【番外編9】西村秀智と『静原の呪い』9
念の為時系列の確認を
初対面から二年
クリスマスイブの告白から一年経過しています
ヒデ五十三歳、マコ二十一歳
冬季休暇に入る前日。
「ヒデさん!」
俺の研究室にかわいい子が飛び込んできた。
なにかと驚いていたら、かわいい子の後ろからマットとマットのところの研究員が続いた。
「見て!」と差し出された書類に何事かと受け取り目を通し―――。
「―――え??」
最初に書かれていたのは賞の名前。三十歳未満に参加資格のある数学賞。分野違いの俺でも知っている、昔マットも挑戦していた難関賞のひとつ。
次に書かれていたのはマコの名前。それから定型文か並び、最後に結果が記載されていた。
『最優秀賞』
信じられなくて、突然もたらされた紙に現実味を感じなくて、もう一度最初から読み直した。片手で持っていた書類を両手でつかみ、一言一句間違いのないよう確認した。
結果、理解した。
マコが。目の前にいるウチのかわいい子が。俺のマコが。難関賞の最優秀賞を、受賞した。
「―――マコ?」
かわいい子は得意なのを隠すことなく「受賞した!」と日本語で叫んだ。
自信に満ちた笑顔。ああ。きみはなんて眩しい。
「すごい!?」
『褒めて!』と全身で訴えてくる彼女。愛しくて眩しくて、感動に身体が震えた。
「―――すごい」
この賞の価値を知っている。どれだけ難関かも知っている。それを、ついこの間まで未成年だった女の子が受賞するなんて―――!
ああ。これか。年明けから忙しくしていた理由は。
こんなすごい賞を取るなんて。
「すごい」
「すごいよマコ」
「きみ、まだ二十一だよ!? なのに、こんな―――!」
声が震える。身体も震える。すごい。すごい!
やっぱりこの子はすごい子だった! 誇らしさと興奮で言葉が出ない。自分が受賞するよりうれしい。
涙がにじんできたのに気付いて目を押さえる。そのまま精神統一をして、どうにか興奮を落ち着けた。
手を下ろし、改めて彼女に目を向ける。誇らしげに微笑む彼女に、俺も笑みを浮かべた。
「おめでとう」
「おめでとうマコ」
日本語での言祝ぎに、彼女は頬を染め目を細めた。
手にした書類を彼女に差し出す。受け取った彼女はそれに目を落とし、そっと俺に目を向けた。
「これで『一人前』って認めてくれる?」
「―――!」
その眼差し。その表情。
―――まさか。
一年前のあのクリスマスイブの会話が頭に浮かぶ、涙を落とした彼女が浮かぶ。
「―――まさか―――」
―――俺のために―――?
俺に『一人前』だと、『異性』だと見てもらいたくて―――?
「『ひとりの対等な人間』として、見てくれる?」
彼女はずっと日本語で話をしている。それはつまり、周囲に聞かせたくないということ。
「マコ」
「ボク、がんばったんだ」
俺の呼びかけに、彼女は目を細めた。
ついこの間まで男の子みたいだったのに、自信に満ち余裕すら感じる笑顔は魅力的な女性にしか見えなかった。
「いっぱい勉強した。いっぱい考えた。たくさんのひとの話を聞いて、たくさんのひとに話を聞いてもらった」
「『視野が狭い』って言われたから、視野を広げるようにがんばった」
「『半人前』って言われたから、一人前って認めてもらうために数学賞に挑戦した」
「『広い世界を見ろ』って言われたからアンナさんにいろんなところに連れて行ってもらった。アンナさんやレットさんの友達と話をした。バイトも色々した」
「『刷り込み』って言われたから、あなたからなるべく距離を取った」
それは、あのときの俺の言葉を受けた彼女がこの一年間がんばってきたことを示していた。
―――俺のために。
そう思うだけで胸が熱くなる。歓喜に震える。
「それでも、やっぱり気持ちは変わらなかった」
「むしろ、もっと好きになった」
愛しい彼女は書類を持った両手を前で重ね姿勢を正し、まっすぐに俺に向き合った。
「西村秀智さん」
「あなたが好きです」
「ボクの唯一になってください」
「―――!!!」
息を飲む。眼鏡の奥の彼女の瞳から目を逸らせない。ああ。きみは、なんて。
とらわれた。
なんて甘美な『呪い』。
彼女の声が、言葉が、俺を縛る。
彼女の瞳が、笑顔が、俺を縛る。
この一年、彼女がなにかをがんばっているのは知っていた。なにをしているのか聞いても表面的なことしか教えてくれなかった。まさか俺に認めてもらうためだったとは。俺にこうして告白するためだったとは!
とっくに知っていた。きみが『一人前』だと。『ひとりの対等な人間』だと。『魅力的な女性』だと。だがそれを認めたら俺は自分を止められない。
きみには未来がある。先がある。それを俺が奪い取るなんて許されない。
なのに。
こんな短期間でその未来すら示してみせるのか。俺のために。俺に愛されるために。
なんてすごい。なんて愛おしい。俺のマコ。俺の唯一。
愛しい彼女に向けていた視界に自分の腕が入って、ようやく彼女に触れようと手を伸ばしていることに気が付いた。
ハッとしてあわててその手で口を押さえる。落ち着け。落ち着け。冷静になれ。深呼吸を繰り返していたらふと周囲が目に入った。
これまで彼女しか目に入っていなかった。が、ウチの所員もマットの連れてきた連中も、俺とマコのやりとりに注目していた。
日本語でのやりとりだったがわかるヤツにはわかる。実際目をまんまるにしているのが何人かいる。そしてマットはわかりやすくニマニマしている。マット研の連中なんて歓喜があふれ出ている。
そんな周囲に気付かないウチのかわいい子は、ただただ俺の反応を見つめている。俺の答えを待っている。真剣な表情に、どれだけ俺を想っているのか、愛しているのか伝わってくる。それがうれしくてたまらない。
だが。
チラリと右を見る。唖然としている者。なにを言っているのかとヒソヒソしている者。
左を見る。ニマニマしているマット。その後ろの連中もなんだかワクワクしたような表情をしている。
………マット研のヤツには事情が伝わってるのか。マコか? それともマットか? どちらにしても、余計なことを。
研究者達を目に入れているうちに冷静になった。『これから先』が考えられるようになった。
―――ここで告白を断るのは簡単だ。だが、それはマコに恥をかかせることになる。
それに俺が断ればマコは泣く。昨年だってあんなに泣いた。かわいい子の泣き顔を他の男に見せるなんて許せない。
……………ひとまず保留にすべきだな………。
息を吸い、長く吐いた。ため息同然のそれに彼女は不安そうに表情を曇らせる。
「―――日本語でまわりは理解できないとしても」
うつむいたままどうにか日本語で言葉を返す。
「今は答えたくない」
「答えは、帰ってからだ」
「断らないってことは、期待していい?」
「帰ってからだ」
きっぱりと言い切って顔を上げる。ジトリと周囲を見回し、うらめしげなのを隠すことなく彼女に目を向けた。
「こんな、大勢引き連れてきて」
「引き連れて来たわけじゃないよ? マット先生のところに通知が来たっていうから見に来て、そのままここに来ただけだよ?」
「そうだね。そうだろうね」
「はあぁぁぁ」と息を吐く。目の前では彼女とマットが英語でやりとりをはじめた。
「どうなったの?」「『答えは帰ってからだ』って」
キャッキャと楽しそうなマット研の一同に「クソ野郎どもめ」と悪態がこぼれ出た。
マコめ。いつの間にマットを味方に引き入れてたんだ。マット研のヤツらもマコの味方だな。これ俺が断ったら責められるヤツか? もしかして外堀埋められたんじゃないか!?
「ヒデ」
頭を抱えていたら、ニマニマしたままマットが声をかけてきた。
「こういうの『ネングの納め時』ていうんだろ?」
「余計な入れ知恵をしたのはおまえかマット」
恨み言をぶつけても目の前の男は平気な顔でニコニコしている。
「いつから知ってた」
「昨年末」
主語の無い問いかけにサラリと答えるマット。
「マコトに相談されてね。色々聞いたよ。色々」
あのクリスマスイブの告白拒否を受け、マットを味方に引き入れ協力を要請したのか。くそう。やるなマコ。
つまりマットにはマコが女性だとバレている。おそらくは奥さんにもマット研の連中にも。同時にマコが俺を『男として愛している』ことも伝わっているに違いない。マットの顔に書いてある。『事情はすべて知っている』と。
「おまえわかってんのか? マコの将来考えてんのか!?」
「もちろんわかっているとも」
笑顔の男はサラリと言い放った。
「独身を貫いていた友人がしあわせになるチャンスだとね」
「ふざけんな」
苛立ちをそのままマットに叩きつけた。
どれだけ俺が悩んだと思ってんだ。苦しんだと思ってんだ。どれだけの覚悟で諦めたと思ってんだ。俺がどれほど彼女を大切に想ってるか知ってんのか。
「年齢差を考えろ。世間体を考えろ。あの子の立場を考えろ」
「そんなものとっくに考えたさ」
ひょいと肩をすくめ、マットは笑う。
「けどいくら説得しても聞かないんだから。仕方ないじゃないか」
「それでも指導者か」
「言い聞かせろよ。論破しろよ」
「それはきみの役割だろ」
ニコニコ返してくるマットが憎たらしい。にらみつける俺に対しマットはいつもの調子のまま。
「ボクは『悪くない』と思うけど?」
あっさりと、簡単そうに言うマットに腹が立つ。俺がどれだけ悩んだと思ってんだ。どれだけ苦しんだと思ってんだ。痛む頭を押さえ、意識して呼吸を繰り返す。怒りを抑えろ。落ち着け。冷静になれ。そう思うのにイライラが収まらない。
「―――許されるわけないだろ」
「誰の赦しが必要だと言うんだい?」
吐き捨てるような俺に対し、マットは慈愛に満ちた声で返してきた。
それこそ神父のような笑みを浮かべ、俺を諭してくる。
「マコトは実力を証明した。未来への道を自らつかんだ。一人前だと証明してみせた。他に何が必要だ?」
「年齢差は」
「そんなものは些細なことさ」
「世間体は」
「無視すればいい」
俺の苦悩をマットは即座に斬り捨てる。いっそ軽快なほどに。
「法律的にも、宗教的にも、なにも悪いことはない」
「マコトは成人している。きみも成人している。どちらも未婚で、現在お付き合いしている相手もいない。
ならば、ふたりが付き合うことはなにも問題ないと思わないかい?」
ケロリと言い切るオッサンをにらみつける目に怒りが乗る。「おおこわ」わざとおびえるジェスチャーをするから余計に腹が立つ。
「俺の意思は」
「そんなの聞くまでもないだろう?」
「何年の付き合いだとおもってるんだい?」
マットが笑う。ひとの良い顔で。
悔しいやら嬉しいやら照れくさいやら恥ずかしいやらで、どんな顔を作ればいいのかわからない。ただにらみつける俺にマットはあきれたようにため息をついた。
「素直になりなよ」
「ボクは祝福するよ」
「ボクだけじゃない。シャーリーも息子達も、ウチの研究員も。みんな、君達が『しあわせ』になることを願っている」
善意しかない男に二の句が継げない。くそう。これだから根っからの善人は厄介なんだ! 正論でぶん殴ってきやがる。無意識に反論も敵意も封じてきやがる!
「―――マコの『しあわせ』はどうなる」
「きみと結ばれることこそがマコトの『しあわせ』だろ?」
絞り出すように出した反論も即斬り捨てられる。
「数学者としての未来は」
「明るいよ。この賞の価値を理解できない人間なら、数学者の看板を下ろしたほうがいい」
「これからもっとふさわしい男に出逢う可能性が」
「きみ以上の男なんて、それこそどこにいるというんだい?」
「俺はもう五十過ぎたオッサンだ」
「だからこそ。十代二十代の若造じゃあ、きみに太刀打ちできないだろうね」
彼女を諦めた理由までもマットは軽々と斬り捨てる。
………口だけの言葉でないとわかる。こいつは心底そう思っていると伝わってくる。だからこそ、凝り固まった俺のココロにじわりと染み入る。
むすっとしたまま黙っていたら、マットは笑みを苦笑に変えた。
「きみ、知らないの? きみ、昔っから女性にモテモテじゃないか」
「は?」
「今だってきみ狙いの女性、いっぱいいるよ? 同年代だけじゃなくて、それこそ十代二十代の娘さん達もきみを狙ってるよ」
「は???」
発言の意味がわからなくてポカンとした、その一瞬。
「きみとマコトは、結ばれてもいいんだよ」
「ボクが赦す」
隙を突かれた。
マットの善意が鋭い矢となり、胸のどこかに刺さった。
「可能性なんてね。『可能性』でしかないんだよ」
「『可能性』とは、無限に広がる選択肢。それはあくまでも『選択肢』であって、選び取れると確定しているものじゃあない」
「たくさんの出会いと経験が『可能性』を増やしていく。そのひとの『願い』と選択と努力がそのひとの『道』となる」
「ボクらだってそうやって選択と努力を重ねて、今ここにいる」
「ありもしない『可能性』ばかりを見つめ、今目の前にあるチャンスを捨てるなんて、愚かだと思わないかい?」
「目の前のチャンスを捨てることが危険回避になる、さらなる可能性を伸ばす。きみのその意見も確かに正しいよ? けれど、目の前のチャンスを掴むことで新たな可能性が生まれることだって、あるじゃないか」
理路整然と語るマット。数学と哲学は似ているとよく聞く。今のマットはまさに哲学者然としていて、つい耳を傾けてしまう。
「マコトは強くなった」
「きみのために強くなった」
「もうボクらが保護しないといけなかった弱々しい子供じゃない」
「ひとりの立派な成人だ」
マットの言葉が俺の殻にヒビを入れる。俺のココロを守ってきた殻を。彼女を傷つけないためにナニカを封じていた殻を。
「ひとりの数学者として保証するよ」
「今のマコトは、一人前の数学者だ」
「マコトの後見人として認めるよ」
「きみにならば、マコトを託せる」
「きみにしか、マコトを任せられない」
「マコトを『しあわせ』にしてやっておくれ」
真摯なまなざしが俺を貫く。
果てのない善意が俺の殻をぶん殴る。
「三十年来の友人として、言うよ?」
ただ黙っている俺にマットはひとの良い笑みを向ける。
「きみは最高の男だ」
「ボクの自慢の友人だ」
「どこに出しても恥ずかしくない。誰に対しても胸を張って紹介できる。自慢の友人だ」
「三十歳歳下の人物と結ばれてもそれは変わらない」
不覚にも目の奥がじわりと熱くなる。ココロが緩んだその隙にマットはさらに言葉を投げかけてきた。
「きみがこれまでも『しあわせ』だったと理解しているよ」
「ボクもきみと同種の人間だからね」
「だからこそ、ボクは『願う』よ」
「ボクがシャーリーにもらった『しあわせ』を、きみも得られることを『願う』よ」
意味を脳とココロが咀嚼している俺に、マットは善意しかない笑顔を浮かべ、言った。
「マコトに『しあわせ』にしてもらいな」
絶句する俺にニンマリと笑いかけ、マットはマコに顔を向けた。
「頼むねマコト」「ボクの大切な友人を『しあわせ』にしてやってね」
「はい!」じゃないわマコ。なんだその良いお返事は。涙ぐんでんじゃないぞ。そんなかわいい顔すんな他の男がいるだろうが。
感極まったマコが神父のようなマットとハグをする。マット研の連中が拍手をするもんだから意味がわからないウチの連中までつられて拍手をしている。
ハッと状況に気付き、ザッと引いた。完全に外堀を埋められた。やられた! マットめ!
こいつはいつもそうだ。善意で殴ってきやがる。善良な気質でもって周囲を思い通りにしやがる。そのくせ本人は無意識無自覚なのが腹が立つ!
「待て!」思わず叫び立ち上がった。
「俺の意思を無視するな!」
全員の注目の中叫んだ。が、マットは「いまさらナニ言ってんの」と笑い飛ばしやがる。
「マコは『これから』の人間だ」「俺に縛るわけにはいかない」
「だから関係ないって」「きみに縛られててもマコトは活躍するよ」
「そもそもきみにマコトを縛れるわけないじゃないか」
「どう見たって縛られてるのはきみのほうだよ」
きっぱりと言い切られ、ぐうの音も出ない。そうなのか!? 俺、そんなにわかりやすいのか!?
動揺が顔に出たのだろう。マットがニマニマと勝ち誇った笑みを浮かべた。
「そんなに『マコトのことが大切だ』って示しておいて、いまさらナニ言ってんだい」
「それは、守護者として」
モゴモゴとした反論をマットは笑い飛ばす。
「もう認めなよ」
「あきらめな」
「自分のココロに正直になりなよ」
ニマニマと、軽ーく言う。
その軽快さが、また殻にヒビを入れる。
「―――おまえになにがわかる」
「少なくとも友人の本心はわかってるつもりだよ」
吐き出す言葉も即返される。
なにか言わなくてはと思うのに言葉にならない。ココロのどこかがグラグラと揺らぐ。ナニカを封じていた殻にヒビが入る。
俺は余程うろたえていたのだろう。マットは『やれやれ』と言わんばかりに両手を上に上げ肩をすくめた。
マコと目を合わせ、マット研の連中とも肩をすくめ合い、腹が立つイイ笑顔で俺の両肩に手を置いた。
「仕方ないじゃないか。マコトが『きみしかいらない』と言うんだから」
「男冥利に尽きるね」
「おめでとう」
「……………クソ野郎」
言祝ぐ友人にそう返すしかできなかった。
そんな俺にマットはただ楽しそうに笑いやがった。
◇ ◇ ◇
賑やかな連中が去り、ただ頭を抱えていた。
マットの言葉がココロのどこかを揺さぶる。まとっていた殻がひび割れる。
『赦す』マットは言った。
だからってそれをそのまま鵜呑みにできるわけがない。マットに赦されたからといってそれがなんだというんだ。
けれどマットの話は俺の凝り固まった考えにヒビを入れるのに十分なもので、どこか納得できるものばかりだった。
いいのだろうか。あの手を取っても。
赦されるのだろうか。彼女を求めても。
そんな考えが浮かぶ。が別の自分が即座にそれを否定する。『甘えたことをぬかすな』と。『護るんじゃなかったのか』と。
こんなときに相談に乗ってくれ弱音を吐かせてくれる連中が今はいない。どうすればいいんだ。なにを選ぶのが正解なんだ。
うんうんと悩んでいる間に何人もがやって来た。今日はいわゆる仕事納め。明日から冬季休暇とあって、よその研究室の人間や関わりのある職員が挨拶に来てくれた。
「愛してるからこそ身を引くのも美しいですが、結ばれてもいいと思います!」
「西村室長は若く見えますから! 歳の差は気にしなくていいですよ!」
「おしあわせに!」
なんで誰も彼も訳知り顔で祝福してくんだよ。どこまで話が広がってんだ。所長まで「悪くないと思うよ」なんて言いに来やがった。
そうかと思えば「ずっと好きでした」「ぽっと出の若い子でなく自分を選んでください」なんてのも湧き出た。女だけでなく何故か男も。若いのから同年代、少し上まで。なんだよモテ期かよ。
外堀は完全に埋められた。どうすればいいんだ。
悩んでいても時間は経つ。終業の時間になり、重い身体をひこずりながら帰路についた。
その道中も何人もに声をかけられる。「良いお年を」だけでいいんだよ。「応援してます!」「おしあわせに!」なんていらないんだよ。
どいつもこいつも、ひとの気もしらないで。くそう。腹が立つ。
帰宅した俺を出迎えたのはマコひとりだった。全員帰国したんだから当然だ。この状況でふたりきりなんて、拷問かよ。
そこまで考えてようやく気付いた。連中もグルだ。こうなることを予想してふたりきりになれるよう仕向けやがったな。くそう。
彼女は何故かコートを着たまま。もしかしたら彼女も帰宅したばかりなのかもしれない。認識阻害のかかった眼鏡をはずしている。となるとあの目を見たら終わりだ。
わざと視線を合わさないよう、ぶっきらぼうな態度を取っていたら彼女から声をかけてきた。
「ヒデさんおかえりなさい」
「……………ただいま」
ととと、と小走りに寄って来たのをわざと避け荷物を置く。そんな態度の悪い俺に、マコはいつもの調子で話しかけてくる。
「答え、聞かせて?」
「……………風呂が先」
逃げるように風呂場へ行く。いやわかっている。逃げだ。少しでも時間稼ぎをしようと。
シャワーを頭から浴び、冷静になろうと努める。誰が何と言おうと駄目だろう。あの子の実力は本物だった。ならばなおさら俺に縛り付けてはいけない。
頭ではわかっている。なのに感情が、魂が歓喜に震える。
そこまで俺を求めてくれたことに。どこまでも俺を愛してくれることに。
どうしたらいい。どうするのが正解だ。
あの子の未来を考えたら俺と結ばれるのは悪手だ。必ず下衆な人間が彼女を批判し侮辱する。彼女に才能があるからなおのこと。
こういう場合、男よりも女性のほうがダメージが大きい。こんなスキャンダルであの才能を潰すわけにはいかない。だから俺は彼女を拒絶しなければならない。わかっている。わかっている。
なのに。
魂が求める。餓えるように彼女を求める。欲しい。欲しい。魂が叫ぶ。
あの肢体を抱き締めたい。匂い立つ身体を抱きたい。組み敷いて俺のものにしたい。彼女のすべてを俺のものに、俺のすべてを彼女のものにしたい。
欲望が際限なく湧く。こんなことは初めてで感情制御がままならない。必死で霊力を循環させ冷静になろうとしているのに効果がないように思える。
魂が歓喜に震える。ひとつになりたいと叫ぶ。だが。
落ち着け。理性的になれ。彼女はまだ若い。これからがある。
いくら俺を好きだと言ってくれても、手を出していい存在じゃない。三十歳以上の年齢差は格好のスキャンダルだ。彼女の道を穢す。
わかっている。わかっている。それなのに。
「ヒデさん」
風呂場から出ると、ソファに座っていた彼女が立ち上がった。ついその姿を目にしてしまい、息を飲んだ。
いつかの白いドレス姿。かわいくて愛おしくて我慢が効かなくなりそう。ああ、これを着ていたからコートを着てたのか。
見惚れていることにハッと気付き、あわてて目を逸らす。ついでに身体の向きも変える。
「マコは風呂入ったのか?」
誤魔化すようにたずねれば「先にいただいたよ」と答えが返ってきた。
「じゃあ、メシにしようか」
逃げるようにキッチンに向かおうとしたら「待って」と声がかかった。
足が止まった。マコは呪術なんて使えないはずなのに。『言霊』に縛られたように身動きが取れなくなった。
「そのまえに、聞かせて」
「ボク、ヒデさんが好き」
「ヒデさんは?」
彼女に顔を合わせることができなくて、進行方向を向いたままじっとしていた。彼女からの視線を感じる。じっと俺を見つめている。そうわかっても、わかっているから、顔を向けることができない。
「どうしてもボクのこと、女性として見られない?」
「子供にしか見えない?」
動かない俺に彼女は静かに言葉をつむいだ。
「それなら、今回はあきらめる」
「無理矢理気持ちを押し付けることはしたくない」
「でも、これだけ聞かせて?」
「ボク、これからもヒデさんのこと、好きでいい?」
なおも答えられない俺に、彼女が動いたのがわかった。一歩、二歩と近寄ってくる気配に、たまらず声をかけた。
「―――寄るな」
「なんで?」
「―――なんでも」
「どうして?」
「どうしても」
やりとりする間も彼女は俺の背後から近寄る。匂い立つ香りに脳髄が揺さぶられる。愛おしさに目眩がする。女の色香をまとった成人女性に、理性が抗えない。
「ヒデさん」
ついに彼女がそっと俺の腕に触れた。それだけでビクリと反応してしまう。十代の若造のような反応に自分でも恥ずかしく思いながらも抵抗できない。
「こっち向いて?」
腕を引っ張られ、無理矢理身体の向きを変えさせられる。そうして正面から彼女と対峙することになった。
目を合わせないようにしていたのに、向きを変えられた拍子に合わせてしまった。
吸い込まれるような瞳。眩しいくらいの輝きを持った瞳。
―――ああ。駄目だ。とらわれた。
胸がドクリと跳ねる。愛おしさに息が詰まる。
「ヒデさん」
『名』を呼ばれただけで全身が痺れる。歓喜に魂が震える。
「答え、聞かせて?」
甘えた声に。甘えた眼差しに。
欲しくなる。奪いたくなる。俺のものだと叫びたくなる。
だが駄目だ。彼女には未来がある。『これから』がある。俺が手折っていい存在じゃない。
きみが大事なんだ。大切なんだ。なんでわかってくれない。なんで自ら沼に堕ちるようなことをする。
そう言いたいのに声が出ない。ただ目の前の女性にとらわれている。愛おしくて息もできない。
「―――イヤだったら、突き飛ばして」
イヤなわけあるか。突き飛ばすなんてできるわけがないだろう。
彼女はそっと俺に抱きついた。
抱き締めたいのを必死でこらえる。
なのに彼女は俺にまわした腕に力を込めた。
ぎゅっと抱きつかれる。彼女の身体が密着する。そのニオイが鼻腔をくすぐる。心臓だけでなく魂までも鷲掴みにされたように胸が痛い。胸が苦しい。それでも最後のギリギリの一線で踏み止まった。
「―――マコ」
「ヒデさん」
「駄目だマコ」
「なんで駄目なの?」
必死で拳を握った。手を出してはいけない。彼女はこれからのひとだ。俺が穢してはいけない。念仏のようにそう唱える。
「………年齢差がある」
「あってもいいよ」
すり、と頬ずりをされる。それだけで身体の中に稲妻が駆ける。
「年齢なんか関係ない。ボクは『あなた』が好きなんだから」
「もっとおじいさんでも、逆にすごく子供でも、きっと『あなた』ならなんでもいい」
「ヒデさん」
「ボクは、『あなた』が『好き』なんだ」
バチバチと閃光が弾ける。身体中が痺れる。知らず震える俺の身体をマコがさらに強く抱き締める。くらりと倒れそうになるのを必死でこらえ、深呼吸を繰り返す。
「―――きみは、わかってないだけだ」
「きみはこれからもっとたくさんの人間に出逢う」
「同年代の男とも」
「老いていく俺よりも、これから出逢う若い男を選ぶ」
「それはないよ」
「だってボクの『唯一』は『あなた』だもん」
「他のひとなんてどうでもいい。あなたしかいらない」
「年齢が離れてても。おじさんでも。おじいさんでも」
「あなたが欲しい」
「あなただけが欲しい」
「―――『刷り込み』だ」
「『刷り込み』でも」
「ボクが望むのはあなただけだ」
俺の肩に頭を乗せていた彼女はそっと顔を上げた。くっついたまま俺の目を見つめてくる。その瞳の輝きにまたもとらわれる。
まるで『魅了』。
とらわれて、奪われる。
「ヒデさん」
「好き」
「おじさんでもおじいさんでも関係ない」
「あなたが好き」
「ボクのこと、子供にしか見えないって思ってるなら、知って?」
「ボク、もう子供じゃない」
「あなたに並び立てるようにがんばったんだ」
「あなたに並ぶにはまだまだ足りないってわかってる」
「でも、守られるだけの子供でもないよ」
「大人の女性になったよ」
じっと見つめていた瞼を伏せ、顔を寄せてくる。なにをしようとしているのか察せられ、つい引き寄せられそうになる。が、すんでのところでハッと気付き首を振った。
「駄目だマコ」
「なんで?」
「駄目だ」
「どうして?」
熱のこもった眼差しにクラクラする。ああ。きみはいつの間にこんな目を覚えたのか。
「ボクが望んでるのに?」
「ヒデさんが言ったんだよ?『きみの望むとおりに』って」
「ボクはあなたが欲しい」
「だから―――いいでしょ?」
抱擁を解いた彼女は両腕を上げ、俺の首に腕をまわしてきた。顔がより近づく。
いつの間にこんなに魅力的になったのか。蠱惑的とはこのことか。蜜をまとう華のよう。絡め取られ、身動きもできない。
「―――ヒデさん」
「ボクの『唯一』」
「―――好き」
首にまわされた腕に引き寄せられ、背伸びした彼女と唇が重なった。
―――理性が、どこかに吹き飛んだ。
次回からマコ視点でお送りします