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【番外編8】立花礼香と巡り来た春 11

 あれから毎日指輪に『祈り』を込めている。

『霊力を込める』よりも『祈りを込める』イメージのほうが「入りがいい」と竹さんに指摘され、それからは『祈り』を込めるようになった。


『ふたりの指輪』になりますように。

 雄介さんとしあわせになれますように。

 今日も無事に終わりますように。


 これまで十四年半ほぼ毎日念じていた「何事も起こりませんように」「今日も無事終わりますように」「無事に終われてありがとうございました」も指輪とお守り袋を握って念じるようになった。


 朝起きて。帰宅して。寝る前に。指輪とお守り袋を握って念じることは毎日のルーティンに組み込まれた。

 食前に。食後に。ふとしたときに。服の上から指輪を押さえ、念じるようになった。


『ふたりの指輪』になりますように。

 雄介さんとしあわせになれますように。

 今日も無事に終わりますように。



 毎日毎日積み重ねている甲斐があったのか、二か月置きに確認してくださる竹さんによると「とっても順調」とのこと。

「せっかくだから宝石のついた指輪もやりますか?」と提案されたけど、あれは雄介さんの霊力だけがいい。だって雄介さんが私にプロポーズしてくれた特別な指輪だから。

 そんなことをしどろもどろに伝えたら、竹さんはキラキラした表情で「そうですね!」と納得してくれた。隣のトモさんがニヤニヤしてるのがなんか腹立つんですけど。そして雄介さん。両手で顔を隠しても真っ赤な耳が見えてるわよ。プルプル震えてるの丸わかりよ。愛おしい婚約者に私まで赤くなってしまった。


 その竹さんは何故か私に気を許してくださっていて「礼香さんが来られるの、楽しみです」なんて言ってくださる。

 トモさん竹さんも新居を建てようと住宅展示場周りをしているところで「坂本さんの家を参考にしたい」と話を聞きたがってくださる。どこの家具屋にどんなものがあった、こんな家電が欲しい、動線は、なんて話で盛り上がり、ご一緒する機会が増えていった。



   ◇ ◇ ◇



 時々お互いの実家に行くこともある。結婚式や新居の相談をしたり、甥姪と遊んだり、戦闘訓練をしたり。少しずつ『家族』になっていく感じがする。


 トモさんが『対価』の話を広げてくれたらしく、私が『竹様のお世話係』として『トモさんに命じられて差し出される』話を聞かされた。

「雄介が不甲斐なくてごめんねぇ」とお義母さんに謝られた。

 実際は『竹さんと仲良くしてください』と『お願いされた』んだけど、そんなことは口が裂けても言えない状況。


 どうもトモさん、安倍家内部――特に実働部隊のひとから、鬼や悪魔のように思われているみたい。「北の姫様のそばにはあのひとがいるでしょ」「あんな恐ろしいひとのそばに行かないといけないなんて」と随分同情された。

 他人の嫁を『差し出せ』なんて理不尽な命令も「あのひとならやりかねない」と納得されていた。

 新居の場所も「あのひとが無理矢理近くにさせた」という話になっていて、最初は長男なのに実家に同居しないことも近所に居を構えないことも一部から不満やお叱りの声があったのに、皆さん「あのひとに命じられたら断れないよね」とすっかり同情的になってしまった。


「大変ね」「がんばって」「困ったことがあったら相談してね」

 そこまで同情されると逆にこわいんですけど。

 けどまあこれもトモさんの計算のうちなんだろう。

「ありがとうございます」「がんばります」としおらしく答えておいた。




 毎日毎日結婚式と新生活に向けたあれこれで忙しくしていた。そんな中でも仕事は変わらず緊張感を持って取り組んだ。プライベートと仕事は別。私の一瞬の油断が菊様のお生命に関わる。

『いつもどおり』をつつがなく『いつもどおり』に。

 いつか白露さんに聞いた言葉を胸に、護衛として菊様のおそばについていた。



   ◇ ◇ ◇



 九月。

 菊様が十八歳を迎えられた。


 推薦入試本番まであと少しとなっており、毎年開いていたお誕生日パーティーはご本人の希望でナシとなった。

 入試関係で菊様と若旦那様若奥様はお忙しそう。それでも私のやることは変わらない。ただ御身をお守りするだけ。外出時。車の乗降時。細心の注意を払い、安全に過ごしていただくだけ。


 退職まであと半年。最後の最後まで油断しない。

 私は変わらず緊張感を持って菊様のおそばについていた。



   ◇ ◇ ◇



 十月になってすぐのある日。


 いつものように出勤し、いつものように着替えようと更衣室に入った。着替えといっても私の自宅は神代家に仕える独身者が多く暮らすマンションで、会社からは歩いてすぐ。だからいつも自宅から黒スーツで出勤し、更衣室で防弾防刃チョッキをはじめとする装備を身に着け、その上に上着を着るだけ。


 いつものように上着を脱いで、防弾防刃チョッキを着ようと手を伸ばした。


 その途端。


 ふうっ、と。闇が、降りた。


 なんでかわからない。なにかわからない。突然、背後から黒い布をかけられたかのような感覚があった。

 それが私を包んだ。瞬間―――


 ―――ゾワゾワゾワゾワーッ!!


 どこからかもわからない怖気(おぞけ)が身体中から湧き出した!

 防弾防刃チョッキ。なんのために。身を守るために。


 ―――『死』が身近にあるから。

 死ぬ可能性があるから。


 いつ何時なにがおこるかわからない。なにかあった場合にはこの身とこの生命を投げ出し盾にして時間をかせぐしかない。そのための防弾防刃チョッキ。そのための即座に本部に連絡が行く防犯ブザーと証拠動画を録画できるアクセサリー。


 ―――突然。本当に突然。

 防弾防刃チョッキの向こうに、血塗れで倒れた自分がみえた。


 震えが止まらない。怖くてたまらない。

 死ぬの? 私、死ぬの?

 これまで一度もイメージしたことがないのに!

 これまで一度も考えたことないのに!!

 なんで今日に限ってこんな、こんな!


 死ぬ覚悟はできていたはずだ。それが護衛の仕事と幼い頃から叩き込まれていた。護衛対象を守るため、最悪はこの身を盾にしろと。

 なのに。理解していたはずなのに。覚悟はできていたはずなのに!

 なんでこんな、なんでもないときに、こんなに恐怖に襲われるの!?


 こわい。こわい。こわい。

 死にたくない。生きていたい。

 この身を投げ出すなんてできない。こわい。死にたくない。

 そんなんじゃ駄目。護衛なんだから。護衛対象を守るのが仕事なんだから。

 でもこわい。死にたくない。こわい。こわい。雄介さん。雄介さん!


「立花!!」

 強く揺さぶられ、ハッとした。顔を上げると数人の女性が私を取り囲んでいた。先輩女性護衛の友田さんが私の肩をつかんでいる。隣で支えてくれているのは一年後輩の上原。


「しっかりしろ」「どうした」「体調不良?」色々聞いてくれるけど声も出ない。椅子に座らされて、立っていたはずなのに座り込んでいたことにようやく気が付いた。

「これじゃあ護衛につけない」「社長に報告」周りがそんなことを言っているのを聞くともなしに聞いていた。その間も震えが止まらない。こわくてこわくて自分をぎゅっと抱き締めて身を縮めていた。


「レーカ」

 やさしい声に顔を上げる。白露さんがいた。

 いつもどおりの美しすぎるお顔に笑みを浮かべ、やさしく頭を撫でてくれた。


「これ飲みなさい」

 差し出してくれたポットを受け取ろうとしたけれど、手が出ない。身体が動かない。ガタガタ震えて「あ」「う」と意味のない音を出すしかできなくて、情けなくて涙が落ちた。


 なんで。なんでこんな。こんな、突然に。


 意味がわからない。こわい。病気なの? なんか攻撃されたの? こわい。こわい。わかんない。こわい。死にたくない。こわい。


 白露さんはじっと私を見つめていた。私が動けないと察してくれたらしく、私を支えてポットを口に運んでくれた。

「ゆっくり飲むのよ」と声をかけてくれ、私の口に液体を注ぎ入れた。

 緑茶だ。温かい。どういうわけかフッと楽になった。

 けどまたすぐに恐怖が襲いかかる。闇が私を包み込む。

 白露さんはどこから出したのか大きな布で私をぐるぐる巻きにして、お姫様抱っこで救護室のベットへと運んだ。

「私、姫を学校に送り届けてくるから」「戻ったら話をしましょう」「それまで寝ておきなさい」

 そう言った白露さんが私の目を手でおおった。

 ぐらりとした感覚のあと、どこかに堕ちていった。



   ◇ ◇ ◇



「レーカ」

 声に意識が引っ張られた。重い瞼を無理矢理開くと白露さんがいた。


「レーカは今『恐怖』にとらわれている」白露さんは言った。


「こればかりは自分で乗り越えるしかない」

「誰もが一度は通る道」「死ぬことがこわくない人間なんかいない」「これまでは『こわい』と考える余裕もなかっただけ」「余裕ができて、ゴールが近づいて、ココロにホンのわずかな隙間ができた」「これまでのレーカには『大切なもの』がなかった」「坂本という『死にたくない理由』ができた」「坂本が『未練』と『生への執着』になった」「それが『恐怖』を呼び起こした」


 白露さんが説明してくれてもこわくてこわくて涙が止まらない。


「しばらくは休みなさい」「身体を休めて、ココロも休めて」「姫の護衛は私がつくから大丈夫」


「この『恐怖』を乗り越えるか。このまま引退するか。それはあなた次第」

「誰も強制できない」「復帰できなくても、それは決して『逃げ』じゃない」「レーカがこれまでがんばってきたことは消えない」


「レーカはがんばってきた」

「だからもうがんばらなくてもいい」

「けれど、あなたはそれでいいの?」


「『護衛の誇り』を失ってもいいの?」

「負けっぱなしでいいの?」


「あなたは強いコ」「私は知ってる」「誠実に、努力を続けてきたコ」

「『本当に守りたいモノ』のためなら、あなたは立ち上がれる」


「今はゆっくりしなさい」

「頭カラッポにして。ココロもカラッポにして。ゆっくり休みなさい」

「たくさん休んだら、今度はいっぱい食べなさい」

「おなかもココロも満たしなさい」

「それからどうするか、また話し合いましょう」


 ただただ白露さんの声を聞いた。言葉は聞こえてるのに理解できなかった。こわくて、こわくて、ただただ涙が落ちた。



 白露さんのあとも何人もが顔を出してくれた。


「立花は入社してすぐに専属につけられたからね」友田さんが言う。

「普通は本社の警備から始まって少しずつレベルアップしていくのに、新兵がいきなり激戦の最前線に連れて行かれたようなもんだもんね」「ココロが追いついてなかったのね」「気付かなかった」

「女性はどうしても生理周期とかホルモンバランスとかで感情が揺らぐ」「今日はダメでも少ししたら大丈夫になるかもしれない」「しばらくゆっくり休みなさい」


「俺も恐怖で動けなくなった時期があった」

 兄もわざわざ顔を出してくれた。

「俺だけじゃない。大の男でも何人もがおまえのようになった」「おまえだけじゃない」

「これを乗り越えてこそ一人前というひともいる」「乗り越えてきたやつは何人もいる」「俺だってそのひとりだ」「だからおまえも大丈夫だ」

「ちいさな子供の頃からおまえはがんばってきた」「おまえが頑張り屋なことは知っている」「がんばってきたからからこそ、今こうなったのかもしれない」

「怖くていいんだ」「『怖さ』を知っているヤツほど強い」「『怖さ』を知っている護衛ほど優秀だ」

「今は休め」「あせることはない。おまえなら必ず乗り越えられる」


 でも先輩。こわいです。死にたくないです。

 でも兄さん。こわいの。もうがんばれない。


 子供みたいに丸くなって泣いた。こわくて泣いた。情けなくて泣いた。泣いて泣いて泣いて、いつの間にか眠りに沈んでいた。



 物音に気付いて目を開ける。社長がいた。

「具合はどうだい?」

 ああ。謝らなきゃ。シフトに穴を開けた。

「ごめ、い、わ……」

 謝罪の言葉は声にならない。「ああ、いいよ。そのままで」社長は気を遣って起き上がろうとした私を横に戻した。

「こうなる者はたまに出る」「どんな屈強な者でも、どんなベテランでも」「しばらくは休みなさい」「菊様には白露さんと私からご報告している」


 そう言われてハッとした。菊様。菊様に謝罪をしなければ。

 ベットから出て立とうとしたのに膝から崩れてしまった。座り込んだまま動かない足を叱咤しても震えるだけ。拳で殴っても動かない。

 なんで!? なんでうごかないの!?

 涙を落とし自分の足を殴る私を社長が止める。「無理は駄目だ」と言う。


 だけど私は菊様の専属護衛なのに。ずっと物心つく前から護衛になるために育てられてきたのに。盾となって死ぬ覚悟だってあると思ってたのに。


 なんでこんなにこわいの? 弱くなったの? 駄目になったの?

「違うぞ礼香」父の声が言う。

「理由なんてない。誰が悪いのでもない」

「これはおまえが乗り越えなければならない『壁』だ」

「誰もが乗り越えてきた『壁』だ」


「今は帰ろう」そう言われてようやく目の前に父がいることに気が付いた。

「家に帰ろう」


「立てるか」父が支えてくれてどうにか立てた。情けなさにまた涙が落ちた。


「……………きくさまに、謝罪を……………」そう願ったら「今後の話もあるから」と社長と父が同行してくれた。


 ちょうど学校から帰宅されたところだった。ほぼ半日私は救護室にいたらしい。

 神代家のご自宅にお伺いし、帰宅直後の菊様にお目通りが叶った。


「白露から話は聞いている」菊様はおっしゃった。

「立花を責めるつもりはない」「北林も他の者も責めるつもりはない」

「この職種には『よくあること』だと白露も言っていた」

「今後について話がしたいけれど、今は時間がない」

 今日はお稽古の日。もうお出かけにならないといけない時間だった。

「急いで戻ってくるから。しばらく下で待っていなさい」「自宅(ここ)の応接室で待つよりはいいでしょう」そう指示され、本社の休憩スペースでお帰りを待つことになった。


「北林と立花は勤務時間外になるでしょ。帰っていいわ」菊様に言われた社長と父は、それでも私を休憩スペースの目立たない席に座らせて側にいてくれた。

 父が自動販売機で温かいココアを買ってくれた。子供扱いにおかしくなったけれど、温かくて甘い飲み物は冷え切った身体とココロに沁みた。


 ちびちびとココアを飲んでいたら、社長と父がご当主様に呼び出された。どうも私のことの説明を求めておられるらしい。大事な菊様の専属護衛が突然行動不能になったとあってご心配をおかけしているらしい。

「ここにいろ」と念押ししてふたりはご当主様のもとへと向かった。


 終業時間が近い時間とあって、休憩スペースのひとはまばら。それでも数人が飲み物片手に打ち合わせをしたり休憩したりしている。本社はいろんな部署があっていろんなひとがいる。スーツのひと、シャツにスラックスのひと、服装も色々。そんなひとたちをぼんやりと見ていて、ふと、彼の姿が浮かんだ。


 姿勢の良い立ち姿。作業着にスニーカー。丁寧な仕事をするひと。仕事に誇りを持っているひと。


 ―――顔向けできない―――


 情けない自分にまた涙が落ちそうになった。人前だとどうにかこらえるけれど、今にも嗚咽がこぼれそう。

 反射的に胸を両手で押さえ、うつむいた。


 胸を押さえるとそこに指輪があるのがわかる。

 雄介さんが作ってくれた指輪。『ふたりの指輪』にするために育てている指輪。


 竹さんがおっしゃった。「『大好き』や『うれしい』の気持ちを込めるのもいい」

 なら今は駄目だ。こんな弱い気持ちを込めたら駄目だ。

 けど。


《―――雄介さん―――》


 やさしくて。頼もしくて。大人で。


《―――雄介さん―――!》


 大好きなひと。支えてくれるひと。支えたいひと。


《―――雄介さん―――!!》


 苦しい。つらい。こわい。

 支えて。『名』を呼ばせて。

 呼ぶだけだから。今だけ呼ばせて。


 死にたくない。あなたと生きたい。あなたのそばで生きたい。

 私は弱くなったの? こわくてこわくて苦しいの。なんでこんなになったの? 私が弱いから?


 嗚咽を我慢して胸を押さえていた私に「どうしました?」「大丈夫ですか?」と近くを通ったひとが声をかけてくれる。『大丈夫です』と言わないといけないのに声が出ない。雄介さん。雄介さん。助けて雄介さん。


《―――礼香!!》


 頭の中に声が響いた!

 途端!

 バチバチバチィッ! 身体を電撃が走った!


《すぐ行く! そこで待ってて!》


「……………ゆう、す、け、……さん……?」


 ぽろり。こぼれた声に自分でも驚いた。あれだけ声が出なかったのに。

 うつむいたままパチパチとまばたきをする。なんだろう。ウロコが落ちていくみたいに視界がクリアになっていく。

 ゆっくりと身体を起こす。座った状態で上半身が膝につくくらい倒れ込んでいた。

「あれ? 菊様の護衛の方!?」「大丈夫ですか!?」声をかけてくれていたひとにようやく「大丈、夫、です」と答えられた。


「まだ顔色悪いですよ」

「救護室行きますか?」

「―――ご心配を、おかけして、すみません。大丈夫ですので―――」

 そう話していた、そのとき。


「こんなところにいたのか」

 突然男の声が休憩室に響いた。

 誰に言ってるのかと顔を向けたら、会いたくもない男がいた。


 若旦那様の側近のひとり。クズ田。――じゃない。楠田。

 誰に用があるのかと思っていたら、楠田はまっすぐに私の前に立った。―――私?


「こんなところでなにをしている」

 上からの偉そうな台詞にムッとする。なんでそんなことを言われるのか意味がわからなくて気持ち悪い。

「男をはべらせて、どういうつもりだ」

 はべらせて? 私を心配して声をかけてくれていた、この若手男性社員ふたりのこと? 思わずふたりと顔を見合わせてしまった。ふたりもキョトンとしている。


「―――まあいい。来い。結婚の話を進めるぞ」

「―――はあ?」


 突然意味のわからないことを言い出す勘違い男。

「若旦那様から『止まっていた結婚話を進めろ』と言われた」


「護衛できなくなったんだろう」

 ザッと青ざめたのが自分でもわかった。

 どこからそんな話を。若旦那様? 兄? 誰でもいい。

 足元が崩れる感覚。胸にぽっかり穴が空いた感覚に、押さえたままだった指輪を服の上からぎゅうっと握りしめた。


「護衛なんかさっさと辞めて嫁に来い」

 馬鹿にしたような顔に腹が立つ。なんだこいつ勝手なことを。

 ムカついてにらみつけた。けど、こちらが歳下だからか女だからか、男は舐めきって偉そうにしている。


 心配して付き添ってくれていた若手男性社員。

「―――お付き合いを?」ひとりがコソリと耳打ちしてくれたので首を横に振る。

 ふたりは目配せをし、ひとりがスッと下がった。そのまま休憩室を出ていく。人事部のひとか上のひとを呼んできてくれるんだろう。


 馬鹿な男はそんな彼を『自分にビビって逃げた』と思ったらしい。もうひとりの男性社員に「おまえも逃げてもいいんだぞ」と意味不明にあおる。

 けど男性社員のほうが上手だ。「楠田さんがこちらの女性とお付き合いしてたとは知りませんでしたー」と引き伸ばしにかかった。

『ありがとう』と目でお礼を言えば目で『大丈夫』と励ましてくれる。


 馬鹿な男はおだてられたとでも思ったのか、ありもしない妄想を語り始めた。曰く「ずっと前から結婚の話があった」「お互い仕事が忙しくてなかなか実現しなかった」「私が男を好き」「菊様の護衛から解任されるまで待ってやっている」

 聞くに耐えない妄想に吐き気がする。ムカついているのに胸に空いた穴から気力とか気合いとかが抜けていく。

 悔しい。こんなやつ、普段だったら一撃で()してやるのに。


 ぎゅう。指輪を握っている手を強く握り締めた。

 雄介さん。雄介さん。勇気を分けて。

 立ち上がる勇気を。負けない勇気を!


《礼香!!》

 頭の中に声が響く。誰よりも大切な、大好きなひと。

《礼香!!!》

 勇気が胸の穴を埋めていく。立ち上がる気力をくれる。


 うつむき、瞼を閉じた。雄介さんの笑顔が浮かぶ。やさしい笑顔。大好きな笑顔。

 ―――ありがとう。勇気、もらった!


 顔を上げ、ギッと勘違い男をにらみつける! 少しは覇気が乗ったようで男はムッとした。

「なんだその生意気な目は」

「躾が必要だな」

「調子に乗るなよ。――礼香」



『名』を呼ばれた、途端。



 言葉にできない怒りが、()いた。



『死』の恐怖をも吹き飛ばす怒り。

 恐怖で崩落した場所が沸き出した熱いマグマで埋められる。

 グツグツドロドロしたソレは紅炎(プロミネンス)のように時に噴き上がり弾ける。私の魂を鼓舞する!


 あれだけ動かなかった身体に熱が行き渡る。

 あれほど凍りついていたココロが溶けて熱く爆ぜる!


 ああ。本当だ。「『名』は『魂』に近い」

 だからこんなにも怒りが沸くんだ。


 やさしい笑顔が私を呼ぶ。甘やかに。宝物のように。

 私の『名』。彼と交わした、大切な『名』。



『「護衛の誇り」を失ってもいいの?』

『負けっぱなしでいいの?』


 良くないです白露さん。


『あなたは強いコ』『私は知ってる』『誠実に、努力を続けてきたコ』

『「本当に守りたいモノ」のためなら、あなたは立ち上がれる』


 ―――そうだ。立ち上がれ!『守りたいモノ』のために!


 白露さんの言葉が背中を押す。紅炎(プロミネンス)が噴き上がり弾ける。私の魂を鼓舞する!

 負けない。負けない! 立ち上がれ!



 目の前の男をにらみつける。


 その『名』は彼に許したものだ。おまえが呼んでいいものではない。

 恐れるな。『死』を。死ぬよりも恐ろしいことが、許せないことがある。

 奮い立て! 暴挙を許すな!『死の恐怖』など燃やし尽くせ!



 震えていた手を拳に握る。ギュッ! 震えない。チカラが戻っている。大丈夫。戦える。私は戦える!


 戦え! 私の『誇り』にかけて!




「―――『名』を呼ぶな」


「はあ!?」と偉そうな男をにらみつけ、立ち上がった!


「勝手に私の『名』を呼ぶな!」

「あなたには私の『名』を呼ぶ許可を出していない!」


「はあぁぁあ!?」

 いきり立つ男に構わず叫んだ。魂から噴き上がる熱のまま。


「まだ勘違いしてるんですか!? あなたとの見合い話がはるか昔に出たことはありますが、見合いすることもなく立ち消えてますよ!」

「私があなたを『好き』!? 妄言も大概にしてください!」


 私の大声に休憩室だけでなく廊下を行くひとも足を止めて注目している。けど関係ない! こいつは許さない!


「勝手に私の『名』を呼ぶな!」

「あなたに呼ばれるだけで気持ち悪い!!」


 叫ぶ私に「なにをぉぉ!」と男は顔を赤くした。

「俺は若旦那様の側近だぞ!」

「だからなんですか!」

「お、お、おまえなんか若旦那様に言ってクビにしてもらうからな!」

「できるもんならどうぞ! てか、『若旦那様』『若旦那様』って、子供か!」

「な、な、な」

「これまで何人そうやってイジメてきた! 卑怯者! 人間のクズ!」

「―――このぉぉお!」


 バッと男が片手を振り上げた。殴りかかるの丸わかりの行動。腕を取って背負投げしてやろうと待ち構えていたら。


「いでっ! いだだだだだ!」

 振り上げた腕が男の背中に回った。そのままねじられていく。

 誰がと男の背後を見たら―――。


「―――雄介さん!?」


 汗だくの雄介さんが男を拘束していた。初めて見る冷たい表情。このひと静かに怒るひとなんだ。威圧がもれてちょっとコワイ。けどカッコいい!!!


「え!? なんで雄介さんがここに!? 社員じゃないのに」

 ついそう問えば「私がお連れしました!」と女性社員が手を挙げた。受付の荒川さん!?


「菊様からご指示がありました。『坂本という男性が立花さんを訪ねて来られたら、最優先でお通しするように』と!」


 なんで?

 よくわからないけれど、雄介さんがここまで立ち入れた理由はわかった。


 その雄介さんはいつもの作業着にスニーカー、ボサボサの髪。けど目が違う。カッコいい。初めて見る戦闘モードに、こんなときなのに胸がキュンとした。


「―――今、なにをしようとしていましたか」

 怒りを抑えているとわかる、いつもより低い声。いやぁ! カッコいいぃぃぃ!


「なんだおまえ!」「離せ!」暴れるクズもなんのその。完璧な拘束。護衛のお手本にしたいくらい。

 あ。誰かが呼んだのかしら。警備担当者達が来た。騒ぎの中心に私を見つけ、目が合った。ハンドサインで『待機』『若旦那様』『連れてきて』と指示。向こうからも『了解』のハンドサインが返ってきて、ひとりは別方向に走った。

 兄の手下のひとりが残った。すぐに雄介さんに気付いて無線でなんか連絡してる。どうせ「立花のアニキの義弟(おとうと)さんが例のクズ制圧してるぞ!」とかでしょう。

 騒ぎに気付いたひとがひとりふたりと足を止めひとを呼び、休憩室の中も外も人だかりができている。けど背を向けているクズは気付かない。


「雄介さん。離してやって」お願いすれば『ホントに大丈夫?』と目で確認してくる。『大丈夫』とうなずけば、ようやく雄介さんはクズから手を離した。

 ポイッとクズを投げ捨てた雄介さん、すぐに私に駆け寄った。


「礼香、無事!?」

「大丈夫。でもどうして――」

 小声でやりとりしていたら、ぽろりと涙が落ちた。雄介さんが来てくれて安心したのかな。

 あわてて涙を拭こうとしたら雄介さんに止められた。ポケットからタオルを出して頭からかけてくれた。そうしてタオルの端で私の目元を拭いてくれた。やさしく、やさしく。親指でぬぐうように。


「遅くなって、ごめん」


 痛そうな顔でやさしい言葉をかけられたら、もう駄目だった。

 人前とか本社とか全部吹っ飛んで、雄介さんにしがみついて泣いた。

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