挿話 篠原真と『運命の番』11
みんなが帰国して、どこか足りないような、それでもやっぱり分刻み秒刻みの日々を送っていた。
大学は冬季休暇に入った。ウチのハウスキーピング以外のバイトを入れようかとも思ったけれど、みんながいない状況でボクひとり外出するのは「ダメ!」ってみんなにもヒデさんのお母さんにも止められた。
アンナさん達も冬季休暇はご実家に帰ったりイベントに参加したりでいなくなるから、昨年同様ひたすら勉強することにした。
本を借りて片っ端から読む。学校の課題をする。ハウスキーピングのバイトをする。数学賞のことを考える。マット先生の研究室にお邪魔してお手伝いをしながらいろんな話をすることもあった。
◇ ◇ ◇
明日から研究所も冬季休暇に入る。
どこかウキウキした、それでもギリギリまで粘ろうっていう空気を感じながらマット先生の研究室の大掃除を手伝っていた。
研究所は行きも帰りもヒデさんと一緒。「ヒデと一緒なら出かけてもいい」ってみんなからもヒデさんのご両親からも許可をもらってる。週に二日は一日研究所にいる日と決めてお邪魔してる。
そんな研究所も明日からお休み。いつもは数学賞についての考察をするんだけど、ふたつめの賞に応募した直後だったから、今日はいらない書類をせっせとシュレッダーにかけていた。
そのとき。
「先生! マコト!」
いつもは落ち着いてる担当事務員のホセさんが、大慌てで戻ってきた。
何事かとみんなが注目する中ホセさんが震える手でボクに封筒を差し出した。
「―――これ―――」
封筒に書いてある名前で、わかった。
最初に応募した、数学賞の結果通知。
「―――開けてごらん。マコト」
先生がやさしい声でペーパーナイフを差し出してくれる。
きっとダメだろう。だって初挑戦だし。ボクまだ若いし。
そう予防線を張りながらもドキドキと落ち着かない。手が震える。机に封筒を押しつけるようにして、慎重に、慎重にナイフを進めた。
ドキドキしながら封筒に手を入れて、中の紙を引き出す。先生も、他の研究員のみなさんも、ホセさん達も、みんなが固唾を飲んでボクを見つめてる。
えいやっ! って紙を引き出し、机に叩きつけた。怖くて目が開けられない。それでもどうにか瞼を動かして目を開いた。
「「「――――――」」」
ボクも、マット先生も、他の皆さんも、唖然としてその紙を見つめた。
『最優秀賞』
そう、読める。
「―――」
目をゴシゴシこすってみる。やっぱり『最優秀賞』って読める。あれ? ボク、英語力落ちたのかな? ちょっと、意味が、わかんない。
最 優 秀 賞?
最優秀 賞 ?
「―――最優秀賞―――」
誰かのつぶやきが、じわりと、頭に、染み込んだ。
「「「――――――!!!!!」」」
マット先生のまんまるほっぺが赤く染まる。丸い目がこぼれそうなくらいまんまるになってる。ジムさんも、ホセさんも、ダンさんも声にならない声を挙げる。
全員が息を飲んだ、一瞬の静寂。
「「「うわあああああああ!!!!!」」」
ドワアーッ! 波しぶきみたいな歓声が部屋を包んだ!
「ウソ! ウソ!? ホントに!?」
「やったなマコト!!」
「とんでもないことしやがった! 最年少受賞だ!!」
「初挑戦即受賞だと!? おまえふざけんなよ! 良くやった!!」
戸惑うボクにみんなが代わる代わる頭を撫で肩を背を叩く。すぐにバンザイの唱和になった。
みんなの喜ぶ様子に、ようやく受賞を実感した。
「マコト」
マット先生がやさしい笑みを浮かべて両手を広げていた。迷うことなくその胸に飛び込んだ。
「せんせえ! せんせえ!」
「良くやったねマコト」「きみは自慢の子だ」
「良く書けてると思ってはいたけれど、まさか最優秀賞を獲るなんて………!」
「これできみも一人前の数学者だ」
「おめでとう」
「おめでとうマコト」
頭を、背中を、撫でてくれるその手があたたかくて、なんでか涙がこぼれた。
「先生のおかげです」「皆さんのおかげです」「ありがとうございます」「ありがとうございます!」
先生から離れてお辞儀をすれば万雷の拍手が響き渡った。
扉が開けっ放しだったからか、事務員ネットワークがあるのか、アンナさんとクリスさんが飛び込んできた!
「マコト! どうだった!?」
「最優秀賞!? ウソでしょ!」
「すごい! すごいわマコト!!」
きゃあきゃあとおふたりからハグされて、泣きながら笑った。「ありがとうございます!」って何度も叫んだ。
誰かが報告に行ったのか、研究所の所長さんはじめ偉いひとが何人も来た。
「ドングリが大木に成ったね」「たまにこういうことが起こるんだ」「これだから指導者はやめられない」
そう言って所長さんも「よくやった」って褒めてくれた。
「こうしちゃいられない! お祝いパーティーだ!」
誰かが言い出した。
「急いで片付けるぞ」「デリバリー注文しよう」「ここでやるのか?」「いいじゃないかここで」
ワイワイと賑やかな皆さんにうれしくてニコニコしてたら。
「マコト」
アンナさんが真面目な顔で声をかけてきた。
「あれから一年間。マコトはいろんな経験をしたわ」
「たくさんのひとと出会った。男性にもたくさん出会った」
「そのうえで、聞くわ」
まっすぐな眼差しに背筋が伸びる。ピリ、と空気が張り詰める。
「マコトが好きなひとは、誰?」
鏡のようなアンナさんの瞳にボクが映る。アンナさんはボク自身に答えを出させようとしてくれる。ボクの背中を支え押してくれる。
この一年、いろんな経験をした。そのほとんどを導いてくれたのはアンナさん。ボクを成長させてくれたひとが、今、ボクの気持ちを確認する。言葉に出さないその意味が伝わってくる。
息を吸い、吐いた。胸に手を当てココロを落ち着ける。
瞼を閉じる。浮かぶのは青空のようなひと。御神木のような、ボクの唯一。
ゆっくりと瞼を開き、アンナさんの目をまっすぐに見つめた。
「ヒデさんです」
迷いなく、はっきりと答えた。
「この一年、たくさんの方に出会いました」「どなたも尊敬できる、素晴らしい方だと思います」
「けど、ボクが『異性として好き』なのは、ヒデさんです」
「ヒデさんだけが、ボクの唯一です」
「それは変わりません」
「………そう」
アンナさんはニッコリと微笑んだ。満足そうなその笑みに、ボクもつられて笑顔になった。
「それなら、これからなにをすべきか。わかってるわね?」
「―――はい!」
ヒデさんのお母さんが言っていた。『この数日でボクの運命が大きく動く』『後悔しないように、機会を逃さないように、足掻きなさい』
きっとこのことだ。
今日が、今この瞬間が、チャンスなんだ!
「ヒデさんに、告白します!」
後悔しないように、機会を逃さないように、足掻く!
決めたらもう止まれなかった。受賞報告の書類を手にヒデさんのもとへ駆け出した。
◇ ◇ ◇
「西村秀智さん」
「あなたが好きです」
「ボクの唯一になってください」
驚くヒデさんにボクのココロを伝えた。
なにひとついつわることなく、正直に。
このココロすべてさらけ出すつもりで。
マット先生もほかのひともたくさんいたけど、関係ない。今を逃せばきっとチャンスが逃げてしまう。だから堂々と、胸を張って告白した。
ヒデさんの答えは「一旦保留」。そりゃそうか。ヒデさんの性格上、受けるにしても断るにしても、これだけギャラリーがいる中で答えを即返すことはない。
けど、『今だ』って思ったんだ。
『今がお母さんの言ってた瞬間だ!』って。
だから、どんな結果になっても後悔はない。ダメだったらまた挑戦すればいいだけだ。
頭を抱えるヒデさんにマット先生が色々話してくれた。聞いてるボクも感動して涙ぐんだ。なんていいひとなんだろう! 仏様とか神様とかじゃないだろうか! マット先生の大きな身体に抱きついて何度も何度も「ありがとうございます」って言った。
「さあさあ! ちゃっちゃと片付けて受賞パーティーをするよ!」
空気を変えるように明るく先生が言い、みんなで動き出した。「よくやったわね!」「がんばったね!」っていろんなひとが褒めてくれた。
ヒデさんの研究室を出てマット先生の研究室へと向かっていた。そのとき。
「ちょっと待ちなさいよ!」
突然の女性の叫び声に足が止まった。
振り返るとヒデさん達と同年代の金髪の女のひとが肩をいからせていた。
このひと、知ってる。
アンナさん達が「ヒデさんガチ勢」「ガチ勢の中でも一番ヤバいひと」って言ってたひとだ。
ヒデさんの研究室のスタッフさん。「大学時代からずっとヒデを追いかけてる」「『色恋』を見せたら拒絶されると知ってるから隠して、ヒデにずっとつきまとってる」ってみんなやマット先生が言ってたひとだ。
そのひとが、足を止めたボクにツカツカと近寄ってきた。
至近距離まできて腕を振り上げた。ぶたれるってわかったからサッと避けた。
「避けんじゃないわよ!」
「避けますよ」
「なんで大人しくぶたれないといけないんですか?」
ボクらと一緒にいた男性研究員さんに拘束されても金髪女性はわめきちらす。
「なによ! 勝手なこと言って!」「ヒデはみんなのものなのよ!」「誰も好きにならない! 孤高の存在なの!」「アンタみたいなポッと出の小娘が」「ちょっと気にかけてもらってるからって、いい気になるんじゃないわよ!」
「アンタがヒデのなにを知ってるって言うのよ!」「ヒデはずっと研究一筋なんだから!」「邪魔しちゃいけないって、わからないの!?」「ヒデの善意を利用して! 卑怯者!」「姑息なことして!」「私がどんな気持ちでそばにいたか、知らないくせに!」
「知りませんよ」
はっきりと答えると女性は息を飲んだ。またカッとしてなにか言おうとするからそれより早く叩き込む。
「あなただって、ボクがどんな気持ちでいたか、知りませんよね?」
「あ、当たり前じゃない!」
「じゃあボクだって知りませんよ」「そうでしょう?」
ニッコリ笑ってあげたら、なんでか女性のまわりにいたひと達が一歩引いた。なんでだろ?
なにか言おうとする女性に一歩近寄り、まっすぐにその目を見据え、告げた。
「ボクはなにも卑怯なことはしていない」
「誰に対しても、恥じることは何ひとつしていない」
「ボクはボクの想いを告げただけ」
「誰にもとやかく言われる筋合いはない」
場がシンとする。目の前の女性は顔色か悪くなっていく。自分が悪いことしたって気がついたのかな?
ひとつ息をつく。少し落ち着いた。さすがのボクもムカついたから、ちょっと言い方キツかったかもしれない。
改めて金髪女性の目を見据え、言った。
「そんなに文句があるならあなたも行動すればよかったじゃないですか」
「なにもせず、不満をためて筋違いの文句をつけるあなたのほうが、よっぽど卑怯で姑息ですよ」
まだ怒りが残ってるな。キツい言い方になっちゃう。けど言いたいこと言ったから後悔はない。
「………アンタは勝算があるからそんなこと言えるのよ」
「そうですよ」
悔しそうに絞り出す女性にはっきり答えた。ギョッとするけど、なんでだろ?
「当たり前じゃないですか」
「勝算もないのに突撃するなんて、そんな特攻じみたことするわけないじゃないですか」
「相手を調べて、戦略を立てて、対策を練って力をつけて根回しをして、そうして勝算があると判断してからするもんでしょ? 勝負って」
ボクの説明に金髪女性は呆然としている。拘束してくれてる男性達まで驚いて拘束ゆるんでる。けど誰も気付いてない。そんなにおかしなこと言ったかな?
「自分はなにひとつ行動していないのに他人に文句だけ言うなんて、それこそ『言いがかり』でしょう」
「こんな歳下に言いがかりつけて、そちらこそ恥ずかしくないんですか?」
わざと侮辱するように言えば金髪女性はカッとした。なにか叫ぼうとするからそれより早く叩きつける。
「文句があるならあなたも告白すればいいじゃないですか」
金髪女性はわかりやすく顔色を変えた。
みんなが、マット先生が言っていた。ヒデさんは告白してきたひと――異性としての好意を向けてきたひとに対して、軽蔑して距離を取る。このひとは『好き』って示したら拒絶されるって他のひとの例を見て知ってるから、そはにいるために自分の気持ちは隠してるって。
「ボクはボクの気持ちを伝えただけです」
「ヒデさんがどう受け取ってくれるか、どう反応するか、それはヒデさんの自由です」
「あなたがヒデさんに告白するのも、告白して玉砕するのも、黙ってこのままの関係を続けるのも、それはあなたの自由だ」
「どうぞご随意に」
ニッコリ笑って話を終わらせた。金髪女性はなにも言わなかった。きびすを返しマット先生の研究室に向けて歩き出した。なんでかいろんなひとが「やるな」「カッコよかった!」って褒めてくれた。よくわかんないけど褒めてくれてるから「ありがとうございます」って笑顔を返した。
マット先生の研究室で急遽『受賞おめでとうパーティー』を開催してもらい、今後のスケジュールについて説明を受けた。年明けに受賞式があるって。研究所の会報にも載せたいって。ゼミの先生にはさっき電話で報告した。大学には先生から報告してくれるって。
今回ボクが挑戦した数学賞は『若手数学者の登竜門』と言われているもので、そんないきなり応募即受賞なんて「普通はあり得ない」らしい。それもいきなり最優秀賞なんて「考えられない」。だからこそ指導したゼミの先生とマット先生の名声も上がるし、所属してる大学と研究所の名声も上がるだろうって。
ボクが受賞したことが皆さんの得になるならボクもうれしい。たくさん迷惑かけてきた自覚はあるもん。
アンナさんクリスさんはじめ『文芸部』の皆さんもパーティーに顔を出してくれた。ヒデさんのところに押しかけて告白したのも、そのあと金髪女性と対峙したのも皆さんのぞき見してたとかで「よくやった!」「カッコよかった!」とすごく褒めてくれた。
「マコトはこの一年ですごく成長したわね」アンナさんが頭を撫でてくれる。
「あんなにはっきり意見が言えるようになるなんて」「どんな相手にも臆することなく堂々として」「ホント見違えたわ」文芸部の皆さんも褒めてくれる。
「ホント初めて会ったときとは大違いだよね」マット先生も笑う。
「若いひとの成長はすさまじいね」「日本にいたときの知り合い、今のマコトを見てもマコトってわからないんじゃないかな?」
「『鯉が龍に成る』というヤツだね」マット先生のそばにいたオジサンがウンウンてうなずく。
「さあマット。こんなすごい人材をどう育てたのか話してもらおうじゃないか」
「ボクはなにもしてないよ。マコトがヒデを振り向かせようと努力しただけだよ」
オジサン達で話が始まったのをよそに、アンナさん達は「帰ってからが勝負よ!」ってボクに迫り色々アドバイスしてくれた。
「いきなりセクシー下着は刺激しすぎだろうから、あの白いドレスでお出迎えしなさい」
「お出迎えはコート着て隠しといて、告白する瞬間にドレスになるのがいいんじゃない?」
「素敵! それ、採用!」
あのぅ。採用するかどうか決めるのはボクのはずですが? でも素敵なので採用します。
「西村先生のあの堅物ぶり! 萌えるわ〜!」
「堅物を籠絡するのがいいのよね!」
「フィクションでハッピーエンド確約ならそれもいいけど、現実で堅物は面倒よー」
「あの調子なら籠絡は難しいかもよー?」
「なら最終手段! 身体から堕とす!」
あのぅ。皆さん、酔ってますか??
「あれは絶対ムッツリよ」
「ヤッちゃえヤッちゃえ!」
「西村先生の純潔を奪うのよ!」
やっぱり酔ってるのかも。誰ですかお酒出したの。
見ればあっちにもこっちにも酔っ払いが出来上がっている。マット先生までこっちの話にノッてきて下世話な話をしだした。真面目な事務員のダグラスさんまで大笑いで同調してる!
「西村先生が堕ちるか賭けよう」「そんなの賭けが成立しないだろ!」「ワハハハハ!」
皆さん楽しそうですね。ていうか、皆さんボクが女の子だって知ってるんですね。
「まずはキスからよ」
「やさしく迫るのよ」
「こうよ」ってクリスさんがキスしてこようとするからあわてて逃げた。
ああだこうだと色々聞かされ、アンナさんからは「帰ってすぐに飲みなさい」って避妊薬を渡された。
◇ ◇ ◇
酔っ払ってゴキゲンになったマット先生のためにアンナさんがレットさんを呼び出した。「ついでにマコトも乗って行きなさい」「西村先生には伝言しとくから」って誘ってくれて、ヒデさんとは別で帰宅した。
マット先生はボクが受賞したのが「本当に本当にうれしい!」って、何度も何度も「おめでとう!」って言ってくれた。
「あのマコトが」「こんなに素敵な人間に成長するなんて」「ボクは間違ってなかった」
酔っ払いのマット先生は車の中でずっとしゃべってた。
「数学オリンピックで初めてマコトを見たとき、『陰の薄い子だ』って思ったんだ」「『この子は生きる意味を知らないんじゃないか』って」「気になって話を聞いたら、才能をドブに捨てるようなことを言う」「周囲も、本人も、それを『仕方ないこと』と受け入れてるのが、くやしくて」
「どうにかしてやりたくて半ば無理矢理アメリカに連れて来たけど、マコトはどんどん体調悪くなって」「『もしかして、ボクがしたことはただの自己満足だったんじゃないか』って思ったこともあるんだ」「『ボクが余計なことを言わなければ、マコトは日本でそれなりにしあわせだったんじゃないか』『こんな異国で苦労することなかったんじゃないか』って」
「けど、ヒデが言ったんだ」
「『よくぞあの子を守ってくれた』って。『この国に連れて来てくれて、俺に引き合わせてくれてありがとう』って」「『おまえのおかげで、あの子と俺、ふたりの日本人が救われたよ』って」
「あのヒデが」
「『ボクのおかげだ』って。『救われた』って」
泣き笑いのマット先生。ボクは後部座席からななめ前の先生をただ見つめるしかできなかった。
「マコトから『ヒデが好きだ』って告白されたとき。どうあきらめさせようかと思ったんだよ」
「だって年齢が違いすぎる。マコトは若すぎる。若さから来る思い込みと無謀さだって思ったんだ」「それに、ヒデがこれまで好意を示した人間に対してどう対応してきたか知ってるから、マコトが不幸になる未来しか浮かばなかった」
「けど、ふと思い出したんだよね」
「ヒデが言った、『救われた』って言葉を」
「『もしかしたらマコトがヒデの運命の女性なんじゃないか』って、そのときひらめいたんだよ」
「正解だったね!」
「ヒデのあの顔! マコトに『好き』って言われて、めちゃめちゃ喜んでたよね!」
「絶対『俺も!』って受け入れると思ったのに」
「ヒデは『カッコつけ』だから」
「アハハハハ!」って大笑いして、マット先生はさらにしゃべる。
「ボクはふたりのキューピッドだ」
「ずいぶんと歳を取った、太ましいキューピッドだけどね」
「少しはヒデへの『恩返し』になったかなあ」
どんな『恩』があるのかは語らず、先生は大きく息を吐いた。
「―――マコトは本当によくがんばった」
「どんな天才も磨かなければ『ただのひと』だ」
「どれだけ価値のある宝石だって、掘り出して磨かなければ『ただの石』なのと同じ」
「人間も、磨かなければ才能の発露はない」
「こんな短期間で己を磨きあげた」
「その努力だけでも賞賛に値する」
先生の賞賛に目の奥が熱くなる。鼻の奥がツンとする。ギュッと握った拳に、隣に座るアンナさんがやさしく手を重ねてくれた。
「無理矢理にでも、連れて来てよかった」
「あんなに堂々と意見が言えるようになるなんて」
「ホント子供の成長は目を見張るものがある」
「あんなに『自己』が薄かったあの子が」
また涙ぐみだした先生に、どれほど気にかけてくれていたのか、どれほど愛情を注いでくれていたのか改めて理解した。
「―――先生のおかげです」
思わず、声をかけていた。
「先生がボクにチャンスをくれたからです」
「先生がボクをこの国に連れて来てくれたからです」
「ヒデさんに出逢えたのも、今日までがんばれたのも、全部全部先生のおかげです」
「ありがとうございました」
ゆっくりとこちらを振り向く先生は、顔だけじゃなく目まで真っ赤になっていた。
「この勢いで、今夜ヒデさんを堕とします」
「ボクがヒデさんを『しあわせ』にします」
「で、ヒデさんにもう一度『マットのおかげ』って感謝させます」
「休暇開けを楽しみにしててください」
ニッコリ笑ってそう言えば、マット先生はポカンとしていた。けどすぐに楽しそうに大笑いして「報告待ってるよ」って言ってくれた。
「大丈夫です」
「ボクには素敵なキューピッドと、頼りになる参謀がついてますから」
「ね」ってアンナさんに目をやれば「そのとおりよ!」ってアンナさんも笑った。
「このアンナ様が直々に指導したから! 西村先生なんてイチコロよ!」「報告楽しみにしてましょうねお義父さん!」
明るい笑いに包まれた車内で、ボクはココロが満たされていくのを感じた。
◇ ◇ ◇
ヒデさんが帰ってくる前にシャワーを済ませる。少しでも綺麗に思ってもらいたくて、髪を整えてお化粧も軽くした。香水も少しつける。白いドレスを身に着けておかしくないかと何度も鏡をのぞき込む。
落ち着かなくて家中を掃除した。ごはんはどうしようかな。誘惑するなら先に食べといたほうがいいかな。でもさっきのパーティーでたくさんいただいたからおなかへってない。
またおなかへったら考えよう。そう切り替えて、歯磨きをする。念入りに。口紅落ちたから塗り直す。
アクセサリーは「しなくていい」ってアドバイスされた。「西村先生に『器用にはずす』なんてテク求めてない」「アクセサリーつけなくても十分綺麗よ」って。
アンナさんに渡された避妊薬を念の為飲んで、コートを着たところで玄関のカギが開く音がした!
ドキドキしながらリビングで待ち構えてたら、どこか疲れ果てた様子のヒデさんが姿を見せた。
―――ああ。好き。
胸に灯りが灯る。
このひとが欲しいとどこかが訴える。
ボクに気付いて一瞬息を飲んだヒデさんは、すぐに顔を逸らした。ふてくされたみたいな、子供じみた態度。そんな態度がかわいく感じるなんて、ボク、おかしいのかな?
おかしくてもいい。ヒデさんが好きだから。
「ヒデさんおかえりなさい」
「……………ただいま」
小走りに寄ったら避けられた。背を向けて荷物を置くヒデさんに、敢えていつもの調子で話しかけた。
「答え、聞かせて?」
「……………風呂が先」
逃げられちゃった。
けどボクを意識してるのがボクでもわかる。あれは『子供』に対する反応じゃない。『庇護者』でも『年少者』でもない。『対等』な『異性』としての反応を示している。そんなわかりやすい反応をしてるヒデさんに勇気づけられる!
絶対逃さない。
今夜、決める!
ここがボクの運命の分岐点。
後悔しないように。機会を逃さないように。足掻く。
恥ずかしくなんかない。ボクのすべてはヒデさんに捧げるためのもの。勉強だってたくさんしてきた。座学だけだけど。実技はさすがにしてないけど。けどヒデさんも未経験だからボクの拙さに「気付かないだろう」ってみんなが言ってた。「大丈夫!」「勢いでどうにかなる!」って。
「マコトが先生をリードするのよ」って色々教わった。だから、大丈夫。大丈夫。
そう言い聞かせても胸のドキドキがおさまらない。むしろどんどんひどくなる。心臓が口から出てきそう。普段は気にならないシャワーの音がやけに大きく聞こえる。
どのくらい胸を押さえていたのだろう。気が付いたらシャワーの音がやんでいた。急いでコートを脱いで、そのまま待ってたけどヒデさんはなかなか来ない。落ち着かなくてソファに座ってじっと待った。
時計の秒針の音がやけに大きく響く。このおうち、こんなに静かだったかな。ボクの心臓の音も聞こえちゃわないかな。
そんな心配をしていたら、扉の開く音がした!
「ヒデさん」
思わず立ち上がったボクに、ヒデさんが息を飲んだ。
じっと見つめてくれてる。―――ううん。見惚れてくれてる! 目尻も、耳も赤く染めて。こんなヒデさん、初めて見た!
うれしくて近寄ろうとしたらヒデさんは突然ハッとして目を逸らした。そのまま身体の向きも変える。
「マコは風呂入ったのか?」
「先にいただいたよ」
「じゃあ、メシにしようか」
背を向けたままごまかすように普段どおりの態度を取ろうとするヒデさん。キッチンに逃げようとするから「待って」と声をかけた。
素直にその場にとどまるヒデさんに、一歩、近寄った。
逃がしてなんかあげない。ボクはあなたが欲しい。
「そのまえに、聞かせて」
「ボク、ヒデさんが好き」
「ヒデさんは?」
背中を向けたままヒデさんは黙っている。
なにも言わない、なにかを葛藤してるのがわかる背中に、話しかけた。
「どうしてもボクのこと、女性として見られない?」
「子供にしか見えない?」
敢えてそう言ってもなにも言わない。
「それなら、今回はあきらめる」
「無理矢理気持ちを押し付けることはしたくない」
静かに、残念そうに言えば、ヒデさんの背中がピクリと反応した。
アンナさん達の言うとおりだ。『押してばかりじゃダメ』『時には引くことも大事』
こんな駆け引きするボクは嫌いかな? でも、ゴメンね。もう逃がしてあげられない。
どんな手段を使っても。どれだけかかっても。
ボクは、あなたが欲しい。
「でも、これだけ聞かせて?」
「ボク、これからもヒデさんのこと、好きでいい?」
ヒデさんはなにも言わない。きっと色々考えて身動きとれなくなってる。だからボクから近づいた。
「―――寄るな」
「なんで?」
「―――なんでも」
「どうして?」
「どうしても」
静止の声は弱々しくて、ちっとも拒絶を感じない。子供が駄々こねてるみたいな言い草がかわいくて、そっと腕に触れた。
「ヒデさん」
ビクリと反応する様子がかわいくて「こっち向いて?」と腕を引っ張った。
無理矢理身体の向きを変えようとするボクに大人しく従うヒデさん。そんなに力入れてないから抵抗しようとしたらできるはずなのに。
そうしてようやく正面からヒデさんの顔を見れた。
ヒデさんは、真っ赤になってた。
その目がボクをとらえる。これまでに見たことのない、強い眼差し。
―――ああ。これが。
ゾクリ。どこかに痺れが走った。
『情欲に満ちた眼差し』『愛欲を映した目』そんな表現が大人向けの本にあった。
これだ。これがその目だ。
―――ああ。とらわれた。
胸がドクリと跳ねる。愛おしさに息が詰まる。
強い眼差しから目が離せない。全身が痺れる。
細胞のひとつひとつにまで歓喜が刻まれる。
「ヒデさん」
自分でも甘えきった声だと思った。
こんな声が出るなんて。
「答え、聞かせて?」
吐き出す息までも甘く感じる。脳髄が痺れる。触れている場所が熱くなる。もっと触れたくて奪いたくなる。苦しい。早く。早く。
ヒデさんはなにも言わない。ただ熱い眼差しでボクを貫くだけ。なにか葛藤してるのか口を引き結んで怒ったみたいな表情をしてる。息が乱れてる。
でもボクに怒ってるんじゃないってわかる。ボクが大切で、でも欲しいって思ってくれてて、だからこんな我慢してるってわかる。
きっと昔ならわからなかった。アンナさん達がたくさんの教材をもとに色々教えてくれたからわかるようになった。『ツンデレ』『こじらせ』色々教わった。だから自信をもって次の行動にうつせる。
「―――イヤだったら、突き飛ばして」
固まったままのヒデさんに、正面からそっと抱きついた。
さらにヒデさんが固まったのがわかった。そんなヒデさんがかわいくて愛おしくて、もっと腕に力を込めた。
身体が密着するだけでも満たされる。いつもしてもらうハグとは違う。熱くて熱くてとろけそう。
このまま次のステップに進もうとしたら、声がかかった。
「―――マコ」
「ヒデさん」
受け入れてくれるのかと期待を込めて呼び返したら、ヒデさんは苦しそうに吐き出した。
「駄目だマコ」
「なんで駄目なの?」
グッと歯を食いしばるヒデさん。痛そうな、苦しそうな表情。けど、ここであきらめるわけにはいかない。ボクは今からヒデさんの固定観念を壊すんだから!
「………年齢差がある」
「あってもいいよ」
すり、と広い胸に頬ずりをする。ボクに堕ちてと願いを込めて。
「年齢なんか関係ない。ボクは『あなた』が好きなんだから」
「もっとおじいさんでも、逆にすごく子供でも、きっと『あなた』ならなんでもいい」
「ヒデさん」
「ボクは、『あなた』が『好き』なんだ」
正直な気持ちを吐露した。ココロを込めて。『伝わって』と願いを込めて。
ヒデさんはほんのわずか震えていた。感動してくれてる? それとも、欲情してくれてる?
必死で深呼吸を繰り返すヒデさんはまだ『大人の顔』を取り繕おうとしてる。
「―――きみは、わかってないだけだ」
「きみはこれからもっとたくさんの人間に出逢う」
「同年代の男とも」
「老いていく俺よりも、これから出逢う若い男を選ぶ」
「それはないよ」
「だってボクの『唯一』は『あなた』だもん」
「他のひとなんてどうでもいい。あなたしかいらない」
「年齢が離れてても。おじさんでも。おじいさんでも」
「あなたが欲しい」
「あなただけが欲しい」
「―――『刷り込み』だ」
「『刷り込み』でも」
「ボクが望むのはあなただけだ」
ヒデさんの肩に頭を乗せてやりとりしてたけど、もうこれ以上は反論が出ないみたい。そっと顔を上げ、くっついたままヒデさんの目を見つめた。
『目は口ほどに物を言う』てホントなんだ。
こんなときなのに、そんなことを考えた。
ヒデさんの目は、訴えていた。『ボクが好き』だと。『ボクが欲しい』と。
その『欲』に。『熱』に。
ゾクゾクゾクーッ! 身体の芯が痺れた!
―――ああ。もう、我慢できない!
「ヒデさん」
「好き」
「おじさんでもおじいさんでも関係ない」
「あなたが好き」
皮膚が粟立つ。感情が口から勝手にこぼれ出る。
「ボクのこと、子供にしか見えないって思ってるなら、知って?」
「ボク、もう子供じゃない」
「あなたに並び立てるようにがんばったんだ」
「あなたに並ぶにはまだまだ足りないってわかってる」
「でも、守られるだけの子供でもないよ」
「大人の女性になったよ」
キスしようと顔を寄せたボクに、ヒデさんはあわてたみたいに首を振った。
「駄目だマコ」
「なんで?」
「駄目だ」
「どうして?」
ボクが望んでるのに。こんなにもあなたが欲しいのに。
「ボクが望んでるのに?」
「ヒデさんが言ったんだよ?『きみの望むとおりに』って」
「ボクはあなたが欲しい」
「だから―――いいでしょ?」
いつまでもウジウジ言い訳ばかりのヒデさんにしびれを切らし、強引に行くことにした。
抱擁を解いてヒデさんの首に腕をまわし、顔を近付けた。
あと一センチにも満たない距離まで近付いてもヒデさんは固まったまま。真っ赤な顔で、そのくせ欲情に満ちた目でボクを見据えてるから、かわいくておかしくて、気持ちがまた口からあふれた。
「―――ヒデさん」
「ボクの『唯一』」
「―――好き」
首にまわした腕でヒデさんを引き寄せ、ふたりの唇が重なった。
触れるだけのキス。それでも頭の先から足の先まで痺れが走った。拒絶されないことがうれしくて、恋人のキスをしていることがうれしくて、感動で身体中が熱くなった。
ちゅ、とリップ音を立てて離れ、またすぐに唇を重ねた。角度を変えて、何度も何度も唇を合わせた。
と、固まっていたヒデさんが再起動した。
ガバリと音がしそうなくらいボクの背中に腕をまわし、強く抱き締めてきた!
「―――俺が、どれだけ―――!」
うなるようなつぶやきのあと。
押しつけるような、噛みつくようなキスをされた。
求められてるとわかる乱暴なキスにココロが揺さぶられる! うれしくて愛おしくて、抱き締める腕にさらに力が入った。
「もう、遅いぞ」
唇が触れたままヒデさんがしゃべる。
「マコが、悪いん、だから、な」
触れた唇が官能を誘う。
「好きだ」
「好きだマコ」
キスをしながらヒデさんが言う。
初めてもらった言葉に、頭もココロも身体も全部が沸騰した。
「好きだ」
「俺のマコ」
「俺の唯一」
「逃さない」
「俺のものだ」
きつくきつく抱き締めて、ボクの後頭部を大きな手で支えて押しつけるようにむさぼるように唇を重ねるヒデさん。その必死さに、そのつたなさに、あっちもこっちもキュンキュンと締め付けられる!
口を開いて重なっているヒデさんの唇を舐めた。びっくりしたらしく圧迫がゆるんだ隙に舌をさらに這わせ、口を開くよう誘導する。
少し開いたそこに舌を入れれば、驚いたのか、抱き合っているヒデさんがビクリと反応した。けどそのままボクを受け入れてくれ、好きにさせてくれる。
これまで読んだ大人向けの本を参考に舌を動かした。舌が溶けるんじゃないかっていうくらい気持ちよくて、いつの間にか本の情報はどこかに行ってしまった。ただ夢中になってヒデさんをむさぼっていた。
ああ。ボク達、ひとつになってる。
重なる身体が。溶ける舌が。ふたりを溶かす。ひとつにする。
言葉にできない感動が全身を包む。もっともっと欲しいと欲が湧く。
されるがままだったヒデさんだったけど、すぐにボクに応えてくれるようになった。むしろボクより上手になって、優秀なひとはなんでもすぐに習得するんだなあなんて的外れなことが浮かんだ。
「マコ」
キスの合間にヒデさんがこぼす。
「好きだ」
これまで我慢してた分をあふれさせるみたいに。
「好きだ。マコ」
「マコ。マコ。俺のマコ」
強く強く求められる。歓喜に全部が痺れる。
「ヒデさん」
だからボクも伝える。正直に。いつわることなく。
「好き」
「好きだよ」
「ボクの唯一」
「あなたが欲しい」
「あなただけが欲しい」
「ボクの運命」
「ボクの唯一」
深い深い大人のキスを何度も重ね、その夜、ボクはヒデさんと結ばれた。
マコト、大人になりました……
次回からヒデ視点に戻ります
タガが外れケダモノになったヒデからです