦しめるならば」
「俺は」
「彼女を、諦めないと、いけない」
絞り出すように言葉を吐き出した。
吐き出した途端に自分の出した言葉が俺を打ちのめす。
重くて、苦しくて、机に突っ伏した。
重ねた腕の上に頭を乗せた。
袖が濡れる。
閉じた瞼の裏に、彼女の笑顔が浮かぶ。
やさしい笑顔。かわいい、愛おしい、俺の好きなひと。
もう会えない。会っちゃいけない。
彼女の重荷になりたくない。
彼女を苦しめたくない。
ぎゅう。拳を握って、必死で嗚咽をこらえる。
「――くやしいなぁ」
笑おうとしたけれど、かすれた、弱々しい声が出た。
「彼女のそばにいたいだけなのに。
彼女を、守りたいだけなのに」
「俺が、俺の存在が、彼女を苦しめる」
「彼女のそばに、いられない」
「――くやしい――」
くやしい。
くやしい。くやしい。くやしい。
わからず屋の彼女も。
弱っちい自分も。
情けない自分も。
くやしい。くやしい。くやしい。
守りたかった。そばにいたかった。
ただそばにいられるだけで『しあわせ』なのに。
『災厄を招く』『不幸になる』なんてことないのに。
なんでわかってくれないんだよ。
なんで信じてくれないんだよ。
わかってる。俺が弱いから。
信じてもらえるだけのチカラがないから。
くやしい。
情けない。
情けなくて、自分を抱くように身を縮めた。
頭を乗せた袖に、机に、涙のあとが広がっていく。
こんな女々しい男じゃ、彼女のそばにいられない。
そう思っていても涙は止まらない。
「――それでいいのかよ」
ポツリと聞こえた声はフジのものだった。
意味がわからなくて黙っていたら、フジは続けた。
「諦めるのかよ」
ムッとした、怒ったような声。
と思ったら、突然フジが叫んだ!
「諦められるのかよ!」
バン!
机でも叩いたのか、大きな破裂音が響く。
「そんなモンなのかよ! お前の彼女に対する想いは、そんなモンなのかよ!?」
「仕方ないじゃないか!」
吼えるフジにあおられ、ガバッと身体をおこし吼える。
「俺では、彼女のそばにいられない!
実力が足りない。彼女に、全然敵わない。
俺がそばにいれば、彼女は俺を守ろうとする! 負担が増える! それでなくても責務があるのに!
これ以上、彼女に背負わせたくないんだ!」
「だからって諦めるのかよ!」
尚もフジは激しく吼える。
強い言葉は熱い炎のよう。
「諦めんなよ! 今からだって、できることはあるだろう!?
今足りないなら、今から実力をつければいい。
今不足があるなら、今からどうにかすればいい!
今ダメだからって投げ出したら、そこで終わりだろ!?
諦めんな! 投げ出すな! しつこく、しぶとく喰らいつけ!」
俺だってそう思った。
俺だってそう願った。
でも、駄目だった。
全然足りなかった。基本的なレベルがちがった。
どれだけ足掻いても、どれだけ努力しても、彼女のそばにいられるだけのレベルにはなれない。
あの鬼との戦いは、それを俺に見せつけた。
残酷なほどに。
『もう会いません』彼女が笑う。
彼女は、俺といると苦しむ。
彼女は、俺がそばにいることを望んでいない。
望んでいない。
「――彼女は、望んでいない」
「知るか!」
バッサリと。
フジは俺の言葉を斬り捨てた。
「相手の都合なんて知るか!
大事なのは『お前』だろう!?
『お前の気持ち』だろう!!
諦められないんだろう!? それなら、諦めるな!!」
強い言葉。激しい言葉。
ただの音声なのに、フジの熱い気持ちや熱量が迫ってくるようだった。
熱い熱いフジのチカラが俺をあたためる。
ボロボロになったココロに火を灯す。
「今ダメだからって、この先もダメだとは限らない!
諦めるな!
諦めなければ、願い続けていれば、いつか必ず『願い』は叶う!」
「―――!!」
ポロリ。
涙が落ちた。
でも、さっきまでの情けない涙じゃない。
熱くて、強くて、俺の弱気を押し流すよう。
フジの熱が俺のナカに注がれる。
その熱が俺のナカの弱気や情けない気持ちを隅に追いやる。
『諦めるな』
『諦めるな』
ボッ、ボッと、炎がゆらぐ。
ボロボロボロッ。涙が落ちる。
なにも言えずただしゃくりあげていた。
フジは俺が落ち着くのを待ってくれているようだった。
そっと、ツヅキが声をかけてきた。
「――ぼくの話をしてもいいかな」
なにかと意識を向けると、ツヅキはしずかに話し始めた。
「ぼくとぼくのパートナーってね」
「いわゆる『敵同士』の家に生まれたんだ」
ツヅキのそんな話は初めてで、びっくりして涙がひっこんだ。
俺が十歳のとき、タカさんの紹介で試験を受けて合格したのが今のホワイトハッカーの会社。
そのとき同期で入社したのがフジ。
俺とフジの指導役として組まされたのがツヅキ。
ツヅキに色々指導されながら色々なことを学んでいった。
三人ウマが合って、指導期間が終わったあともなんだかんだと連絡を取り合っていた。
そのうち三人で組んで仕事をすることになり、社内でも最強チームのひとつに名を挙げられるレベルになった。
もう六年の付き合いになる。
個人情報を明かさない社外SEの俺達だから、お互い本名も住所も知らない。年齢も知らない。現実で会ったこともない。
それでも俺は友達だと、かけがえのない仲間だと思っている。
六年の間、共に色々な仕事に携わった。
その合間の雑談で、お互いの家族構成や日常生活やらをポロリと話すことがあった。
フジは東京で両親と暮らしている社会人。
ツヅキは名古屋でパートナーとふたり暮らしと聞いていた。
パートナーの仕事が時間的に不規則だから、自分は時間が自由になるフリーのエンジニアをしていると聞いたことがある。
ツヅキは共に暮らす女性のことをいつも『パートナー』と呼んでいる。
「籍は入れてないから『妻』じゃない」と。
「なんで?」と聞いたこともあるけど「色々あってね」とはぐらかされていた。
それでもツヅキが『パートナー』と仲睦まじいことは言葉の端々から感じていたから「まあいいか」とそれ以上突っ込むことはなかった。
「初めて会ったときからお互いに惹かれていた。
でも、敵対する家の子だから近寄ることもできなかった。
ぼくがどれだけ彼女と話がしたくても、周囲が許してくれなかった」
「何度も諦めようと思った。
何度も不毛だと己を嘲笑った。
それでも諦められなくて、苦しくて苦しくて、悩んで悩んだ」
「家を捨てようと思った。でもそれは叶わなかった。
ロミオとジュリエットみたいに死んだようにみせかけようかとも思った。でもそんなことうまくいかなかった」
「彼女に会いたくて、話をしてみたくて、でもそんなことできなくて、遠くからでもちらりとでも一目見れただけで有頂天になった。
一瞬でも目があったらそれだけでしあわせだった」
「もう誰も好きにならないと思った。
彼女が手に入らないならば、生涯独身でいようと決めた。
そのくらい、絶望的な状況だった。――でも」
「彼女の家が傾いた」
「彼女は『名家のお嬢様』でなくなり、ぼくの家と彼女の家は『敵同士』ではなくなった。
ぼくの家はぼくの家で業績が悪化したり色々発覚したりで危なくなって、そのどさくさでぼくも家から逃れることができた」
「そうして、偶然、彼女と再会した」
「――何百年も変わらかったことでも、どうにもならないと見通しなんか全く見えないようなことでも。
ある日突然、変化することがあるんだ」
「諦めなければ。願い続けていれば。努力し続けていれば。
『願い』は叶うことも、あるんだ」
ツヅキは淡々と語った。
淡々としながら、タブーとも言えるほどの個人情報を開示した。
調べようとすれば個人を特定できるほどの情報。
それを開示することの危険性。
それがわからないツヅキじゃない。
これまでだって俺達がうっかり個人情報に繋がりそうなワードを言いそうになったら止めてくれていたのはツヅキだ。
それなのに、それだけの話をしてくれた。
俺のために。
『諦めなくてもいい』と。
『願いは叶う』と。
たったそれだけを伝えるために。
俺を、励ますためだけに。
ポロポロポロッ。
涙がこぼれた。
うれしくて。ありがたくて。あたたかくて。
「ふうぅぅぅ」と嗚咽がもれた。
あわてて顔をおおったけれど、嗚咽も涙もあとからあとからあふれ出る。
「どんなに絶望的な状況でも。どれだけ先が見えなくても。
強く強く願っていれば。
諦めさえしなければ。
『願い』は叶うことも、あるんだ」
「ぼくはそれを知っている。
ぼく自身それを体験した」
「だから、トモも諦めるな」
「いつか『変化』が起きたとき。
そのチャンスを逃すことなくつかめるように。
諦めるな。努力し続けろ。願い続けろ」
「『願い』は、いつか、叶うこともある」
『願い』は『叶う』と断定するのでなく『叶うこともある』と言うあたりがツヅキらしいと思った。
そう思ったらなんだかおかしくて、笑おうとした。なのに出てきたのはやっぱり涙と嗚咽だった。
「ふぐうぅぅ」
ボロボロボロボロ泣いて、えぐえぐと嗚咽をもらした。
情けない。女々しい。
自分でもそう思うのに、泣けば泣くほど元気になるような気がした。
泣いている間、フジもツヅキもなにも言わなかった。
俺が落ち着くのを待ってくれているのがわかって、俺を思いやってくれるのがありがたくて、また泣いた。
泣いて泣いて、もういい加減泣きすぎてアタマがボーッとするくらい泣いた。
でも、吐き出したおかげか、ふたりが励ましてくれたおかげか、なんだかスッキリしていた。
グズグズと鼻をすすりながら、ポツリとこぼした。
「――俺」
机の上の童地蔵が笑っている。
『大丈夫』と励ましてくれる。
「諦めなくても、いいかな」
「いいよ! いいに決まってるだろ!」
即答するフジ。
反応速度早すぎかよ。熱いヤツだなあ。
そんなフジに思わず「フフッ」と笑いがこぼれた。
ああ。俺、笑ってる。
そのことがなんだかうれしくて、また涙が落ちた。
ツヅキもクスクス笑って言った。
「『諦めたフリ』をしとけばいいんじゃないか?」
『諦めたフリ』。『フリ』。
諦めたように見せかけて、その実、諦めることなく努力して願い続ける。
そうして、『その時』にそなえる。
「――なるほど」
ツヅキのアドバイスはスコンと俺のナカにおさまった。
「『諦めたフリ』をしておいて、その間にチカラをつけておけばいい。
いつ変化が起きても対応できるように」
「――なるほど」
納得しかないアドバイスに涙もひっこんだ。
やるべきことを示されて、少しシャキッとした。
俺の声色が変わったのがわかったのだろう。
ツヅキも、フジもホッとしたのがわかった。
「――ありがとう」
ポロリとこぼすと、フジは「別に」とつっけんどんに言い、ツヅキは「大したことはしてないけどな」と笑った。
ありがたくて俺もまた笑った。
「とにかく、今は休め。
何をするにもまずはアタマとココロと身体が健康でないと。
しっかりごはん食べて、しっかり寝ろ。
で、元気になったら、またそこからがんばればいい」
「ああ」
ツヅキのアドバイスに素直に返事をする。
そうだ。まずは元気にならないと。
元気になって、そうしてまたイチから修行しよう。
彼女のレベルには全然届かないとわかっているけれど、何もしないよりはマシなはずだ。
『どうせ無駄だ』といじけて何もしないままでは何も変わらない。
諦めず修行すれば、一ミリでも、ほんのわずかでも、前に進める。はずだ。
「――フジ。ツヅキ。ありがとう」
自然に言葉がこぼれた。
感謝があふれて言葉になったようだった。
「俺、諦めない。
彼女を、追いかける。
今は全然駄目だけど、いつか、彼女のそばにいられるように、がんばる」
宣言すると、また少し元気になる気がした。
諦めない。がんばる。
彼女のそばにいられるように。
『青羽』の話を思い出した。
十歳で彼女と出会った『青羽』。
弱っちくて、たった一月しか彼女と過ごせなかった。
でもそのあと十五年必死で修行して、転生した彼女の護衛をしようと向かっていた。
『青羽』は、諦めなかった。
諦めず修行して、国でも指折りの退魔師になった。
俺だって。
俺だって、できる。はずだ。
前世でやったんだ。今生だってきっとできる。
俺は今十六歳。
『青羽』が彼女と再会したときは二十五歳。
『智明』が彼女と出会ったのは二十八歳。
あと十年ある。
あと十年修行すれば、きっと彼女のそばにいられる程度には強くなれる。
十年で足りなければ二十年。二十年で足りなければ三十年。
諦めなければ、願い続けていれば、いつかきっと。
きっと、彼女のそばにいられるくらいに強くなれる。
机の上の童地蔵が笑っていた。
『大丈夫』『がんばれ』
そう言って励ましてくれる。
うん。がんばる。
手を伸ばして頭をなでる。
童地蔵は彼女そっくりのやさしい顔で微笑んだ。